エピローグ
手合わせから数日後の昼前。
ハヅキ家の正門前には、北へ戻るフロストレイン家の馬車が並んでいた。
銀と白を基調にした車体には、フロストレイン家の紋章が刻まれている。従者たちが最後の荷を積み込み、御者が馬具を確かめていた。
南方の陽射しを受けながらも、馬車の周囲だけはどこか涼しく感じられる。
見送りに出たのは、コトネとアルバート。
その少し後ろに、テンカとキリカ、クレハ、トウマが並んでいる。
「このたびの滞在では、格別のご配慮を賜りました」
レオノーラが一歩前へ出て、コトネへ深く頭を下げた。
「本来は報告会への出席が目的でしたが、思いもよらぬ事態にまで巻き込まれることとなり……」
「こちらこそ、エリシア様のお力をお借りしました」
コトネは静かに答える。
「封瘴室の異変は、ハヅキ家の管理下で起きたことです。フロストレイン家へは、改めて正式な報告を送ります」
「承知いたしました」
レオノーラは再び頭を下げた。
その隣で、エリシアは相変わらず涼しい顔をしている。
昨日の戦いと今朝の手合わせを終えたばかりだというのに、旅装には乱れ一つなかった。
ただ、こちらへ向ける氷青色の瞳だけは、初めて屋敷を訪れた時よりもわずかに柔らかい。
「テンカ」
名を呼ばれ、テンカは一歩前へ出た。
「何じゃ、エリー」
「継火が、ずいぶんと馴染みましたわね」
エリシアの視線が、テンカの腰へ向く。
黒い鞘に走る緋色の一筋。
「そう見えるか?」
「ええ。初めてお会いした時は、あなたが継火を従えようとしているように見えましたもの」
テンカは思わず、柄へ添えていた手を見る。
握り込んではいない。
ただ、そこにあることを確かめるように触れている。
「今は違うのか?」
「今は、並んで立っているように見えますわ」
エリシアの言葉に、テンカはしばらく黙った。
黒き鬼を斬った時。
自分は火を押しつけ、刀を砕き、帰ることすらできなかった。
だが、あの日は違った。
火を刃の芯へ留め、斬った後には己の内へ戻した。
継火は壊れることなく鞘へ帰り、自分もまた、無事に戻ることができた。
「……刀とは、従えるものではなかったのかもしれぬな」
「では、何ですの?」
「まだ分からぬ」
テンカは継火の柄を軽く撫でる。
「じゃが、一方的に力を押しつける相手ではない。それだけは、ようやく分かった気がする」
「そうですか」
エリシアは短く答えた。
けれど、その表情はどこか満足そうだった。
「それより、先日の結果じゃ」
テンカが話題を変える。
「あれを引き分けとするのは、わらわとしては納得がいかぬ」
「奇遇ですわね。わたくしも同じことを考えておりました」
「次は、地面の下にまで氷を隠す暇を与えぬ」
「次は、そもそも間合いへ入れさせませんわ」
「言うではないか」
「事実ですので」
二人の視線がぶつかる。
昨日までなら、互いに一歩も退かないまま言い争いが始まっていたかもしれない。
だが今は、どちらからともなく口元が緩んだ。
「ですから」
エリシアが続ける。
「次に会うまで、腕を鈍らせないでくださいませ」
「誰に申しておる。そなたこそ、北で氷漬けになっておるでないぞ」
「余計なお世話ですわ」
エリシアは小さく息を吐き、それから少しだけ視線を逸らした。
「……手紙を送ります」
「手紙?」
予想していなかった言葉に、テンカは瞬きをする。
「北方に現れる魔物や、氷術による瘴気封じについて。あの残滓と関係するものがないか、こちらでも調べてみますわ」
「それは手紙というより、報告書ではないか?」
「どちらでも同じです」
「同じではなかろう」
「では、近況も添えますわ」
「近況?」
「鍛錬で何度氷壁を壊したか。何体の魔物を凍らせたか。あなたに負けぬだけのことをしていると、知らせて差し上げます」
「やはり報告書ではないか」
テンカが呆れると、エリシアは澄ました顔で顎を上げた。
「あなたも返事をくださいませ」
「大魔境の調査記録を送ればよいか?」
「それだけでは許しませんわ」
「注文が多いのう」
「友人からの手紙とは、そういうものでしょう?」
不意に出た言葉に、テンカは目を見開いた。
エリシアも、自分が何を口にしたのか気づいたらしい。
ほんのわずかに間を置いてから、何事もなかったように続ける。
「少なくとも、北方ではそうですわ」
「……そうか」
テンカは笑った。
「ならば、わらわも手紙を書く。大魔境のことも、継火のことも、そなたが知らぬ南方のこともな」
「楽しみにしております」
レオノーラが、控えめに声をかけた。
「エリシア様。そろそろ出発のお時間です」
「分かりました」
エリシアは返事をし、馬車へ向かって歩き出す。
数歩進んだところで、足を止めた。
振り返る。
銀白色の髪が、南方の風に揺れた。
「では、またお会いしましょう。テンカ」
「うむ。またな、エリー」
それだけだった。
抱き合うことも、別れを惜しんで長く言葉を重ねることもない。
エリシアは馬車へ乗り込み、レオノーラもその後に続く。
扉が閉まり、御者が手綱を取った。
車輪が動き始める。
馬車が正門を抜ける直前、窓が開いた。
エリシアがそこから片手を上げる。
テンカも、同じように手を上げた。
馬車は街道へ出ると、北へ向かって少しずつ遠ざかっていく。
やがて銀白色の車体が見えなくなっても、テンカはしばらくその場に立っていた。
「寂しいですか?」
隣から、キリカが尋ねる。
「まさか。ようやく静かになる」
「左様でございますか」
「……何じゃ、その顔は」
「何でもございません」
キリカの口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「本当じゃぞ」
「はい。姫さまのお言葉を信じております」
「絶対に信じておらぬであろう」
言い返していると、背後から足音が近づいてきた。
「当主様」
トウマだった。
見送りの場に似つかわしくない、硬い表情をしている。
「黒き鬼の討伐地点へ向かわせた調査隊から、第一報が届きました」
「異常は?」
コトネの声が、当主のものへ戻る。
「現時点では、新たな魔物や瘴気反応は確認されていません。ただ、残滓の反応を踏まえ、周辺の調査範囲を広げたいとのことです」
「どこまで?」
「外縁から大魔境側へ、半日ほどの距離を想定しています」
コトネはわずかに考え、首を横に振った。
「深入りは禁じます。まずは黒き鬼の移動経路と、周辺の瘴気の変化を確認させなさい。異常を感知した場合は、調査を打ち切って即座に帰還を」
「承知しました」
トウマが頭を下げる。
テンカは北へ続く街道から、大魔境がある南西の方角へ視線を移した。
残滓は消えた。
だが、黒き鬼が何者かによって作られたものなのか、同じものが大魔境の奥に眠っているのかは分からない。
答えはまだ、深い森の向こうにある。
「テンカ」
コトネに呼ばれ、テンカは顔を上げた。
「今は、あなたが考えても答えは出ません」
「……はい」
「ですが、忘れてはなりません。分からぬものを恐れることと、目を背けることは違います」
「肝に銘じます」
コトネは静かに頷き、屋敷へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
その日の夕暮れ。
テンカは、人気のない訓練場に立っていた。
数日前の手合わせで咲いた氷華は、もう残っていない。
白砂には箒の跡が整然と残され、石畳にもあの日の痕跡はなかった。
テンカは腰の継火へ手を添えた。
足を開く。
腰を落とす。
呼吸を静かに沈める。
火行には触れない。
継火の重みだけを感じる。
抜く。
夕暮れの光を受け、刃が一筋の銀を描いた。
斬る。
空気を裂く音は細く、澄んでいる。
そして、戻す。
刃を鞘へ導き、最後まで静かに納める。
鯉口が、澄んだ音を立てた。
「よい音でございました」
キリカの声に、テンカは小さく頷く。
「うむ」
抜く。斬る。戻る。
刃も、火も、自分自身も。
継火は、ただ敵を斬るための刀ではない。
己の力を受け止め、斬った後に帰る場所を示してくれる刀なのだ。
テンカは北の空を見上げた。
そこにはもう、銀白色の馬車も、氷青色の瞳もない。
けれど、再び会う約束がある。
次こそ勝つと、互いに交わした言葉がある。
北へ帰った氷華。
腰に残った継火。
二つが並んだ時間は、ほんのわずかだった。
それでも、継火の隣に咲いた白い花は、もう消えはしない。
これにて、第3章完となります。
この後は第3章時点版の登場人物紹介ならびに設定集を投稿しつつ、幕間を挟んで第4章を開始できればと思います。
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