氷華に届く一太刀
翌朝。
ハヅキ家の訓練場には、夜の冷気がまだ薄く残っていた。
白砂に囲まれた石畳の中央で、テンカとエリシアが向かい合っている。
テンカの腰にあるのは継火ではない。
刃を潰した模擬刀だ。見た目と重さは太刀に近いが、人を斬ることはできない。
対するエリシアは、何も持っていない。
淡い銀白色の髪を朝風に揺らし、胸の前で両手を重ねている。
刀を持つテンカとは違い、構えだけを見ても、どの距離から何を仕掛けてくるのか分からない。
昨日は頼もしかった冷気が、今は自分へ向けられている。
そう思うと、胸の奥が静かに高鳴った。
「昨日の今日です。本来なら、許可するつもりはありませんでした」
二人の間に立つコトネが、静かに告げた。
その背後には審判を務めるクレハ。
訓練場の端には、キリカとレオノーラが並んでいる。
「ですが、互いの技量を知ることには意味があります。条件を守るならば、手合わせを許します」
コトネの視線が、まずテンカへ向いた。
「火行は禁止。継火も使用しないこと」
「承知しております」
次に、エリシアへ。
「術の威力は、直撃しても怪我を負わせない範囲に抑えること。急所へ届く攻撃は、必ず寸止めにしなさい。制御を失った時点で中止します」
「承知いたしましたわ」
「勝敗は一本、場外、降参のいずれか。クレハが危険と判断した時点で、即座に中止します」
「はい」
「ええ」
返事だけは、二人とも素直だった。
「姫さま」
訓練場の端から、キリカが声をかける。
「昨日、治癒師から休むように言われたことをお忘れではありませんよね」
「忘れてはおらぬ」
「では、どうして模擬刀を握っておられるのでしょう」
「手合わせは鍛錬ではなく、交流じゃ」
「言い換えても鍛錬です」
レオノーラも、隣で小さく息を吐いた。
「エリシア様も、くれぐれも無茶はなさらぬように」
「もちろんですわ」
「昨日も同じことをおっしゃいました」
「昨日は、少々事情が違いましたもの」
キリカとレオノーラが顔を見合わせる。
二人とも、主人の返事をまったく信用していない顔だった。
エリシアの視線が、テンカの腰へ向く。
「継火でなくても、よろしいのですか?」
「そなたが見たいのは、継火ではなく、わらわの剣であろう?」
「……ええ。よくお分かりですこと」
エリシアの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「では、存分に拝見いたしますわ」
「見るだけで終わらぬよう、気をつけることじゃな」
「それはこちらの台詞ですわ」
コトネは二人を見比べ、訓練場の端へ下がった。
許可はしたが、遊びとして見守るつもりはないらしい。
クレハが二人の間に立つ。
「互いに礼を」
テンカとエリシアは、相手から目を離さないまま一礼した。
クレハが二人の間から下がった。
「準備はよろしいですね」
テンカは左足を前へ出し、鞘へ添えた左手を腰に引く。
エリシアは半身となり、右手を静かに持ち上げた。
「始め!」
声と同時に、テンカは地を蹴った。
まずは間合いを詰める。
氷術師を相手に距離を取る理由はない。遠くにいればいるほど、エリシアの術を自由に使わせるだけだ。
「アイスアロー!」
澄んだ声が響き、空中に六本の氷矢が生まれた。
テンカは柄へ手をかける。
だが、氷矢はテンカを狙っていなかった。
三本が足元へ。
二本が左右の石畳へ突き刺さる。
砕けた氷が白い霜となって広がり、テンカの前に滑る足場を作った。
さらに一本が遅れて飛び、テンカの肩口へ迫る。
テンカは鞘ごと模擬刀を持ち上げた。
氷矢を正面から受けず、鞘の丸みで横へ滑らせる。矢は石畳へ落ち、そこにも新たな霜を広げた。
―わらわを射るつもりではない。
―わらわが進む場所を、先に奪っておる。
踏み込んだ右足がわずかに滑る。
その瞬間、足元の霜が生き物のように盛り上がった。
「フロストバインド!」
白い氷が足首へ絡みつく。
テンカは水行を脚へ巡らせた。
止めようと力を込めれば、足を取られる。凍った地面へ逆らわず、滑る方向へ重心を預ける。
身体が横へ流れた。
拘束が閉じる直前に足を抜き、その勢いのまま前へ出る。
「そう来ますのね」
エリシアの手が動いた。
「アイスウォール!」
透明な氷壁が、テンカの正面へ斜めに立ち上がる。
ただ塞ぐための壁ではない。
右へ進めば場外に近づき、左へ進めばエリシアから遠ざかる角度。
「面倒な壁じゃな」
テンカは模擬刀を抜いた。
氷壁を力任せに砕けば、足を止めることになる。
ならば、受け止めない。
「水行――蒼流」
髪の先が、わずかに蒼く揺れた。
模擬刀の刃筋が、氷壁の表面へ沿う。
斬るのではなく、流す。
刃を滑らせながら身体を低く沈め、壁の傾きそのものを足運びへ利用する。
足裏を刺す冷たささえ、前へ進む流れへ変える。
氷壁の端を抜け、再びエリシアへ向かう。
「見事ですわ」
「褒めるには、まだ早いぞ」
間合いまで、あと四歩。
エリシアは退かない。
代わりに、二枚目の氷壁を立ち上げる。
今度は正面。
続けて左右。
三枚の壁が、テンカを囲むように現れた。
抜け道は狭い。
そして、その狭い場所へ進めば、次の術を置かれる。
テンカは足を止めた。
「どうしましたの?」
「ずいぶんと、わらわの剣を見ておるな」
「見るための手合わせですもの」
エリシアの視線は、模擬刀だけを追っていない。
腰の沈み。
鞘の向き。
前足の位置。
視線の先。
抜刀する前の動きから、刃が通る場所を読んでいる。
ならば、読ませればよい。
テンカは模擬刀へ金行を薄く巡らせた。
黒髪の一房が、淡い白金を帯びる。
硬くするためではない。
意識と刃筋を、ただ一点へ収束させる。
三枚の氷壁が触れ合う場所。
分厚く見えて、その実、異なる流れが重なる継ぎ目。
テンカは刀を振るった。
乾いた音が響く。
模擬刀の切っ先が、三枚の氷壁の継ぎ目を正確に穿つ。
支え合っていた均衡が崩れ、すべての壁へ同時にヒビが走った。
「氷そのものではなく、繋ぎ目を……」
「硬いものほど、すべてが硬いわけではない」
一歩、踏み込む。
ヒビ割れた氷壁が左右へ崩れ落ちた。
エリシアまで、あと二歩。
今度こそ届く。
そう思った瞬間、エリシアが両手を重ねた。
「アイスブルーム」
訓練場に、白い花が咲いた。
一輪。
テンカが最初に踏み込んだ場所へ。
二輪。
氷壁を回り込んだ足元へ。
三輪、四輪。
これまで氷矢が突き刺さり、霜が残った場所から、透き通る花弁が次々と開いていく。
細い氷脈が花と花を結んだ。
前も、横も、後ろも。
昨日は、核へ至る道を示してくれた氷華。
同じ術が敵に回れば、こちらの道を奪う檻となる。
気づけばテンカは、白い花の檻の中にいた。
「最初から、これが狙いか」
「あなたがどこを通るか、見せていただいただけですわ」
エリシアが指先を閉じる。
氷華が一斉に花弁を持ち上げ、テンカの退路を塞いだ。
「これで、あなたの道はありませんわ」
「ならば、作ればよい」
テンカは模擬刀を鞘へ納めた。
氷青色の瞳が、わずかに細まる。
昨日の封瘴室で、エリシアは見ている。
テンカが鞘へ納めた後、どのように踏み込み、どの線へ刃を通したか。
右足を引く。
腰を落とす。
左手で鞘を押さえる。
正面の氷華を抜刀で断つ。
そう見える構え。
エリシアの意識が、テンカの柄と前足へ集まる。
正面に新たな氷壁が立ち上がった。
鯉口が鳴る。
エリシアの氷青色の瞳が、正面へ向けられた。
氷壁の厚みが増し、その後ろでは新たな氷槍まで形を取り始めている。
その瞬間。
テンカは抜かなかった。
左手で鞘をわずかに前へ送り、右へ抜くと見せかけて身体を反対側へ沈める。
「なっ……」
エリシアが初めて声を乱した。
―抜く前から、勝負は始まっておる。
テンカは水行を足元へ巡らせた。
氷脈へ足を乗せ、その滑りに身体を預ける。
正面ではなく、斜め前へ。
そこに咲いていた氷華の根元へ、金行を巡らせた鞘を打ち込んだ。
花が砕ける。
氷脈の一部が途切れ、花の檻に一瞬だけ隙間が生まれた。
テンカはその隙間を滑り抜ける。
砕けた花弁の間を黒髪が流れた。
抜けた時には、すでにエリシアの間合いの内側だった。
「取ったぞ、エリー」
「まだですわ!」
エリシアの前に、一本の氷槍が生まれる。
「アイスランス!」
鋭い穂先が、テンカの正面へ突き出された。
テンカは半身となる。
氷槍が肩口すれすれを抜け、冷気が頬を刺した。
右手が柄を握る。
左手が鞘を引く。
抜刀。
模擬刀が白い軌跡を描き、エリシアの肩口で止まった。
届いた。
だが同時に。
首筋へ、冷たい気配が触れている。
テンカは視線だけを動かした。
背後から伸びた細い氷の穂先が、首へ触れる寸前で止まっていた。
あと指一本分でも前へ出ていれば、冷たい切っ先が肌へ届いていた。
正面の氷槍は囮。
先ほど途切れたはずの氷脈が、地面の下でなお繋がっていたのだ。
「そこまで!」
クレハの声が響く。
模擬刀と氷槍が、同時に止まったまま静寂が落ちる。
クレハは二人の位置を確認し、告げた。
「テンカ様の刃は、エリシア様の肩へ届いています。同時に、エリシア様の氷もテンカ様を捉えている。双方、一本。引き分けです」
テンカはゆっくりと模擬刀を下ろした。
首筋にあった氷槍も、白い光となって崩れていく。
「背後とは、性格が悪いのう」
「正面からあなたの刀へ挑むほど、わたくしは愚かではありませんわ」
「次は斬る」
「次は、間合いへ入れさせませんわ」
二人はしばらく睨み合い、やがて同時に息を吐いた。
「長引けば、わらわの足場はすべて奪われておった」
「一度間合いへ入られれば、正面からでは止められませんでしたわ」
互いに、自分の届かなかった場所を認める。
エリシアは戦場全体を氷で支配し、相手の進む道を奪う。
テンカは閉ざされた道のわずかな綻びを見つけ、一点へ刃を届かせる。
戦い方は、まるで違う。
クレハは、氷華が咲いた跡と、そこを斬り抜けたテンカの足運びを見渡した。
その口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「エリシア様は道を奪い、テンカ様はその綻びへ刃を通す。敵に回せば互いに厄介。並んで戦えば、もっと厄介ですね」
「クレハ。それは褒めておるのか?」
「最大限に」
訓練場の端では、キリカとレオノーラが揃って安堵の息を吐いていた。
コトネは何も言わない。
ただ、模擬刀を納めるテンカと、氷を消したエリシアへ一度ずつ視線を向け、ほんのわずかに頷いた。
エリシアがテンカへ手を差し出す。
「次は、わたくしが勝ちますわ」
「それはこちらの台詞じゃ」
テンカはその手を取った。
昨日は、戦い終えたエリシアを立たせるために握った手。
今日は、互いを好敵手と認めるために握る。
氷華へ届いた一太刀。
黒髪の姫へ届いた、冷たい切っ先。
勝者は、どちらにもいなかった。
それでも二人は、不満そうな言葉とは裏腹に、どこか満足そうに笑っていた。
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