黒き鬼の残滓①
休憩を挟んだ後、報告会は再開された。
とはいえ、先ほどまでのような重い質疑が長く続いたわけではない。
各結界柱への物資供給、街道警備の分担。
南西街道を通る商隊の申請手順。
領衛隊、街道巡衛隊、滅魔旅団の連携。
それらはコトネとトウマによって淡々と整理され、領内諸家や商会の代表たちも、必要な確認を終えると静かに頷いていった。
黒松の間に漂っていた緊張は、完全に消えたわけではない。
だが、少なくとも何を恐れ、何に備えるべきかは共有された。
噂ではなく、事実として。
恐怖ではなく、対応すべき現実として。
それが、この報告会の意味だったのだろう。
テンカは上座に近い席で、そのやり取りを聞いていた。
議題は淡々と進んでいる。
だが、胸の奥には先ほど交わした言葉が残っていた。
退屈を嫌う、北方の令嬢。
エリシア=フロストレイン。
彼女はフロストレイン侯爵家の席に戻っていたが、時折、こちらへ視線を向けてくる。
その視線は相変わらず冷たく澄んでいる。
けれど、先ほどまでのように遠くから測るものではない。
一度言葉を交わした相手を、改めて見定めている目だった。
テンカは正面を向いたまま、小さく息を吐いた。
まったく。今日は、刀を抜かぬ戦場だと思っていた。
だが、人と言葉を交わすだけでも、なかなかどうして疲れるものらしい。
「最後に、黒き鬼の残滓についてです」
トウマの声に、広間の空気がわずかに変わった。
テンカは視線を上げる。
掲図板の前に立つトウマは、手元の報告書を一枚めくった。
「黒き鬼の本体は討伐後、術士隊によって処理済みです。ただし、胸部付近から採取された瘴気核の残滓については、現在、屋敷奥の封瘴室にて保管・観察しています」
瘴気核の残滓。
その言葉に、テンカの胸の奥が少しだけ重くなる。
黒き鬼の胸にあった、あの黒い塊。
火行で焼き砕いたはずのもの。
だが、そのすべてが消えたわけではなかったのだ。
「残滓は複数の封印符と隔離結界によって鎮静化しています。現時点で再生反応は確認されていません。ただし、瘴気濃度の推移については引き続き観測が必要です」
トウマは淡々と言った。
だが、その言葉を聞いた瞬間、フロストレイン侯爵家の席で、エリシアの瞳がわずかに動いた。
「黒き鬼の残滓、とおっしゃいましたわね」
涼やかな声が、広間に落ちる。
出席者たちの視線が、今度はエリシアへ向いた。
エリシアはゆっくりと立ち上がる。
白と淡い水色の礼装が、静かに揺れた。
「瘴気を取り込み、傷の再生に利用する個体。その核に近いものが、まだ形を保っているのであれば……見ておく価値がありますわ」
その言葉に、近くの商会の者が眉をひそめた。
領内諸家の名代たちも、互いに視線を交わす。
黒き鬼の残滓など、普通であれば見たいものではない。
ましてや、客人である侯爵家の令嬢が口にすることではなかった。
だが、エリシアの声には、ただの好奇はなかった。
冷静で、澄んでいて、鋭い。
凍った湖面の下を見通すような声音だった。
「エリシア様」
その時、フロストレイン侯爵家の席から、静かな声がかかった。
声の主は、エリシアの隣に控えていた年嵩の女性だった。
銀灰色の髪を隙なく結い上げ、白と藍を基調にした礼装をまとっている。
表情は穏やかだが、その佇まいには北方貴族特有の凛とした冷たさがあった。
レオノーラ=フロストレイン。
フロストレイン侯爵家の分家筋にあたる女性であり、今回の報告会では侯爵家の名代、そしてエリシアの後見役として同行している人物である。
「危険物に興味を示されるのは、お控えください」
「興味ではありませんわ。確認です」
「エリシア様の場合、その二つはしばしば同じ意味になります」
「違いますわ」
エリシアは涼しい顔で答えた。
レオノーラはわずかに目を細める。
叱責ではない。
けれど、簡単に許すつもりもない目だった。
そのやり取りを見て、テンカは少しだけ親近感を覚えた。
キリカと自分の会話に、どこか似ている。
北方の令嬢にも、ちゃんとお目付け役がいるらしい。
「フロストレイン家は、氷術による瘴気封じに通じていると聞いています」
トウマが口を開いた。
場の視線が、再び彼へ向く。
「特に北方では、凍土に染み出す瘴気溜まりを凍結封鎖する術式が発達しているとか」
「その通りですわ」
エリシアが頷く。
「瘴気は流れます。滲み、染み、形を変える。けれど、流れを遅らせることはできますの。凍らせ、留め、形を見れば、何を隠しているのか分かることもあります」
「形を見る、ですか」
「ええ。燃やせば消えるものも、凍らせれば輪郭が残りますわ」
その言葉に、テンカは思わず継火へ意識を向けた。
火は焼く。
穢れを祓い、再生を止め、黒い核を砕く。
だが、氷は留める。
形を止め、流れを遅らせ、隠れているものを浮かび上がらせる。
火と氷。
斬るものと、留めるもの。
まるで正反対だ。
けれど、不思議と噛み合うような気もした。
「……興味深いですね」
トウマは眼鏡の奥で目を細めた。
コトネが静かに問いかける。
「トウマ」
「はい。当主様。危険はありますが、封印陣の外から確認するだけであれば、許容範囲かと」
「条件は」
「封瘴室に入るのは最小限。私、術士隊の担当者、テンカ姫、キリカ殿、エリシア様、そしてレオノーラ様。残滓には触れない。封印陣を越えない。異常反応があれば即座に退出。それが条件です」
「テンカ」
コトネの視線がこちらへ向いた。
「はい」
「継火は抜かないこと」
「承知しております」
「本当に?」
「母上」
「念のためです」
「……承知しております」
少しだけ間が空いたのは、心に刻んだからである。
たぶん。
キリカの視線が、背後から突き刺さった気がした。
「エリシア様」
今度はレオノーラが言う。
「あなたも同じです。氷術を不用意に展開なさらぬように」
「見るだけですわ」
「その言葉を、私はこれまで何度か聞いております」
「今回は本当です」
「なおさら心配です」
エリシアはほんの少しだけ唇を尖らせた。
その表情が年相応に見えて、テンカは思わず目を瞬かせる。
氷の令嬢にも、そういう顔があるらしい。
「よろしい」
コトネが場をまとめるように言った。
「では、封瘴室へ向かいます。ただし、これは見学ではありません。黒き鬼に関わる情報確認です。不要な者は広間で待機を」
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