黒き鬼の残滓②
第0章として、第1章1話の前に序章を追加しているので、よかったら読んでください。
コトネの一言で、広間に広がりかけていたざわめきは静かに収まった。
商会の者たちは不安げに顔を見合わせたが、さすがに同行を求める者はいなかった。
セドリック=ウェインは一瞬だけ何かを考えるように視線を伏せたが、結局、口を挟まなかった。
中央からの使者としては見届けたい。
だが、ハヅキ家の封瘴室にまで踏み込む理由はない。
そう判断したのだろう。
テンカは席を立った。
腰の継火が、衣の内側で静かに揺れる。
その気配を、エリシアが見ていた。
「何じゃ」
「いえ」
エリシアは涼しい顔で言う。
「抜かない太刀というのも、なかなか存在感があるものですわね」
「見世物ではないぞ」
「分かっていますわ」
「本当に?」
「たぶん」
「そなたも、たぶんと言うのか」
「便利な言葉ですもの」
テンカは小さく笑った。
その横で、レオノーラが静かに息を吐いた。
キリカと目が合う。
互いに、少しだけ苦労を察した顔になった。
封瘴室は、黒松の間から離れた屋敷奥にあった。
廊下をいくつも曲がり、客人が通常立ち入ることのない区画へ入る。
床は黒木から石へ変わり、壁には防音と遮断の術式が刻まれていた。
空気も変わる。
客人を迎える広間の柔らかい香の匂いが消え、代わりに冷たい石と符紙の匂いが漂っていた。
テンカは無意識に背筋を伸ばす。
隣を歩くエリシアも、先ほどまでの軽い調子を消していた。
氷青色の瞳が、廊下の奥を静かに見据えている。
レオノーラはその少し後ろ。
キリカはテンカの斜め後ろ。
トウマは先頭で術士と短く言葉を交わしながら歩いている。
「姫さま」
キリカが小さく声をかけた。
「無理はなさらず」
「分かっておる」
「継火にも、手を」
「かけぬ」
「今、少し動きました」
「……腰の位置を直しただけじゃ」
「そういうことにしておきます」
キリカの目は厳しい。
だが、責めているわけではない。
心配しているのだ。
テンカはその視線を受け止め、小さく頷いた。
やがて、一行は厚い扉の前で足を止めた。
扉には三重の結界符が貼られている。
中央には、黒い墨で大きく封の字が書かれていた。
「ここです」
トウマが言った。
術士が前へ出て、符へ手をかざす。
低い音がして、扉の術式が順にほどけていく。
一枚。
二枚。
三枚。
扉が開くと、冷たい空気が流れ出した。
封瘴室の中は、石造りの小部屋だった。
壁にも床にも結界文様が刻まれ、中央には低い台座がある。
その上に、透明な封印箱が置かれていた。
箱の周囲には符が幾重にも巻かれ、細い銀の針のような封具が四方から打ち込まれている。
そして箱の中には、黒い炭のような塊があった。
拳より少し大きい程度。
黒く乾き、ところどころが焼け崩れている。
それだけなら、ただの燃え残りのようにも見えた。
だが、違う。
表面の罅の奥で、黒い筋がゆっくりと脈打っていた。
テンカの喉が、わずかに鳴る。
あれを、知っている。
黒き鬼の胸の奥。
緋色の火で焼いたはずの、あの黒い塊。
完全には消えず、欠片として残っていたもの。
封印箱の中にあるそれは、死んでいるように見えた。
だが、見れば見るほど、死んでいるとは思えなかった。
「現時点では、外部への瘴気漏出はありません」
術士が説明する。
「一日に三度、濃度を測定していますが、昨夜から大きな変化は見られていません」
「再生反応は?」
トウマが問う。
「なし。少なくとも、肉質の増殖はありません」
「瘴気の吸収は」
「封印箱内の微量瘴気を循環させていますが、外部から吸っている様子はありません」
術士の声は落ち着いていた。
だが、テンカは継火のあたりに熱を感じた。
ほんのわずか。
誰かに呼ばれたように、鞘の奥で火が身じろぎした気がした。
テンカは息を整える。
抜かない。まだ、抜く場面ではない。
その隣で、エリシアが一歩だけ前へ出た。
すぐにレオノーラの声が飛ぶ。
「エリシア様」
「封印陣の外ですわ」
「それでも近いです」
「見えませんもの」
「見えすぎても困ります」
エリシアは聞いているのかいないのか、氷青色の瞳を封印箱へ向けたまま動かない。
その表情から、先ほどまでの軽さが消えていた。
ただ、見ている。
黒い残滓の奥にある何かを、じっと。
エリシアの氷青色の瞳の奥に、淡い光が灯った。
室内の温度が、ほんのわずかに下がる。
冷気が残滓の周囲を撫でるように流れ、黒い塊の罅の奥で、見えない流れの輪郭だけが浮かび上がる。
やがて、エリシアが静かに口を開いた。
「これは、止まっているのではありませんわ」
室内の空気が変わった。
トウマの目が細くなる。
「どういう意味ですか」
「眠っているだけです」
エリシアの声は冷たかった。
だが、その奥には確信があった。
「瘴気の流れが完全には閉じていません。外へ漏れていないだけ。内側で、ゆっくり巡っていますわ」
術士が眉を寄せる。
「しかし、測定では――」
「数値に出ないほど遅いのでしょう。氷湖の下を流れる水と同じですわ。表面は止まって見えても、底では流れが残っている」
エリシアは封印箱を見つめたまま続ける。
「この残滓は、周囲から力を吸っているのではありません。自分の中に残った瘴気を、少しずつ回している。だから肉は増えない。けれど、完全に死んでもいない」
テンカの背筋に、冷たいものが走った。
継火が、またわずかに熱を帯びる。
エリシアの周囲では、空気がほんの少し冷えていた。
火と氷。
その二つの気配が、封瘴室の中で重なる。
わずかな熱と冷気が封印箱の表面を撫でた瞬間、黒い残滓の奥で、何かが反応した。
封印箱の中で、黒い筋がぴくりと跳ねた。
テンカは息を呑む。
「今――」
言いかけた時、黒い残滓の表面に細い罅が走った。
次の瞬間、その罅が蜘蛛の巣のように広がり、奥で脈打っていた黒い筋が一斉に浮かび上がる。
まるで、眠っていた目が開くように。
符が、微かに焦げる匂いを立てた。
「下がってください!」
術士が叫ぶ。
封印箱を縛っていた符の一枚が、黒く染まった。
続けて、銀の封具がかすかに震える。
トウマが鋭く指示を飛ばした。
「結界を二重化! 封印箱を閉鎖状態へ!」
「やっています! ですが、内側から押されています!」
黒い残滓が、脈打つ。
どくん。
どくん。
その音が聞こえたわけではない。
けれど、テンカの胸の奥には、確かにそう響いた。
火に焼かれた記憶。
氷に留められる予感。
その両方に反応して、黒いものが目を覚まそうとしている。
封印箱の隙間から、黒い霧が糸のように漏れた。
床の結界文様が光る。
だが、黒い霧は蛇のようにうねり、符の光を削るように広がっていく。
「姫さま、下がってください!」
キリカが前へ出ようとする。
それでも、テンカは動かなかった。
腰の継火が、熱い。
鞘の奥から、緋色の火がこちらを見ているようだった。
黒い霧は、もう目の前まで伸びている。
下がるだけでは、間に合わない。
テンカは継火の柄へ手をかけた。
その隣で、白い指先が静かに上がる。
「瘴気を留めるだけなら、氷の方が向いておりますわ」
エリシアの声が、封瘴室に凛と響いた。
その周囲で、空気が一気に冷える。
床に薄い霜が走った。
黒い霧の先端がその霜に触れ、一瞬だけ白く凍りつく。
だが、すぐに内側から黒く滲み、氷を軋ませた。
完全には止まらない。
けれど、流れは鈍った。
レオノーラが目を細める。
「エリシア様」
「見るだけ、では済まなくなりましたもの」
エリシアは微笑まなかった。
ただ、氷青色の瞳で黒い瘴気を見据えている。
テンカは継火の柄を握り直した。
緋色の熱が、手のひらへ伝わる。
北より来た氷華が、初めてその冷気を広げる。
そしてテンカの継火もまた、鞘の内で静かに熱を灯していた。
評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!




