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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第3章 継火と氷華
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姫さまの礼装

 報告会の日は、思っていたより早くやって来た。


 朝から、ハヅキ辺境伯家の屋敷はいつもより少しだけ慌ただしい。


 使用人たちの足音。

 磨かれた廊下に差し込む光。

 遠くで聞こえる馬車の車輪の音。


 普段の屋敷にも緊張はある。

 だが、今日のそれは、大魔境へ向かう前の緊張とは違っていた。


 刃を抜く前の静けさではない。

 人を迎えるための、整えられた緊張だ。


「姫さま、こちらへ」


 キリカに促され、テンカは自室の中央に立たされた。

 部屋にはすでに、数人のメイドが控えている。


 姿見の前には、今日のために用意された礼装が広げられていた。

 テンカはそれを見て、思わず目を瞬かせる。


「……これは、また」


 黒を基調とした衣だった。


 皇都の貴族令嬢が好むような、裾を大きく広げた華やかなドレスではない。

 東方の意匠を取り入れた、動きやすい礼装。


 上衣は艶を抑えた黒。

 襟元には白が差され、袖口と裾には細く緋色の刺繍が走っている。

 腰には帯のような布が重ねられ、その上から、太刀を佩くための組紐と留め具が整えられていた。


 華やかすぎない。

 だが、地味ではない。

 黒の中に緋がある。


 まるで、鞘に納められた火のようだった。


「ハヅキ家の礼装です」


 キリカが言った。


「本日のため、当主様が細かく指示を出されました」

「母上が」

「はい。継火を佩くことを前提に、動きやすさと格式の両方を整えるように、と」


 テンカは姿見の前に置かれた礼装を見つめた。


 継火を佩くための礼装。

 それだけで、胸の奥が少し重くなる。

 刀を持つことを許されている。


 けれど、それは好きに振るってよいという意味ではない。


 人前に立つために、刀を佩く。

 見せるためではなく、示すために。


「……これは、重そうじゃな」

「実際には見た目ほど重くありません」

「心の方じゃ」


 テンカがそう呟くと、キリカは一瞬だけ目を伏せた。


 そして、すぐにいつもの表情へ戻る。


「では、背筋を伸ばしてください」

「そこは少し励ますところではないのか」

「背筋を伸ばすことも、励ましの一種です」

「本当か?」

「本当です」


 きっぱり言われて、テンカは小さく息を吐いた。


 メイドたちが静かに動き出す。

 普段着を脱がされ、白い下衣を重ねられる。

 袖を通し、襟を整え、帯を締める。


 一つ一つの動作が丁寧だった。戦場の支度とは違う。

 鎧を着せられる時のような、硬い音はしない。

 代わりに、布が擦れる音と、組紐が締まる音が耳に残る。


 それでも、これはこれで戦いの支度なのだろう。

 少なくとも、今日のテンカにとっては。


「苦しくありませんか」

「大丈夫じゃ」

「肩は」

「動く」

「腕は」

「上がる」

「腰は」

「刀を佩ける」

「では、少し歩いてください」


 テンカは言われるまま、部屋の中を数歩歩いた。


 裾は足に絡まない。

 帯も呼吸を邪魔しない。

 袖は長すぎず、動きを妨げない程度に整えられている。


 礼装でありながら、いざという時に動ける。

 それが、ハヅキ家の衣なのだと分かった。


「悪くない」

「お似合いです」


 キリカが静かに言った。

 その声が、いつもより少し柔らかかった。


「そうか?」

「はい」

「……そなたが素直に褒めると、逆に落ち着かぬな」

「では、いつも通りに戻しましょうか」

「いや、今のままでよい」


 テンカがそう言うと、キリカの口元がわずかに緩んだ。


 次に、髪を整えられた。

 艶やかな黒髪を、いつものように下ろしたままにはしない。


 けれど、全てを結い上げるわけでもない。

 左右の髪を細く取り、後ろでまとめる。

 残りの黒髪は背に流し、緋色の細い飾り紐で留められた。


 派手な宝石はない。

 大きな髪飾りもない。

 ただ、黒髪の中に一本だけ緋が差す。


 その控えめな色が、かえってテンカの瞳を引き立てていた。


 姿見の中に、見慣れたようで見慣れない少女がいる。


 黒髪。

 暗い紅玉のような瞳。

 黒と緋の礼装。


 そして、まだ腰には何もない。


「……変ではないか」

「変ではありません」

「妙に大人びて見えぬか」

「少し」

「そこは否定してよい」

「ですが、お綺麗です」

「む」


 テンカは言葉に詰まった。


 褒められるのは苦手だ。

 特に、今のような格好で真顔で言われると、どうにも落ち着かない。


『いや、これは……我ながら、かなり可愛いのでは……?』


 頭の奥で、前世の自分が妙に冷静な声で呟いた。

 テンカはその声を押し込めるように、軽く咳払いをした。


「キリカ」

「はい」

「今の顔は、見なかったことにせよ」

「どの顔でしょう」

「分かっておるじゃろう」

「姫さまがご自分の可愛らしさに気づかれたお顔ですか」

「言うでない」


 メイドたちの何人かが、そっと目を伏せる。

 肩が少しだけ震えている者もいた。


 笑われている。

 いや、微笑まれている。

 どちらにしても、恥ずかしい。


「……やはり、刀がないと落ち着かぬ」

「では、最後に」


 キリカが静かに頷いた。


 部屋の奥に置かれていた黒い鞘の太刀を、両手で持ち上げる。


 継火。

 黒い鞘に、緋の一筋。


 鞘口と鍔の内側には、五行の色が目立たぬように仕込まれている。

 それは華美な飾りではない。

 テンカの火を受け、水で鎮め、手元へ返すための意匠。


 キリカは継火をテンカへ差し出した。


「姫さま」

「うむ」


 テンカは両手で継火を受け取った。


 いつもの重みが手に戻る。

 重い。けれど、恐ろしい重さではない。

 自分が背負うべきものが、そこに形を持っているだけだ。


 テンカはゆっくりと腰に佩く。

 組紐を通し、位置を整え、鞘を落ち着かせる。


 黒い礼装に、黒い鞘が収まった。

 緋の一筋だけが、控えめに光を返している。


 姿見の中の少女が、ようやく自分に見えた。


「……収まったな」

「はい」


 キリカは頷いた。


「よくお似合いです」


 今度は、テンカも素直に受け止めた。


 継火を佩いた自分。

 それが、今日人々の前に立つ姿なのだ。


「姫さま」


 部屋の外から声がかかった。

 別のメイドが扉の向こうで控えている。


「当主様よりお言葉です。準備が整い次第、控えの間へお越しくださいとのことです」

「分かった」


 テンカは一度、深く息を吸った。


 控えの間。

 その先には、報告会の場がある。


 領内貴族。有力商会。

 中央からの使者。

 そして、北方フロストレイン侯爵家。


 氷魔術の才を持つという令嬢、エリシア=フロストレインも、そこにいるのだろう。


 まだ会ったことのない相手。

 だが、その名はすでにテンカの中に小さな棘のように残っていた。


 自分に会いたがっているという、北方の令嬢。

 黒き鬼を斬った「ハヅキの姫さま」に興味を持っているという少女。


 彼女が見たいのは、噂なのか。

 それとも、今ここにいる自分なのか。


 テンカには分からない。

 ただ一つ分かるのは、今日の自分は逃げられないということだ。


「キリカ」

「はい」

「わらわは、変に見えぬな」

「見えません」

「噂に負けておらぬな」

「負けておりません」

「……菓子に気を取られておるようにも見えぬな」

「それは少しだけ見えます」

「そこは否定せぬのか」

「事実ですので」

「むう」


 テンカは不満げに唇を尖らせた。


 そのおかげで、少しだけ肩の力が抜ける。

 キリカはそれを見ていたのか、静かに微笑んだ。


「大丈夫です、姫さま」


 その声は、いつものように落ち着いていた。


「継火も、わたしも、側におります」


 テンカはキリカを見た。


 アッシュブラウンの髪をきちんとまとめ、控えめに立つメイド。

 だが、その袖口には隠し針があり、腰には短刀がある。


 メイドとして。護衛として。

 そして、テンカの側にいる者として。

 その姿は、いつも通りだった。


「うむ」


 テンカは頷いた。


「ならば、行こう」


 部屋の扉が開かれる。

 廊下の向こうから、遠く人の声が聞こえてきた。


 ハヅキ家の屋敷に集まり始めた、人々の声。

 噂を聞いた者たち。

 探りに来た者たち。

 好奇の目を向ける者たち。


 その先に立つために、テンカは一歩を踏み出した。

 黒と緋の礼装をまとい、継火を腰に佩いて。


 ハヅキの姫さまの支度は、静かに整った。

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