姫さまと氷の視線①
報告会は、ハヅキ家本邸の迎賓大広間――黒松の間で開かれることになっていた。
畳敷きの座敷ではない。
領外の貴族や商会の者も迎えるため、広間には長机と椅子が整えられ、正面には大魔境周辺の状況を示す掲図板が据えられている。
掲図板には、ハヅキ領南方から西部にかけて広がる大魔境、各結界柱の位置、交易路、街道、滅魔旅団の警戒線が見やすく整理され、離れた席からでも分かるよう札や色分けで示されていた。
黒漆の柱や屏風、組紐の意匠にはハヅキ家らしい和の気配があるが、会場全体のつくりは領外の客にも分かりやすい、実務向きのものだった。
報告会という名ではあるが、ただの説明の場ではない。
領内諸家の当主や名代にとっては、今後の防衛負担と領地運営に関わる場。
商会にとっては、交易路の安全を見極める場。
中央からの使者にとっては、ハヅキ家の動向を探る場。
そして、テンカにとっては、刀を抜かぬ戦場だった。
「姫さま」
控えの間の扉の前で、キリカが静かに声をかけた。
「背筋を」
「伸びておる」
「もう少し」
「厳しいのう」
「本日は、いつもより厳しくいたします」
「いつも厳しい気もするが」
「では、さらにです」
テンカは小さく息を吐いた。
黒と緋の礼装は、身体に馴染んでいる。
腰には継火。
黒い鞘に走る緋の一筋が、控えめに光を返していた。
隣には、母コトネ。
その少し後ろには父アルバート。
コトネは黒を基調とした当主の正装をまとい、いつも通り凛としている。
母としてではない。
ハヅキ辺境伯家の当主として、これから人々の前に立つ顔だった。
「テンカ」
「はい、母上」
「今日は、余計なことを言わず、必要なことだけを言いなさい」
「承知しております」
「菓子の話も、求められない限りしないこと」
「……承知しております」
「なぜ一拍空きましたか」
「心に刻んだからです」
アルバートが小さく笑った。
コトネはわずかに目を細める。
「よろしい。行きます」
扉が開かれた。
黒松の間に、静かなざわめきが満ちている。
だが、コトネが一歩足を踏み入れた瞬間、そのざわめきはすっと細くなった。
ハヅキ辺境伯家当主、コトネ=ハヅキ。
大魔境と隣り合うこの領地を治める者。
その存在感だけで、場の空気が整う。
テンカはその後に続いた。
領内諸家の当主や名代たちの好奇、商会の者たちの計算、中央使者の測るような目が、いっせいにテンカへ向けられていた。
囁きが、薄く広がる。
「あれが……」
「ハヅキの姫さまか」
「黒き鬼を斬ったという……」
「腰の太刀が、例の継火か」
噂の中の呼び名。
ハヅキの姫さま。
その言葉が領内だけでなく、皇国のあちこちにまで届き始めていることを、テンカは改めて思い知らされた。
だが、正式な場では違う。
中央から来た使者たちは、露骨にそうは呼ばない。
彼らの視線と言葉の端にあるのは、ハヅキ辺境伯家のご令嬢としてのテンカだ。
テンカは、継火の柄に触れそうになる手を抑えた。
今日は、抜かない。抜かずに立つ。
それが、今の自分の役目だ。
上座へ進んだコトネが、静かに場を見渡した。
「本日は、ハヅキ領南西部における大魔境外縁の異常、および今後の警戒体制について報告するため、皆様に集まっていただきました」
広間が静まる。
コトネの声は大きくはないが、よく通った。
「すでに各所へ通達している通り、第三結界柱付近において、通常では外縁部に現れぬ大型鬼種の移動が確認されました。さらに、その後、高濃度の瘴気を纏う異常個体――黒き鬼が出現しています」
黒き鬼。
その名に、場の空気がわずかに重くなる。
テンカは息を浅くした。
脳裏に、夜のように黒い皮膚と、黒い血と、燃え上がる火行の感覚がよみがえる。
だが、継火の重みが腰にある。
砕けた刀ではない。
今ここにある、帰るための太刀だ。
「この場は、不安を煽るためのものではありません」
コトネは続けた。
「噂だけが先に走れば、交易路にも、領内の暮らしにも余計な乱れが生じます。ゆえに本日は、現時点で確認されている事実と、ハヅキ家としての対応を共有します」
その言葉に、商会の者たちがわずかに姿勢を正した。
領内諸家の者たちも、正面の掲図板へ視線を落とす。
コトネが目で合図すると、掲図板の脇に控えていたトウマが、一歩進み出た。
黒に近い藍色の髪を後ろで緩く束ね、銀縁の眼鏡をかけた細身の男。
武人というより学者のように見えるが、その場にいる者の多くは知っている。
彼こそが、滅魔旅団の作戦立案、兵站管理、結界運用を統べる副長であることを。
「では、現時点での状況を報告いたします」
トウマは掲図板の札を指示棒で示した。
「まず、第三結界柱付近で確認された通常オーガの群れですが、こちらは第三討伐隊により撃退済みです。ただし、問題は数ではありません。確認された移動経路です」
赤い札が、大魔境の奥から外縁へ向けて置かれていく。
「本来であれば、これほど外縁へ出る個体ではありません。加えて、彼らは我々を襲うというより、何かから逃げるように移動していたとの現場報告があります」
場がざわついた。
「逃げる?」
「オーガがか」
「では、奥に何が……」
トウマは淡々と続ける。
「その後に出現した黒き鬼は、周囲の瘴気を取り込み、傷の再生に利用していた可能性が高い個体です。討伐は完了していますが、あの個体が単独で発生したものか、大魔境深部の変化によるものかは、現時点では断定できません」
テンカは、掲図板に貼られた赤い札を見つめた。
黒き鬼は倒した。だが、それで全てが終わったわけではない。黒き鬼を討った後、屋敷の会議室で聞いた時と同じ重さが、今この黒松の間にもあった。
ただ、今日は違う。
そこにいるのはハヅキ家の者だけではない。
外の者たちが、ハヅキ領の異変を見ている。
試して、測っている。
「交易路への影響はどの程度でしょうか」
有力商会の代表らしき男が手を挙げた。
年配だが、背筋は伸びている。
声には不安と現実的な計算が混じっていた。
「南西街道は、一部警戒を強めています。ただし、現時点で全面封鎖の予定はありません」
トウマが答える。
「滅魔旅団の巡回を増やし、結界柱間の連絡頻度も上げています。通行には指定時間と護衛帯同を推奨します」
「商隊の規模制限は?」
「大型商隊については、事前申請をお願いします。小規模商隊は、第二、第三、第四結界柱の負荷状況を確認しながら許可を出します」
「承知しました」
商会代表が頷く。
次に、領内諸家の名代の一人が口を開いた。
「各町の領衛隊や、街道巡衛隊への追加動員は必要になりますか」
「現時点では、通常防衛線の維持を優先します。ただし、結界柱に近い村については、領衛隊と各諸家の警備兵に避難経路の再確認を命じます」
コトネが答え、場は徐々に報告会らしい熱を帯びていった。
質問が上がり、答えが返され、掲図板の前ではトウマが札の位置や指示棒で状況を示していく。書記は羽根ペンを走らせ、商人たちは小声で利害を確かめ合い、領内諸家の当主や名代たちは黙したまま次の通達を待っていた。
テンカは上座に近い席で、そのやり取りを静かに聞いていた。
だが、ただ座っているだけではない。発言していない時でさえ、視線が自分と腰の継火へ流れてくるのが分かった。
黒い鞘に緋の一筋。
それがただの飾りではないことを、武に通じる者ほど気づいている。
そして、気づいた者ほど、軽々しく口にはしなかった。
その沈黙が、かえって居心地悪い。
そんな中、中央からの使者の一人が、ゆっくりと口を開いた。
掲図板=ホワイトボードみたいなのです。
掲示板や作戦ボードじゃしっくりこなかったので。
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