姫さまと氷の視線②
灰色の礼服を着たその男の名は、セドリック=ウェイン。
皇国政務院から派遣された監察官補佐であり、年は三十代半ばほど。整った言葉遣いと穏やかな笑みを身につけているが、その目は笑っていなかった。
「ハヅキ辺境伯閣下。ひとつ、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
「黒き鬼の討伐において、テンカ様も関わられたと伺っております」
来た、とテンカは内心で思った。
広間の視線が、今度ははっきりと自分へ向く。
セドリックは丁寧な調子を崩さない。
「もちろん、滅魔旅団のご活躍あってのこととは承知しております。ただ、皇都にもすでに噂が届いておりまして。黒き鬼を斬ったハヅキの姫さま、と」
姫さま。
その言葉だけが、妙に広間へ響いた。
あえてその呼び名を口にしたのだと、テンカにも分かった。
試されている。
人々の言葉に乗せられるのか。
それとも、目の前の問いに、自分の言葉で立てるのか。
コトネはテンカを見た。
答えなさい、という目だった。
テンカは椅子から腰を上げ、一歩だけ前に出る。
継火の鞘が、わずかに衣に触れた。
「黒き鬼を斬ったのは、事実です」
テンカはゆっくりと言葉を選んだ。
「ですが、わらわ一人の功ではありませぬ。第三討伐隊が通常オーガを止め、術士たちが瘴気を退け、サイゾウが黒き鬼の胸に傷を開いた。わらわは、最後の一太刀を振るっただけじゃ」
「ご謙遜を」
セドリックは穏やかに微笑んだ。
「風聞では、神速の火行をもって黒き鬼を断った、とも聞いております。それほどの危地にテンカ様ご自身が立たれたということは、やはり現場は相当に切迫していたのでしょうな」
言葉は丁寧だった。
だが、その奥には別の問いがある。
ハヅキ家は、年若いご令嬢を前線に立たせねばならぬほど、追い詰められていたのか。
広間の空気が、わずかに硬くなった。
「謙遜ではありませぬ」
テンカは首を横に振った。
「戦場で、一人の刃だけが勝つことはない。少なくとも、ハヅキの戦いはそうではありませぬ」
セドリックの笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「……なるほど」
テンカは続けた。
「わらわが前に出たのは、ハヅキ家が追い詰められていたからではない。そこに、わらわの斬るべきものがあったからじゃ」
それは、年若い令嬢の強がりでも、自分の功を誇る言葉でもなかった。
ただ、戦場に立った者としての答えだった。
セドリックは一拍置いてから、丁寧に頭を下げた。
「失礼いたしました、テンカ様。どうやら私は、風聞の輪郭ばかりを見ていたようです」
「風聞は、都合のよいところだけを運びますゆえ」
「まことに」
セドリックは、もう一度笑みを浮かべた。
だが今度の笑みからは、先ほどまでの余裕がわずかに薄れていた。
その一問一答を境に、場の空気もほんの少し変わる。
好奇だけではない。
値踏みだけでもない。
テンカを見る者たちの視線に、先ほどまではなかった重さが宿っていた。
人々が語る武勇譚の主役ではなく、ハヅキ家の場に立つ、一人の令嬢。
そう見直されたのだと、テンカは肌で感じた。
その時だった。
ふと、テンカは別の視線に気づいた。
その時、テンカは数ある視線の中に、ひとつだけ温度の違うものがあることに気づいた。
広間の右側、フロストレイン侯爵家の席。
そこに、一人の少女が座っていた。
淡い銀白色の髪。
雪を溶かしたような透明感のある髪は、上品にハーフアップにまとめられ、細い編み込みに小さな雪華の髪飾りが添えられている。
瞳は、透き通った氷青色。
白と淡い水色を基調にした北方貴族の礼装。
銀糸の刺繍が、光の加減で雪の結晶のように浮かび上がっていた。
同じくらいの年頃だろうか。
けれど、その背筋は伸び、表情は凛としている。
可憐だが、柔らかいだけではない。
冷たいほど澄んだ気配がある。
エリシア=フロストレイン。
名を聞いていた、北方の令嬢。
他の者たちは、継火を見ていた。
黒き鬼の噂を見ていた。
ハヅキ家の力を見ていた。
だが、その少女の視線は、ほかの者たちとは少し違っていた。
継火の鞘に長く留まるわけでもなく、黒き鬼を斬ったという話を確かめるような好奇でもない。
エリシアは、テンカがセドリックの問いにどう答えたのか、その後も腰の太刀に頼らず、どのようにその場に立っているのかを見ていた。
値踏みではある。
けれど、使者のそれとは質が違う。
相手の力を利用できるかを測る目ではなく、同じ年頃の才ある者として、目の前の相手が退屈せずに向き合える相手かどうかを確かめる目だった。
テンカもまた、その氷青の瞳を見返した。
銀白の髪に、白と淡い水色の礼装。
黒と緋をまとい、継火を佩いた自分とは、まるで対になるような少女。
まだ言葉は交わしていない。
それでも、テンカには分かった。
あの令嬢は、こちらを遠巻きに眺めるだけで終わるつもりはない。
エリシアの唇が、ほんの少しだけ動いた。
声は、近くの者にしか届かないほど小さい。
それでも一瞬、冷えた空気が耳元を撫でたような気がした。
「……退屈は、しなさそうですわね」
聞こえたのか。
唇の動きを読んだだけなのか。
テンカ自身にも分からなかった。
ただ、北より来た氷の令嬢は、澄んだ瞳でテンカを見つめていた。
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