継火と氷華
黒い霧の先端が霜に触れ、白く凍りついた。
だが、その内側では瘴気がなおも蠢いている。薄氷の下を黒い筋が這い、軋む音とともに罅が広がっていった。
封瘴室の中央には、黒き鬼の残滓を収めた封印箱。
左右の壁際では術士たちが結界を支え、背後には外へ通じる唯一の扉がある。
逃げ場のない石室で、黒い霧だけが膨れ続けていた。
「結界を維持してください! 術士は封印箱から離れず、漏出箇所だけを塞ぐ!」
トウマの指示が飛ぶ。
術士たちが符を重ねると、床を走る結界文様が強く輝いた。しかし、黒い霧は光を嫌うように身をよじり、一本の太い腕へ形を変えていく。
指の先に生まれたのは、獣の爪に似た五本の影。
それが、エリシアへ振り下ろされた。
「エリシア様!」
レオノーラが踏み出すより早く、エリシアは片手を掲げた。
「アイスウォール!」
澄んだ声とともに、床から透明な氷壁が立ち上がる。
黒い爪が氷へ食い込み、鈍い衝撃が封瘴室を揺らした。氷壁の表面に黒い染みが広がり、触れた箇所から腐食するように濁っていく。
「ずいぶんと礼儀を知らない残り物ですこと」
エリシアは顔色一つ変えなかった。
だが、氷壁は長く保たない。黒い瘴気に侵された箇所から、細かな欠片が次々と床へ落ちていく。
テンカは継火を抜いた。
鞘走りの音が、狭い石室に鋭く響く。
黒い腕が氷壁を突き破った瞬間、テンカはその懐へ踏み込んだ。継火の刃が鋭い軌跡を描き、瘴気の腕を斜めに断つ。
断たれた腕は、黒い霧を撒き散らしながら崩れた。
だが、消えない。
二つに分かれた黒い霧が床を這い、それぞれ別の腕へ膨れ上がる。
「増えおったか」
「斬れば散るだけですわ!」
エリシアが冷気を走らせる。
「フロストバインド!」
白い霜が黒い霧の表面を覆い、二本の腕を床へ縫い止めた。
テンカは反射的に火行を刃へ巡らせ、その根元へ斬りかかる。だが、継火の熱が凍結部分へ触れた瞬間、氷が高い音を立てて砕けた。
閉じ込められていた瘴気が横へ噴き出す。
「姫さま!」
キリカがテンカの前へ身を滑り込ませ、袖口から符を放った。光の膜が黒い霧を弾き、二人の脇を抜けた瘴気が壁へ叩きつけられる。
刻まれていた術式が、一瞬だけ黒く明滅した。
「火が強すぎますわ!」
「そなたの氷が脆いのではないか?」
「「張り合っている場合ですか!」」
キリカとレオノーラの声が、ほとんど同時に飛んだ。
テンカとエリシアは一瞬だけ顔を見合わせる。
「……それはそうじゃな」
「今だけは同意いたしますわ」
冗談を続ける余裕はなかった。
黒い霧は壁と床を這い、封瘴室全体へ広がろうとしている。中央の封印箱では、残滓が鼓動するたびに新たな瘴気が湧き出していた。箱の縁には、内側から押し広げられた細い裂け目が走っている。
黒い霧の一部が天井近くまで持ち上がり、輪郭の崩れた鬼の顔を形作る。
口に見える裂け目が開いた。
声ともつかぬ咆哮が石室を震わせ、耳の奥に鈍い痛みを残す。
冷気に満ちていたはずの室内へ、焼けた獣脂と鉄錆を混ぜたような臭いが広がった。息を吸うたびに喉の奥がざらつき、露出した肌を細い針で撫でられるような悪寒が走る。
残りの霧は扉へ向かった。
「扉は開けないでください!」
トウマが術士を制する。
「ここで封じられなければ、屋敷中へ瘴気が広がります。退路の確保より、漏出の阻止を優先します!」
術士たちは青ざめながらも符を床へ打ち込み、キリカもテンカの背後へ簡易結界を展開した。
逃げながら戦う余地はない。
この場で、仕留めるしかなかった。
テンカは継火を構え直す。
斬ることはできる。
焼くこともできる。
だが、形のない霧を闇雲に断っても、散らすだけだ。火を強めれば、エリシアの氷まで壊してしまう。
黒き鬼を斬った時とは違う。
あの時は、サイゾウが黒き鬼の胸を開き、術士たちが瘴気を退けてくれた。その先に見えた核へ、すべての火を叩き込めばよかった。
今は、核が見えない。
「エリシア様」
名を呼ぶと、氷青色の瞳がテンカへ向いた。
「流れを止められるか?」
「すべてを凍らせれば、あなたの火でまた砕けますわ」
「すべてでなくてよい。核へ続く流れだけを見せてくれ」
エリシアはわずかに目を見開いた。
やがて、その口元に小さな笑みが浮かぶ。
「なるほど。斬るべき場所さえ分かればよいのですね」
「うむ」
「簡単におっしゃいますこと」
「できぬのか?」
「誰にものを言っておりますの?」
エリシアは一歩前へ出た。
レオノーラが何か言いかけたが、その横顔を見て口を閉じる。
エリシアは両手を胸の前で重ね、ゆっくりと開いた。
冷気が細い糸となって広がる。
黒い霧すべてを凍らせるのではない。霧の内側を巡る瘴気の流れへ、一本ずつ冷気を絡ませていく。
「――アイスブルーム」
白い花が咲いた。
一輪。
黒い霧の中に、透き通った氷の花弁が開く。
続いて二輪、三輪。
花は瘴気の流れが交わる場所にだけ咲き、そのたびに黒い霧の動きが鈍っていった。細い氷脈が花と花を結び、封印箱へ向かって伸びていく。
まるで、闇の中へ星座が描かれていくようだった。
「長くは保ちませんわ」
エリシアの額に、初めて汗が滲んだ。
「どれほどじゃ」
「10を数える間。もって12」
「十分じゃ」
「外しましたら、承知しませんわよ」
テンカは継火を鞘へ納めた。
エリシアが眉を寄せる。
「この状況で納めますの?」
「抜いたままでは、あの一点へ刃筋を通せぬ」
足を開き、腰を落とす。
呼吸を沈める。
黒い霧の中に咲く氷の花。その流れを追えば、すべては封印箱の残滓へ集まり、さらにその中心にある一点へ繋がっていた。
見えた。
黒い鼓動の、その奥。
瘴気を巡らせる小さな結び目。
「10」
エリシアが数え始める。
氷の花へ黒い罅が走った。
「9」
瘴気の腕が床から持ち上がろうとする。
「8」
術士たちの結界が軋む。
テンカは火行へ触れた。
押さえつければ、火は逃げ場を失って跳ねる。
あの稽古で、何度も思い知らされた。
水行は火を消すためのものではない。火の輪郭をなぞり、戻る場所を与えるために添えるものだ。
テンカは継火の内に宿る霊水石の気配へ、そっと意識を重ねた。
燃え上がらせない。
押しつけない。
必要なだけ、刃の芯へ留める。
「――南天朱火」
黒髪の一房へ、緋色が灯った。
炎は鞘の外へ溢れない。継火の内側を細く巡り、刀身の芯だけを緋色の熱で満たしていく。
「7」
エリシアの膝がわずかに揺れた。
それでも氷青色の瞳は、核へ続く道を離さない。
「6」
氷の花が一輪、砕けた。
黒い霧がそこから噴き出す。
「5」
「案ずるでない」
テンカは柄を握った。
エリシアが数えるのを止め、こちらを見る。
「そなたの氷は、無駄にはせぬ」
右足が石床を捉える。
腰を沈め、左手で鞘を引く。
鯉口が鳴った。
エリシアの氷華が示すのは、核へ至るただ一本の道。
一輪目の花弁を掠め、二輪目の脇を抜け、その奥で脈打つ黒い結び目へ。
テンカは火を刃の芯から外へ漏らさぬまま、石床を蹴った。
抜刀。
緋色の刃が、氷華の描いた細道を走る。
冷気が頬を掠めた。
瘴気が刃へ絡みつこうとする。
それでも、継火の刃筋は揺らがない。
咲き並ぶ氷の花を壊さず、そのわずかな隙間だけを縫い、封印箱の中心へと刃を届かせる。
斬ったのは黒い霧ではない。
氷脈が示した、ただ一点。
継火の刃が、封印箱に生じた裂け目を抜け、残滓の中心を断った。
手の内へ、硬い何かを断ち切る感触が返る。
次の瞬間、緋色の火が断面から内部へ潜り込んだ。
残滓が大きく脈打つ。
黒い霧が一斉に暴れ、室内を呑み込もうと膨れ上がった。
「逃がしませんわ!」
エリシアが両手を握り込む。
咲き残った氷の花が一斉に閉じ、外へ逃れようとする瘴気を包み込んだ。透明な氷の中で、黒い筋が何度も激しく暴れる。
その中心を、継火の火が焼いていく。
外へ広げない。味方へ届かせない。
ただ、斬った核の内側だけを燃やす。
黒い筋が細くなり、やがて音もなく途切れた。
封瘴室を満たしていた霧が、力を失う。
氷の花の中へ閉じ込められた瘴気も、灰のように崩れて消えていった。
静寂が戻る。
テンカは振り抜いた刃を戻し、継火を鞘へ納めた。
足は、まだ地を踏んでいる。
意識も、火も、自分の内側に留まっていた。
倒れない。
継火も、砕けていない。
黒き鬼を斬った時は、火を使い切ったところで意識も途切れた。刀は砕け、自分の足で帰ることさえできなかった。
けれど今、継火は腰に収まり、呼吸も乱れていない。
火を振るいながら、火の中へ呑まれずに戻ってこられた。
「……できた」
小さく漏れた声に、キリカが目を細める。
「はい。お見事でした、姫さま」
テンカが振り返ると、エリシアはその場へ座り込みかけていた。
「エリシア様」
レオノーラが支えるより先に、テンカは手を差し出す。
「無事か?」
「誰のせいで、あれほど氷を保たせることになったと思っていますの」
「まだ5までしか数えておらぬぞ」
「細かいことですわ」
エリシアはテンカの手を取り、立ち上がった。
その手は冷たかった。
だが、握り返す力はしっかりしている。
「それから」
「何じゃ」
「エリシア様では長いでしょう」
テンカは瞬きをした。
エリシアはわずかに顎を上げる。
「あなたなら、エリーと呼んでも構いませんわ」
「頼んではおらぬのじゃが」
「では、呼ばなくてもよろしくてよ」
「……エリー」
「はい、テンカ」
あまりにも自然に名前を呼ばれ、テンカは一瞬だけ言葉を失った。
エリーは満足そうに微笑む。
その横で、レオノーラとキリカが顔を見合わせ、揃って小さく息を吐いた。
トウマは、残滓の消えた封印箱を見下ろしていた。
「完全に消滅しています。ですが、今回の反応が偶然とは思えません」
「大魔境の奥と関わりがあると?」
テンカが尋ねると、トウマはすぐには答えなかった。
「まだ断定はできません。ただ、あれは眠っていただけでした。ならば、同じように眠っているものが、ほかにも存在する可能性があります」
不穏な言葉だった。
それでも、テンカの胸にあるのは恐怖だけではない。
隣には、先ほどまでとは違う距離で立つ者がいる。
継火の緋と、氷華の白。
正反対の二つの力は、黒き瘴気を挟んで初めて並び立った。
それは、黒髪の姫さまと氷の令嬢による、最初の共闘だった。
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