氷の令嬢は退屈を嫌う①
報告会は、その後もしばらく続いた。
掲図板の前では、トウマが淡々と説明を進めている。
大魔境外縁における瘴気濃度の変化。
各結界柱の連絡体制。
南西街道を通る商隊への護衛推奨。
結界柱に近い町村の避難経路確認。
質問が上がり、答えが返されるたび、広間の空気は少しずつ現実の重みを帯びていった。
黒き鬼。
その名はもう、ただの恐ろしい魔物の名ではない。
交易路に影を落とし、領内諸家の兵を動かし、商会の勘定にも響く、現実の問題になっていた。
テンカは上座に近い席で、そのやり取りを聞いていた。
先ほど、セドリック=ウェインへ答えた時の緊張は、まだ身体の奥に残っている。
だが、不思議と手は震えていない。
腰にある継火の重みが、静かにそこに在る。
抜かない。けれど、逃げもしない。
そう言われているような気がした。
「では、詳細な通達については、後ほど各家および各商会へ書面で送付いたします」
トウマがそう締めると、コトネが静かに頷いた。
「ここで一度、休憩といたします。次の議題では、各結界柱への物資供給と、街道警備の分担について確認します」
その言葉を合図に、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
出席者たちは席を立ち、近くの者同士で小声を交わし始める。
商会の代表たちは早速、護衛費用や通行予定について相談しているらしい。
領内諸家の当主や名代たちは、互いの顔色を窺いながらも、掲図板に示された警戒線へ視線を向けていた。
セドリックは、先ほどと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。
だが、テンカを見る目は先ほどよりも少し慎重だった。
テンカは小さく息を吐く。
「姫さま」
背後から、キリカがそっと声をかけた。
「よいお答えでした」
「そうか?」
「はい。少なくとも、菓子の話をなさらなかった点は、とてもよかったです」
「そこを褒めるのか」
「大事なことですので」
「むう」
否定できない。
母上にも釘を刺されたばかりである。
テンカはちらりと広間の端へ目を向けた。
休憩用に整えられた小卓には、茶器と菓子が並んでいる。
薄く焼いた米粉の菓子。
黒糖を練り込んだ小さな干菓子。
柚子の香りを移した白い砂糖菓子。
どれも、客人に出すため丁寧に作られたものだ。
「……見ておらぬ」
「何も申し上げておりません」
「目が言っておる」
「姫さまの目も、十分に語っております」
キリカは涼しい顔でそう言った。
テンカはわずかに頬を膨らませる。
しかし、ここで菓子に突撃するわけにはいかない。
今日の自分は、ハヅキ家のご令嬢としてこの場にいる。
黒き鬼を斬った姫さまとして見られている。
菓子に目を奪われる姫さまとして記憶されるわけにはいかない。
テンカは、菓子へ向かいそうになる視線をどうにか引き戻した。
こんな時に菓子のことを考えていられる自分に少し呆れる。
だが、甘いものに心を奪われる余裕があるのなら、まだ大丈夫なのかもしれない。
そう思ったところで、正面から涼やかな声がした。
「先ほどは、なかなか退屈しないお答えでしたわ」
テンカは顔を上げた。
そこに立っていたのは、先ほど視線を交わした少女だった。
淡い銀白色の髪。
氷青色の瞳。
白と淡い水色を基調にした北方貴族の礼装。
近くで見ると、銀糸の刺繍は雪の結晶だけではなく、細い蔦のような意匠も織り込まれている。冷たいだけではない。凍った大地の下で春を待つ、北方の気配があった。
エリシア=フロストレイン。
フロストレイン侯爵家の令嬢。
その少女がテンカの前に立った瞬間、近くにいた商会の者が言葉を止め、領内諸家の名代がさりげなく視線を向けた。
北方の名門令嬢と、黒き鬼を斬ったハヅキの姫さま。
その二人が休憩の場で言葉を交わす意味を、この場の者たちは見逃さなかった。
テンカは椅子から立ち上がり、軽く礼を取った。
「テンカ=ハヅキです。エリシア様、お初にお目にかかります」
「ええ。エリシア=フロストレインですわ」
エリシアは優雅に礼を返す。
その所作は、年齢に似合わぬほど整っていた。
だが、瞳だけは遠慮なくテンカを見ている。
礼儀の形を取りながら、その奥で相手を測っている。
そんな目だった。
「先ほど、わらわに届いた言葉は、そなたのものか?」
テンカが問うと、エリシアは少しだけ目を細めた。
「どの言葉のことでしょう」
「『退屈は、しなさそうですわね』、というやつじゃ」
「まあ」
エリシアは口元に手を添えた。
驚いたふりにしては、目がまったく驚いていない。
「届いておりましたの?」
「聞こえたのか、唇を読んだのか、わらわにも分からぬ」
「では、北方の冷気が運んだのかもしれませんわね」
「便利な冷気じゃな」
「ええ。北では、長すぎる祝辞を半分ほど凍らせておくのにも使いますの」
真顔で言う。
冗談なのか本気なのか、少し分かりにくい。
テンカは一拍置いてから、ふっと笑った。
「半分か。全部ではないのじゃな」
「全部凍らせると、あとで叱られますもの」
「それはそうじゃ」
キリカが背後で、ごく小さく息を吐いた。
おそらく、今の会話をどう判断すべきか迷っているのだろう。
礼儀としては失礼ではない。
だが、初対面の貴族令嬢同士の会話としては、少しばかり妙な方向へ進んでいる。
エリシアはそんなキリカの反応にも気づいているらしい。
ほんの少しだけ視線を向け、それからすぐにテンカへ戻した。
「あなた、本当に妙な方ですわね」
「初対面でそれを言うのか」
「褒めていますのよ」
「北方では、妙という言葉で人を褒めるのか?」
「少なくとも、わたくしはそう使いますわ」
「なるほど。それなら、悪くはない」
テンカがそう答えると、エリシアの瞳にわずかな興味の色が増した。
「あなたは、ご自分のことをどう思っていらっしゃるの?」
「どう、とは?」
「黒き鬼を斬った姫さま。東方の術を扱うハヅキのご令嬢。刀匠ムネチカが新たに太刀を打った才ある少女。周囲がそう語るあなたを、あなた自身はどう見ているのかしら」
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