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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第3章 継火と氷華
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氷華は南に咲く

 封瘴室に、静寂が戻った。


 床には霜が薄く残っているが、黒い霧は消え、封印箱の中には灰すら残っていない。

 焼けた符紙と冷たい石の匂いだけが、先ほどまでの異変を伝えていた。


「結界の再確認を。瘴気濃度も、部屋の隅まで測ってください」


 トウマの指示に、術士たちが動き出す。


 テンカは腰の継火へ手を添えた。


 鞘も、鍔も、柄も無事だ。

 何より、自分の足で立っている。


 黒き鬼を斬った時のように、火を使い切って倒れることも、刀を砕くこともなかった。


「姫さま」


 キリカが正面へ回り込み、テンカの顔を覗き込んだ。


「本当に、お怪我はございませんか」

「ない。火も、きちんと戻した」

「では、右手を」

「信用がないのう」

「姫さまがご自身の怪我を軽く扱われることについては、まったく」


 テンカが渋々右手を差し出すと、キリカは火傷も裂傷もないことを確かめ、ようやく少しだけ表情を緩めた。


 その隣では、レオノーラがエリシアの肩を支えていた。


「エリシア様。お立ちにならずともよろしいのですよ」

「立てますわ」

「先ほど、膝が揺れておられました」

「冷気の流れを調整しただけです」

「足で?」

「……細かいことですわ」


 エリシアは涼しい顔を保っている。

 けれど、その頬はわずかに白く、額には薄く汗が残っていた。


「エリー」


 テンカが呼ぶと、氷青色の瞳がこちらを向く。


「無理をするでない」

「あなたにだけは言われたくありませんわ」

「わらわは無理をしておらぬ」

「先ほど、燃える太刀で封印箱へ飛び込んだ方の台詞とは思えませんわね」


 二人の視線がぶつかる。


 キリカとレオノーラが、ほとんど同時に息を吐いた。


 その時、封瘴室の扉を覆っていた結界が淡く光った。


「内部の安全を確認しました」


 術士の声とともに、厚い扉が開く。


 廊下の先に立っていたのは、コトネだった。

 その後ろには、屋敷の術士と衛兵が控えている。


 コトネは室内を見渡し、テンカとエリシアへ目を向けた。


「説明を」


 その一言に、テンカの背筋が伸びた。


「当主様。私から報告いたします」


 トウマが前へ出る。


「残滓が封印へ干渉し、瘴気を放出しました。扉を閉鎖したまま対処し、エリシア様が流れを固定、テンカ姫が核を断って焼却しました。現在、残滓は完全に消滅しています」

「負傷者は」

「おりません。術士にも瘴気侵食は確認されていません」


 コトネは短く頷くと、テンカへ視線を移した。


「継火を抜きましたね」

「……はい」

「火行も」

「使いました」


「継火を見せなさい」


 テンカは太刀を腰から外し、両手で差し出した。

 コトネは鞘を受け取り、鍔元から鞘尻まで指を滑らせる。次に鯉口を切り、刀身をわずかに覗かせた。


 罅も歪みもないことを確かめ、コトネは継火を鞘へ戻した。


「刀に火を押しつけませんでしたね」

「はい。霊水石の流れに沿わせ、刃の芯へ留めました」

「使用後の火は」

「巡りを戻し、己の内へ収めました」


 コトネは継火をテンカへ返した。


「少しは、火との付き合い方を覚えたようですね」


 母の言葉が、胸の奥へ真っ直ぐ届く。


「はい」


 テンカは継火を受け取り、深く頭を下げた。


「ありがとうございます、母上」

「ただし」


 やはり続きがあった。


「制御できたことと、危険へ踏み込んでよいことは別です」

「……はい」

「今回は必要な対処だったと理解しています。ですが、次も同じように戻ってこられるとは限りません。覚えておきなさい」

「肝に銘じます」


「テンカ一人の判断ではありませんわ」


 横から、エリシアが口を挟んだ。


 レオノーラが眉を寄せる。


「エリシア様」

「事実ですもの。核への道を作ったのはわたくしです。テンカだけが叱られるのは不公平ですわ」

「別に、叱られてはおらぬ」

「では、わたくしも叱られておりませんわね」

「なぜそうなる」


 コトネの視線が、二人の間を静かに行き来する。


「ずいぶんと親しくなったようですね」


 その言葉に、テンカは一瞬だけ詰まった。


「共に戦いましたゆえ」

「ええ。それに、テンカにはエリーと呼ぶことを許しましたもの」

「エリー」

「何ですの?」

「そなた、母上の前でわざわざ言う必要があったか?」

「事実ですので」


 背後で、キリカとレオノーラが顔を見合わせる。

 コトネだけが、わずかに目を細めた。


「そうですか」


 短い一言の奥に何かを見透かされた気がして、テンカは妙に落ち着かなかった。


 トウマが咳払いを一つする。


「当主様。残滓について、気になる点があります」


 空気が再び引き締まった。


「今回の反応は、単なる瘴気漏出とは考えにくいものです。残滓は冷気で流れを止めたエリシア様を狙いました。また、一部は扉へ向かい、封瘴室の外へ広がろうとしました」

「自らを守り、逃げようとしたと?」

「そのようにも見えました。ただし、生物としての知性があったかは断定できません」


 トウマは、空になった封印箱を見る。


「あれは核を霧の内側へ隠していました。自らを害するものを排除し、外へ広がろうとする反応も見せた。少なくとも、無秩序に暴れただけではありません」


 テンカの胸に、先ほどの黒い霧が蘇る。

 腕を作り、鬼の顔を作り、エリシアへ爪を振り下ろした。


「黒き鬼そのものが、何者かに作られた可能性は?」


 コトネの問いに、トウマはわずかに間を置いた。


「否定はできません。ですが、今は材料が足りません」

「ならば、集めなさい」


 コトネの声に迷いはなかった。


「黒き鬼を討った地点を再調査。採取済みの物品も、封印を解かずにすべて確認し直します。大魔境外縁の瘴気観測も強化してください」

「承知しました」

「今回の異変については、関係者以外へ伏せます。報告会の出席者には、残滓を安全に処分したとだけ伝えなさい」

「はい」


 指示を終えると、コトネはテンカとエリシアを見た。


「二人とも、治癒師の確認を受けてから休みなさい」

「母上、わらわは――」

「休みなさい」

「……はい」

「エリシア様もです」

「わたくしは客人ですけれど」

「ハヅキ家の屋敷で倒れられては、こちらが困ります」

「では、仕方ありませんわね」


 エリシアは素直に頷いた。


「なぜ、そなたの方が聞き分けがよいのじゃ」

「わたくしは分別のある令嬢ですもの」

「先ほど封印箱へ近づいた者の台詞とは思えぬ」


 言い返すと、エリシアは澄ました顔で廊下へ向かった。


 その足取りが少しだけ遅いことに、テンカは気づいていた。


 ◇  ◇  ◇


 その日の夕刻。


 テンカは客室棟に面した縁側で、エリシアと向かい合っていた。

 治癒師の診立てでは大きな異常はなかったが、本日の術の使用と鍛錬は禁止された。


 目の前にあるのは刀でも氷でもなく、湯気の立つ茶と菓子だ。


 テンカの前には饅頭。

 エリシアの前には、北方から持参した木の実入りの焼き菓子。


 少し離れた場所には、休息を見張るキリカとレオノーラが控えていた。


 テンカが焼き菓子へ目を向けると、エリシアも饅頭を見ていた。


「食べたいのか?」

「あなたこそ、こちらを見ていたでしょう」

「珍しかっただけじゃ」

「わたくしもですわ」


「……交換するか?」

「一つずつなら、構いませんわ」


 二人は菓子を交換した。


 焼き菓子には香ばしい木の実と甘い蜜が練り込まれていた。

 エリシアも饅頭を一口食べ、氷青色の瞳をわずかに見開く。


「柔らかいですわね」

「うむ。饅頭はよいぞ」

「その顔を見れば分かりますわ」

「どのような顔じゃ」

「五行姫ではなく、ただの饅頭好きの顔です」


 テンカの手が止まった。


「……皇都で、その名を聞いたのか?」

「ええ。黒き鬼を一刀で斬り伏せた、緋色の髪の五行姫。ずいぶんと勇ましい噂でしたわ」

「噂とは、肝心なところを省くものじゃな」


 あの勝利は、テンカ一人のものではない。

 サイゾウが黒き鬼の胸を開き、第三討伐隊の皆が隙を作ってくれた。


 それでも噂は、一人の姫が鬼を斬った物語へ姿を変えていく。

 いつか《五行姫》という名だけが、テンカ自身よりも先を歩き始めるのかもしれない。


「嫌なのですか?」

「嫌ではない」


 テンカは饅頭を皿へ戻した。


「じゃが、少々重い。わらわはまだ、水滴一つに苦戦することもあれば、火加減を誤ってそなたの氷を砕くこともある」

「本当に、あれは驚きましたわ」

「そなたの氷も、もう少し粘ればよかったのじゃ」

「また張り合いますの?」

「……今はやめておこう」


 レオノーラとキリカの視線を感じた。


 エリシアは小さく笑う。


「噂の五行姫より、実際のあなたの方が興味深いですわ」

「褒めておるのか?」

「ええ。噂の中のあなたは、一人で何でも斬ってしまいますもの」


 エリシアは残った饅頭へ視線を落とした。


「けれど、今日のあなたは違いました。わたくしの氷を見て、火を合わせた。自分だけで斬ろうとはしなかった」

「そなたがおらねば、核は見つけられなんだからな」

「それを素直に認められるところも、噂とは違いますわ」


 氷青色の瞳が、真っ直ぐにテンカを見る。


「皆、わたくしを見る時、わたくし自身より先にフロストレインの名と氷術を見ます。北方の令嬢は冷静で、隙がなく、いつでも正しくあれと求めます」

「疲れぬか?」

「慣れていますわ」


「ならば、わらわはエリーを見る」


 エリシアが瞬きをする。


「フロストレインの令嬢でも、北方の氷術師でもない。退屈を嫌い、危険なものを見つけると近づかずにはおれぬ、少々困ったエリーを見る」

「最後の部分は余計ですわ」

「事実であろう?」

「……そういうことを、平然とおっしゃるのですね」

「何かおかしかったか?」

「いいえ」


 エリシアは一瞬だけ言葉を失い、誤魔化すように茶へ口をつけた。


「では、わたくしもテンカを見ますわ」

「うむ」

「噂の五行姫ではなく、火加減を誤り、饅頭を前にすると顔が緩む、少々危なっかしいテンカを」

「そなたも最後が余計じゃ」

「お返しですわ」


 二人は顔を見合わせた。


 先に笑ったのがどちらだったのか、テンカには分からなかった。


 やがて、エリシアが焼き菓子の最後の一欠片を皿へ置く。


「テンカ。一つ、お願いがありますの」

「申してみよ」

「わたくしが北へ戻る前に、一度、手合わせをしてくださらない?」


 テンカは目を瞬かせた。


「先ほど共に戦ったばかりではないか」

「共に戦ったからこそですわ。今度は同じものを見るのではなく、向かい合ってみたいのです」

「わらわの刀と、そなたの氷で?」

「もちろん、殺し合いではありませんわ。火行も必要ありません」


 エリシアの瞳が、楽しそうに細められる。


「先ほどの一太刀。あれほどの火を刃の芯へ留め、氷華の間だけを抜いた。術の制御だけでなく、確かな剣技がなければできない芸当ですわ」


「わたくしは、噂ではないあなたの剣を知りたい」


 その言葉に、テンカの胸が静かに高鳴った。


 氷華の術がこちらへ向けられた時、どれほど厄介なのか。

 興味がないと言えば、嘘になる。


「母上の許しが出れば、じゃ」

「ええ。それで構いませんわ」

「よかろう」


 テンカは口元に笑みを浮かべる。


「じゃが、後悔するでないぞ、エリー」

「それはこちらの台詞ですわ、テンカ」


 継火の緋と、氷華の白。


 先ほどは、同じ敵へ向けて並んだ二つの力。

 次は互いを知るために、正面から向き合うことになる。


 黒髪の姫さまと、北より来た氷の令嬢。


 二人の最初の手合わせは、コトネの許しが下りれば翌朝――そう決まった。

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