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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第3章 継火と氷華
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黒き鬼の残滓②

第0章として、第1章1話の前に序章を追加しているので、よかったら読んでください。

 コトネの一言で、広間に広がりかけていたざわめきは静かに収まった。

 商会の者たちは不安げに顔を見合わせたが、さすがに同行を求める者はいなかった。


 セドリック=ウェインは一瞬だけ何かを考えるように視線を伏せたが、結局、口を挟まなかった。

 

 中央からの使者としては見届けたい。

 だが、ハヅキ家の封瘴室にまで踏み込む理由はない。

 そう判断したのだろう。


 テンカは席を立った。

 腰の継火が、衣の内側で静かに揺れる。


 その気配を、エリシアが見ていた。


「何じゃ」

「いえ」


 エリシアは涼しい顔で言う。


「抜かない太刀というのも、なかなか存在感があるものですわね」

「見世物ではないぞ」

「分かっていますわ」

「本当に?」

「たぶん」

「そなたも、たぶんと言うのか」

「便利な言葉ですもの」


 テンカは小さく笑った。


 その横で、レオノーラが静かに息を吐いた。

 キリカと目が合う。

 互いに、少しだけ苦労を察した顔になった。


 封瘴室は、黒松の間から離れた屋敷奥にあった。

 廊下をいくつも曲がり、客人が通常立ち入ることのない区画へ入る。

 床は黒木から石へ変わり、壁には防音と遮断の術式が刻まれていた。


 空気も変わる。

 客人を迎える広間の柔らかい香の匂いが消え、代わりに冷たい石と符紙の匂いが漂っていた。


 テンカは無意識に背筋を伸ばす。

 隣を歩くエリシアも、先ほどまでの軽い調子を消していた。

 氷青色の瞳が、廊下の奥を静かに見据えている。


 レオノーラはその少し後ろ。

 キリカはテンカの斜め後ろ。

 トウマは先頭で術士と短く言葉を交わしながら歩いている。


「姫さま」


 キリカが小さく声をかけた。


「無理はなさらず」

「分かっておる」

「継火にも、手を」

「かけぬ」

「今、少し動きました」

「……腰の位置を直しただけじゃ」

「そういうことにしておきます」


 キリカの目は厳しい。


 だが、責めているわけではない。

 心配しているのだ。

 テンカはその視線を受け止め、小さく頷いた。


 やがて、一行は厚い扉の前で足を止めた。

 扉には三重の結界符が貼られている。

 中央には、黒い墨で大きく封の字が書かれていた。


「ここです」


 トウマが言った。


 術士が前へ出て、符へ手をかざす。

 低い音がして、扉の術式が順にほどけていく。


 一枚。

 二枚。

 三枚。


 扉が開くと、冷たい空気が流れ出した。


 封瘴室の中は、石造りの小部屋だった。

 壁にも床にも結界文様が刻まれ、中央には低い台座がある。

 その上に、透明な封印箱が置かれていた。


 箱の周囲には符が幾重にも巻かれ、細い銀の針のような封具が四方から打ち込まれている。


 そして箱の中には、黒い炭のような塊があった。

 拳より少し大きい程度。

 黒く乾き、ところどころが焼け崩れている。

 それだけなら、ただの燃え残りのようにも見えた。


 だが、違う。


 表面の罅の奥で、黒い筋がゆっくりと脈打っていた。

 テンカの喉が、わずかに鳴る。


 ()()を、知っている。


 黒き鬼の胸の奥。

 緋色の火で焼いたはずの、あの黒い塊。

 完全には消えず、欠片として残っていたもの。


 封印箱の中にあるそれは、死んでいるように見えた。

 だが、見れば見るほど、死んでいるとは思えなかった。


「現時点では、外部への瘴気漏出はありません」


 術士が説明する。


「一日に三度、濃度を測定していますが、昨夜から大きな変化は見られていません」

「再生反応は?」


 トウマが問う。


「なし。少なくとも、肉質の増殖はありません」

「瘴気の吸収は」

「封印箱内の微量瘴気を循環させていますが、外部から吸っている様子はありません」


 術士の声は落ち着いていた。

 だが、テンカは継火のあたりに熱を感じた。


 ほんのわずか。


 誰かに呼ばれたように、鞘の奥で火が身じろぎした気がした。


 テンカは息を整える。

 抜かない。まだ、抜く場面ではない。

 その隣で、エリシアが一歩だけ前へ出た。


 すぐにレオノーラの声が飛ぶ。


「エリシア様」

「封印陣の外ですわ」

「それでも近いです」

「見えませんもの」

「見えすぎても困ります」


 エリシアは聞いているのかいないのか、氷青色の瞳を封印箱へ向けたまま動かない。

 その表情から、先ほどまでの軽さが消えていた。


 ただ、見ている。


 黒い残滓の奥にある何かを、じっと。

 エリシアの氷青色の瞳の奥に、淡い光が灯った。


 室内の温度が、ほんのわずかに下がる。

 冷気が残滓の周囲を撫でるように流れ、黒い塊の罅の奥で、見えない流れの輪郭だけが浮かび上がる。


 やがて、エリシアが静かに口を開いた。


「これは、止まっているのではありませんわ」


 室内の空気が変わった。


 トウマの目が細くなる。


「どういう意味ですか」

「眠っているだけです」


 エリシアの声は冷たかった。

 だが、その奥には確信があった。


「瘴気の流れが完全には閉じていません。外へ漏れていないだけ。内側で、ゆっくり巡っていますわ」


 術士が眉を寄せる。


「しかし、測定では――」

「数値に出ないほど遅いのでしょう。氷湖の下を流れる水と同じですわ。表面は止まって見えても、底では流れが残っている」


 エリシアは封印箱を見つめたまま続ける。


「この残滓は、周囲から力を吸っているのではありません。自分の中に残った瘴気を、少しずつ回している。だから肉は増えない。けれど、完全に死んでもいない」


 テンカの背筋に、冷たいものが走った。


 継火が、またわずかに熱を帯びる。

 エリシアの周囲では、空気がほんの少し冷えていた。


 火と氷。


 その二つの気配が、封瘴室の中で重なる。

 わずかな熱と冷気が封印箱の表面を撫でた瞬間、黒い残滓の奥で、何かが反応した。


 封印箱の中で、黒い筋がぴくりと跳ねた。


 テンカは息を呑む。


「今――」


 言いかけた時、黒い残滓の表面に細い罅が走った。


 次の瞬間、その罅が蜘蛛の巣のように広がり、奥で脈打っていた黒い筋が一斉に浮かび上がる。

 まるで、眠っていた目が開くように。


 符が、微かに焦げる匂いを立てた。


「下がってください!」


 術士が叫ぶ。


 封印箱を縛っていた符の一枚が、黒く染まった。

 続けて、銀の封具がかすかに震える。


 トウマが鋭く指示を飛ばした。


「結界を二重化! 封印箱を閉鎖状態へ!」

「やっています! ですが、内側から押されています!」


 黒い残滓が、脈打つ。


 どくん。

 どくん。


 その音が聞こえたわけではない。

 けれど、テンカの胸の奥には、確かにそう響いた。


 火に焼かれた記憶。

 氷に留められる予感。


 その両方に反応して、黒いものが目を覚まそうとしている。


 封印箱の隙間から、黒い霧が糸のように漏れた。

 床の結界文様が光る。

 だが、黒い霧は蛇のようにうねり、符の光を削るように広がっていく。


「姫さま、下がってください!」


 キリカが前へ出ようとする。


 それでも、テンカは動かなかった。


 腰の継火が、熱い。

 鞘の奥から、緋色の火がこちらを見ているようだった。


 黒い霧は、もう目の前まで伸びている。

 下がるだけでは、間に合わない。

 テンカは継火の柄へ手をかけた。


 その隣で、白い指先が静かに上がる。


「瘴気を留めるだけなら、氷の方が向いておりますわ」


 エリシアの声が、封瘴室に凛と響いた。


 その周囲で、空気が一気に冷える。


 床に薄い霜が走った。

 黒い霧の先端がその霜に触れ、一瞬だけ白く凍りつく。


 だが、すぐに内側から黒く滲み、氷を軋ませた。

 完全には止まらない。

 けれど、流れは鈍った。


 レオノーラが目を細める。


「エリシア様」

「見るだけ、では済まなくなりましたもの」


 エリシアは微笑まなかった。

 ただ、氷青色の瞳で黒い瘴気を見据えている。


 テンカは継火の柄を握り直した。

 緋色の熱が、手のひらへ伝わる。


 北より来た氷華が、初めてその冷気を広げる。


 そしてテンカの継火もまた、鞘の内で静かに熱を灯していた。

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