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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第3章 継火と氷華
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氷華に届く一太刀

 翌朝。

 ハヅキ家の訓練場には、夜の冷気がまだ薄く残っていた。


 白砂に囲まれた石畳の中央で、テンカとエリシアが向かい合っている。


 テンカの腰にあるのは継火ではない。

 刃を潰した模擬刀だ。見た目と重さは太刀に近いが、人を斬ることはできない。


 対するエリシアは、何も持っていない。

 淡い銀白色の髪を朝風に揺らし、胸の前で両手を重ねている。


 刀を持つテンカとは違い、構えだけを見ても、どの距離から何を仕掛けてくるのか分からない。

 昨日は頼もしかった冷気が、今は自分へ向けられている。

 そう思うと、胸の奥が静かに高鳴った。


「昨日の今日です。本来なら、許可するつもりはありませんでした」


 二人の間に立つコトネが、静かに告げた。


 その背後には審判を務めるクレハ。

 訓練場の端には、キリカとレオノーラが並んでいる。


「ですが、互いの技量を知ることには意味があります。条件を守るならば、手合わせを許します」


 コトネの視線が、まずテンカへ向いた。


「火行は禁止。継火も使用しないこと」

「承知しております」


 次に、エリシアへ。


「術の威力は、直撃しても怪我を負わせない範囲に抑えること。急所へ届く攻撃は、必ず寸止めにしなさい。制御を失った時点で中止します」

「承知いたしましたわ」


「勝敗は一本、場外、降参のいずれか。クレハが危険と判断した時点で、即座に中止します」

「はい」

「ええ」


 返事だけは、二人とも素直だった。


「姫さま」


 訓練場の端から、キリカが声をかける。


「昨日、治癒師から休むように言われたことをお忘れではありませんよね」

「忘れてはおらぬ」

「では、どうして模擬刀を握っておられるのでしょう」

「手合わせは鍛錬ではなく、交流じゃ」

「言い換えても鍛錬です」


 レオノーラも、隣で小さく息を吐いた。


「エリシア様も、くれぐれも無茶はなさらぬように」

「もちろんですわ」

「昨日も同じことをおっしゃいました」

「昨日は、少々事情が違いましたもの」


 キリカとレオノーラが顔を見合わせる。

 二人とも、主人の返事をまったく信用していない顔だった。


 エリシアの視線が、テンカの腰へ向く。


「継火でなくても、よろしいのですか?」

「そなたが見たいのは、継火ではなく、わらわの剣であろう?」

「……ええ。よくお分かりですこと」


 エリシアの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


「では、存分に拝見いたしますわ」

「見るだけで終わらぬよう、気をつけることじゃな」

「それはこちらの台詞ですわ」


 コトネは二人を見比べ、訓練場の端へ下がった。

 許可はしたが、遊びとして見守るつもりはないらしい。


 クレハが二人の間に立つ。


「互いに礼を」


 テンカとエリシアは、相手から目を離さないまま一礼した。


 クレハが二人の間から下がった。


「準備はよろしいですね」


 テンカは左足を前へ出し、鞘へ添えた左手を腰に引く。

 エリシアは半身となり、右手を静かに持ち上げた。


「始め!」


 声と同時に、テンカは地を蹴った。


 まずは間合いを詰める。

 氷術師を相手に距離を取る理由はない。遠くにいればいるほど、エリシアの術を自由に使わせるだけだ。


「アイスアロー!」


 澄んだ声が響き、空中に六本の氷矢が生まれた。


 テンカは柄へ手をかける。


 だが、氷矢はテンカを狙っていなかった。


 三本が足元へ。

 二本が左右の石畳へ突き刺さる。


 砕けた氷が白い霜となって広がり、テンカの前に滑る足場を作った。

 さらに一本が遅れて飛び、テンカの肩口へ迫る。


 テンカは鞘ごと模擬刀を持ち上げた。

 氷矢を正面から受けず、鞘の丸みで横へ滑らせる。矢は石畳へ落ち、そこにも新たな霜を広げた。


 ―わらわを射るつもりではない。

 ―わらわが進む場所を、先に奪っておる。


 踏み込んだ右足がわずかに滑る。


 その瞬間、足元の霜が生き物のように盛り上がった。


「フロストバインド!」


 白い氷が足首へ絡みつく。


 テンカは水行を脚へ巡らせた。

 止めようと力を込めれば、足を取られる。凍った地面へ逆らわず、滑る方向へ重心を預ける。


 身体が横へ流れた。

 拘束が閉じる直前に足を抜き、その勢いのまま前へ出る。


「そう来ますのね」


 エリシアの手が動いた。


「アイスウォール!」


 透明な氷壁が、テンカの正面へ斜めに立ち上がる。


 ただ塞ぐための壁ではない。

 右へ進めば場外に近づき、左へ進めばエリシアから遠ざかる角度。


「面倒な壁じゃな」


 テンカは模擬刀を抜いた。


 氷壁を力任せに砕けば、足を止めることになる。

 ならば、受け止めない。


「水行――蒼流」


 髪の先が、わずかに蒼く揺れた。


 模擬刀の刃筋が、氷壁の表面へ沿う。

 斬るのではなく、流す。


 刃を滑らせながら身体を低く沈め、壁の傾きそのものを足運びへ利用する。

 足裏を刺す冷たささえ、前へ進む流れへ変える。

 氷壁の端を抜け、再びエリシアへ向かう。


「見事ですわ」

「褒めるには、まだ早いぞ」


 間合いまで、あと四歩。


 エリシアは退かない。

 代わりに、二枚目の氷壁を立ち上げる。


 今度は正面。

 続けて左右。


 三枚の壁が、テンカを囲むように現れた。


 抜け道は狭い。

 そして、その狭い場所へ進めば、次の術を置かれる。


 テンカは足を止めた。


「どうしましたの?」

「ずいぶんと、わらわの剣を見ておるな」

「見るための手合わせですもの」


 エリシアの視線は、模擬刀だけを追っていない。


 腰の沈み。

 鞘の向き。

 前足の位置。

 視線の先。


 抜刀する前の動きから、刃が通る場所を読んでいる。


 ならば、読ませればよい。


 テンカは模擬刀へ金行を薄く巡らせた。

 黒髪の一房が、淡い白金を帯びる。


 硬くするためではない。

 意識と刃筋を、ただ一点へ収束させる。


 三枚の氷壁が触れ合う場所。

 分厚く見えて、その実、異なる流れが重なる継ぎ目。


 テンカは刀を振るった。


 乾いた音が響く。

 模擬刀の切っ先が、三枚の氷壁の継ぎ目を正確に穿つ。

 支え合っていた均衡が崩れ、すべての壁へ同時にヒビが走った。


「氷そのものではなく、繋ぎ目を……」

「硬いものほど、すべてが硬いわけではない」


 一歩、踏み込む。


 ヒビ割れた氷壁が左右へ崩れ落ちた。


 エリシアまで、あと二歩。


 今度こそ届く。

 そう思った瞬間、エリシアが両手を重ねた。


「アイスブルーム」


 訓練場に、白い花が咲いた。


 一輪。


 テンカが最初に踏み込んだ場所へ。


 二輪。


 氷壁を回り込んだ足元へ。


 三輪、四輪。


 これまで氷矢が突き刺さり、霜が残った場所から、透き通る花弁が次々と開いていく。


 細い氷脈が花と花を結んだ。


 前も、横も、後ろも。


 昨日は、核へ至る道を示してくれた氷華。

 同じ術が敵に回れば、こちらの道を奪う檻となる。


 気づけばテンカは、白い花の檻の中にいた。


「最初から、これが狙いか」

「あなたがどこを通るか、見せていただいただけですわ」


 エリシアが指先を閉じる。


 氷華が一斉に花弁を持ち上げ、テンカの退路を塞いだ。


「これで、あなたの道はありませんわ」

「ならば、作ればよい」


 テンカは模擬刀を鞘へ納めた。


 氷青色の瞳が、わずかに細まる。


 昨日の封瘴室で、エリシアは見ている。

 テンカが鞘へ納めた後、どのように踏み込み、どの線へ刃を通したか。


 右足を引く。

 腰を落とす。

 左手で鞘を押さえる。


 正面の氷華を抜刀で断つ。


 そう見える構え。


 エリシアの意識が、テンカの柄と前足へ集まる。

 正面に新たな氷壁が立ち上がった。


 鯉口が鳴る。


 エリシアの氷青色の瞳が、正面へ向けられた。

 氷壁の厚みが増し、その後ろでは新たな氷槍まで形を取り始めている。


 その瞬間。


 テンカは抜かなかった。


 左手で鞘をわずかに前へ送り、右へ抜くと見せかけて身体を反対側へ沈める。


「なっ……」


 エリシアが初めて声を乱した。


 ―抜く前から、勝負は始まっておる。


 テンカは水行を足元へ巡らせた。

 氷脈へ足を乗せ、その滑りに身体を預ける。


 正面ではなく、斜め前へ。


 そこに咲いていた氷華の根元へ、金行を巡らせた鞘を打ち込んだ。


 花が砕ける。

 氷脈の一部が途切れ、花の檻に一瞬だけ隙間が生まれた。


 テンカはその隙間を滑り抜ける。


 砕けた花弁の間を黒髪が流れた。

 抜けた時には、すでにエリシアの間合いの内側だった。


「取ったぞ、エリー」

「まだですわ!」


 エリシアの前に、一本の氷槍が生まれる。


「アイスランス!」


 鋭い穂先が、テンカの正面へ突き出された。


 テンカは半身となる。

 氷槍が肩口すれすれを抜け、冷気が頬を刺した。


 右手が柄を握る。

 左手が鞘を引く。


 抜刀。


 模擬刀が白い軌跡を描き、エリシアの肩口で止まった。


 届いた。


 だが同時に。

 首筋へ、冷たい気配が触れている。


 テンカは視線だけを動かした。


 背後から伸びた細い氷の穂先が、首へ触れる寸前で止まっていた。

 あと指一本分でも前へ出ていれば、冷たい切っ先が肌へ届いていた。


 正面の氷槍は囮。

 先ほど途切れたはずの氷脈が、地面の下でなお繋がっていたのだ。


「そこまで!」


 クレハの声が響く。


 模擬刀と氷槍が、同時に止まったまま静寂が落ちる。


 クレハは二人の位置を確認し、告げた。


「テンカ様の刃は、エリシア様の肩へ届いています。同時に、エリシア様の氷もテンカ様を捉えている。双方、一本。引き分けです」


 テンカはゆっくりと模擬刀を下ろした。

 首筋にあった氷槍も、白い光となって崩れていく。


「背後とは、性格が悪いのう」

「正面からあなたの刀へ挑むほど、わたくしは愚かではありませんわ」

「次は斬る」

「次は、間合いへ入れさせませんわ」


 二人はしばらく睨み合い、やがて同時に息を吐いた。


「長引けば、わらわの足場はすべて奪われておった」

「一度間合いへ入られれば、正面からでは止められませんでしたわ」


 互いに、自分の届かなかった場所を認める。


 エリシアは戦場全体を氷で支配し、相手の進む道を奪う。

 テンカは閉ざされた道のわずかな綻びを見つけ、一点へ刃を届かせる。


 戦い方は、まるで違う。


 クレハは、氷華が咲いた跡と、そこを斬り抜けたテンカの足運びを見渡した。

 その口元に、小さな笑みが浮かぶ。


「エリシア様は道を奪い、テンカ様はその綻びへ刃を通す。敵に回せば互いに厄介。並んで戦えば、もっと厄介ですね」

「クレハ。それは褒めておるのか?」

「最大限に」


 訓練場の端では、キリカとレオノーラが揃って安堵の息を吐いていた。


 コトネは何も言わない。

 ただ、模擬刀を納めるテンカと、氷を消したエリシアへ一度ずつ視線を向け、ほんのわずかに頷いた。


 エリシアがテンカへ手を差し出す。


「次は、わたくしが勝ちますわ」

「それはこちらの台詞じゃ」


 テンカはその手を取った。


 昨日は、戦い終えたエリシアを立たせるために握った手。

 今日は、互いを好敵手と認めるために握る。


 氷華へ届いた一太刀。

 黒髪の姫へ届いた、冷たい切っ先。


 勝者は、どちらにもいなかった。


 それでも二人は、不満そうな言葉とは裏腹に、どこか満足そうに笑っていた。

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