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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第3章 継火と氷華
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継火と氷華

 黒い霧の先端が霜に触れ、白く凍りついた。

 だが、その内側では瘴気がなおも蠢いている。薄氷の下を黒い筋が這い、軋む音とともに罅が広がっていった。


 封瘴室の中央には、黒き鬼の残滓を収めた封印箱。

 左右の壁際では術士たちが結界を支え、背後には外へ通じる唯一の扉がある。

 逃げ場のない石室で、黒い霧だけが膨れ続けていた。


「結界を維持してください! 術士は封印箱から離れず、漏出箇所だけを塞ぐ!」


 トウマの指示が飛ぶ。


 術士たちが符を重ねると、床を走る結界文様が強く輝いた。しかし、黒い霧は光を嫌うように身をよじり、一本の太い腕へ形を変えていく。

 指の先に生まれたのは、獣の爪に似た五本の影。


 それが、エリシアへ振り下ろされた。


「エリシア様!」


 レオノーラが踏み出すより早く、エリシアは片手を掲げた。


「アイスウォール!」


 澄んだ声とともに、床から透明な氷壁が立ち上がる。


 黒い爪が氷へ食い込み、鈍い衝撃が封瘴室を揺らした。氷壁の表面に黒い染みが広がり、触れた箇所から腐食するように濁っていく。


「ずいぶんと礼儀を知らない残り物ですこと」


 エリシアは顔色一つ変えなかった。


 だが、氷壁は長く保たない。黒い瘴気に侵された箇所から、細かな欠片が次々と床へ落ちていく。


 テンカは継火を抜いた。

 鞘走りの音が、狭い石室に鋭く響く。


 黒い腕が氷壁を突き破った瞬間、テンカはその懐へ踏み込んだ。継火の刃が鋭い軌跡を描き、瘴気の腕を斜めに断つ。

 断たれた腕は、黒い霧を撒き散らしながら崩れた。


 だが、消えない。


 二つに分かれた黒い霧が床を這い、それぞれ別の腕へ膨れ上がる。


「増えおったか」

「斬れば散るだけですわ!」


 エリシアが冷気を走らせる。


「フロストバインド!」


 白い霜が黒い霧の表面を覆い、二本の腕を床へ縫い止めた。

 テンカは反射的に火行を刃へ巡らせ、その根元へ斬りかかる。だが、継火の熱が凍結部分へ触れた瞬間、氷が高い音を立てて砕けた。


 閉じ込められていた瘴気が横へ噴き出す。


「姫さま!」


 キリカがテンカの前へ身を滑り込ませ、袖口から符を放った。光の膜が黒い霧を弾き、二人の脇を抜けた瘴気が壁へ叩きつけられる。

 刻まれていた術式が、一瞬だけ黒く明滅した。


「火が強すぎますわ!」

「そなたの氷が脆いのではないか?」

「「張り合っている場合ですか!」」


 キリカとレオノーラの声が、ほとんど同時に飛んだ。


 テンカとエリシアは一瞬だけ顔を見合わせる。


「……それはそうじゃな」

「今だけは同意いたしますわ」


 冗談を続ける余裕はなかった。


 黒い霧は壁と床を這い、封瘴室全体へ広がろうとしている。中央の封印箱では、残滓が鼓動するたびに新たな瘴気が湧き出していた。箱の縁には、内側から押し広げられた細い裂け目が走っている。


 黒い霧の一部が天井近くまで持ち上がり、輪郭の崩れた鬼の顔を形作る。


 口に見える裂け目が開いた。

 声ともつかぬ咆哮が石室を震わせ、耳の奥に鈍い痛みを残す。


 冷気に満ちていたはずの室内へ、焼けた獣脂と鉄錆を混ぜたような臭いが広がった。息を吸うたびに喉の奥がざらつき、露出した肌を細い針で撫でられるような悪寒が走る。


 残りの霧は扉へ向かった。


「扉は開けないでください!」


 トウマが術士を制する。


「ここで封じられなければ、屋敷中へ瘴気が広がります。退路の確保より、漏出の阻止を優先します!」


 術士たちは青ざめながらも符を床へ打ち込み、キリカもテンカの背後へ簡易結界を展開した。


 逃げながら戦う余地はない。

 この場で、仕留めるしかなかった。

 テンカは継火を構え直す。


 斬ることはできる。

 焼くこともできる。


 だが、形のない霧を闇雲に断っても、散らすだけだ。火を強めれば、エリシアの氷まで壊してしまう。

 黒き鬼を斬った時とは違う。

 あの時は、サイゾウが黒き鬼の胸を開き、術士たちが瘴気を退けてくれた。その先に見えた核へ、すべての火を叩き込めばよかった。


 今は、核が見えない。


「エリシア様」


 名を呼ぶと、氷青色の瞳がテンカへ向いた。


「流れを止められるか?」

「すべてを凍らせれば、あなたの火でまた砕けますわ」

「すべてでなくてよい。核へ続く流れだけを見せてくれ」


 エリシアはわずかに目を見開いた。


 やがて、その口元に小さな笑みが浮かぶ。


「なるほど。斬るべき場所さえ分かればよいのですね」

「うむ」

「簡単におっしゃいますこと」

「できぬのか?」

「誰にものを言っておりますの?」


 エリシアは一歩前へ出た。

 レオノーラが何か言いかけたが、その横顔を見て口を閉じる。


 エリシアは両手を胸の前で重ね、ゆっくりと開いた。

 冷気が細い糸となって広がる。


 黒い霧すべてを凍らせるのではない。霧の内側を巡る瘴気の流れへ、一本ずつ冷気を絡ませていく。


「――アイスブルーム」


 白い花が咲いた。


 一輪。


 黒い霧の中に、透き通った氷の花弁が開く。


 続いて二輪、三輪。


 花は瘴気の流れが交わる場所にだけ咲き、そのたびに黒い霧の動きが鈍っていった。細い氷脈が花と花を結び、封印箱へ向かって伸びていく。


 まるで、闇の中へ星座が描かれていくようだった。


「長くは保ちませんわ」


 エリシアの額に、初めて汗が滲んだ。


「どれほどじゃ」

「10を数える間。もって12」

「十分じゃ」

「外しましたら、承知しませんわよ」


 テンカは継火を鞘へ納めた。


 エリシアが眉を寄せる。


「この状況で納めますの?」

「抜いたままでは、あの一点へ刃筋を通せぬ」


 足を開き、腰を落とす。

 呼吸を沈める。


 黒い霧の中に咲く氷の花。その流れを追えば、すべては封印箱の残滓へ集まり、さらにその中心にある一点へ繋がっていた。


 見えた。


 黒い鼓動の、その奥。

 瘴気を巡らせる小さな結び目。


「10」


 エリシアが数え始める。

 氷の花へ黒い罅が走った。


「9」


 瘴気の腕が床から持ち上がろうとする。


「8」


 術士たちの結界が軋む。


 テンカは火行へ触れた。

 押さえつければ、火は逃げ場を失って跳ねる。


 あの稽古で、何度も思い知らされた。

 水行は火を消すためのものではない。火の輪郭をなぞり、戻る場所を与えるために添えるものだ。

 テンカは継火の内に宿る霊水石の気配へ、そっと意識を重ねた。


 燃え上がらせない。

 押しつけない。

 必要なだけ、刃の芯へ留める。


「――南天朱火なんてんしゅか


 黒髪の一房へ、緋色が灯った。

 炎は鞘の外へ溢れない。継火の内側を細く巡り、刀身の芯だけを緋色の熱で満たしていく。


「7」


 エリシアの膝がわずかに揺れた。

 それでも氷青色の瞳は、核へ続く道を離さない。


「6」


 氷の花が一輪、砕けた。

 黒い霧がそこから噴き出す。


「5」


「案ずるでない」


 テンカは柄を握った。

 エリシアが数えるのを止め、こちらを見る。


「そなたの氷は、無駄にはせぬ」


 右足が石床を捉える。

 腰を沈め、左手で鞘を引く。


 鯉口が鳴った。


 エリシアの氷華が示すのは、核へ至るただ一本の道。

 一輪目の花弁を掠め、二輪目の脇を抜け、その奥で脈打つ黒い結び目へ。

 テンカは火を刃の芯から外へ漏らさぬまま、石床を蹴った。


 抜刀。


 緋色の刃が、氷華の描いた細道を走る。


 冷気が頬を掠めた。

 瘴気が刃へ絡みつこうとする。

 それでも、継火の刃筋は揺らがない。


 咲き並ぶ氷の花を壊さず、そのわずかな隙間だけを縫い、封印箱の中心へと刃を届かせる。


 斬ったのは黒い霧ではない。

 氷脈が示した、ただ一点。

 継火の刃が、封印箱に生じた裂け目を抜け、残滓の中心を断った。

 手の内へ、硬い何かを断ち切る感触が返る。


 次の瞬間、緋色の火が断面から内部へ潜り込んだ。

 残滓が大きく脈打つ。

 黒い霧が一斉に暴れ、室内を呑み込もうと膨れ上がった。


「逃がしませんわ!」


 エリシアが両手を握り込む。

 咲き残った氷の花が一斉に閉じ、外へ逃れようとする瘴気を包み込んだ。透明な氷の中で、黒い筋が何度も激しく暴れる。


 その中心を、継火の火が焼いていく。

 外へ広げない。味方へ届かせない。

 ただ、斬った核の内側だけを燃やす。


 黒い筋が細くなり、やがて音もなく途切れた。

 封瘴室を満たしていた霧が、力を失う。

 氷の花の中へ閉じ込められた瘴気も、灰のように崩れて消えていった。


 静寂が戻る。

 テンカは振り抜いた刃を戻し、継火を鞘へ納めた。


 足は、まだ地を踏んでいる。

 意識も、火も、自分の内側に留まっていた。


 倒れない。

 継火も、砕けていない。

 黒き鬼を斬った時は、火を使い切ったところで意識も途切れた。刀は砕け、自分の足で帰ることさえできなかった。


 けれど今、継火は腰に収まり、呼吸も乱れていない。

 火を振るいながら、火の中へ呑まれずに戻ってこられた。


「……できた」


 小さく漏れた声に、キリカが目を細める。


「はい。お見事でした、姫さま」


 テンカが振り返ると、エリシアはその場へ座り込みかけていた。


「エリシア様」


 レオノーラが支えるより先に、テンカは手を差し出す。


「無事か?」

「誰のせいで、あれほど氷を保たせることになったと思っていますの」

「まだ5までしか数えておらぬぞ」

「細かいことですわ」


 エリシアはテンカの手を取り、立ち上がった。


 その手は冷たかった。

 だが、握り返す力はしっかりしている。


「それから」

「何じゃ」

「エリシア様では長いでしょう」


 テンカは瞬きをした。


 エリシアはわずかに顎を上げる。


「あなたなら、エリーと呼んでも構いませんわ」

「頼んではおらぬのじゃが」

「では、呼ばなくてもよろしくてよ」

「……エリー」

「はい、テンカ」


 あまりにも自然に名前を呼ばれ、テンカは一瞬だけ言葉を失った。

 エリーは満足そうに微笑む。

 その横で、レオノーラとキリカが顔を見合わせ、揃って小さく息を吐いた。


 トウマは、残滓の消えた封印箱を見下ろしていた。


「完全に消滅しています。ですが、今回の反応が偶然とは思えません」

「大魔境の奥と関わりがあると?」


 テンカが尋ねると、トウマはすぐには答えなかった。


「まだ断定はできません。ただ、あれは眠っていただけでした。ならば、同じように眠っているものが、ほかにも存在する可能性があります」


 不穏な言葉だった。


 それでも、テンカの胸にあるのは恐怖だけではない。

 隣には、先ほどまでとは違う距離で立つ者がいる。


 継火の緋と、氷華の白。

 正反対の二つの力は、黒き瘴気を挟んで初めて並び立った。


 それは、黒髪の姫さまと氷の令嬢による、最初の共闘だった。

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