氷華は北より来たる②
「わらわは、何をすればよいのですか」
「難しいことではありません。ハヅキ辺境伯家の娘として、場に立ちなさい」
「それが難しいのでは?」
「テンカ」
「はい」
「武人として刀を振るうより、令嬢として人前に立つ方が難しい時もあります」
令嬢。
噂の中では、テンカはすでに「ハヅキの姫さま」と呼ばれている。
けれど、皇国貴族の席に立てば、そこにいるのは他家の者たちから見たハヅキ辺境伯家のご令嬢だ。
親しげな呼び名ではなく、家名と立場を背負った呼び名。
継火を握る手なら、少しずつ分かってきた。
火を留める稽古も、まだ未熟ながら続けている。
だが、ハヅキ辺境伯家の令嬢として立つ。
それは、刀を抜くのとは違う難しさがある気がした。
「……わらわは、そこまで見られておるのか」
「すでに見られています」
コトネは言った。
「だからこそ、こちらも相応に整えなければなりません」
テンカは黙って、腰の継火へ意識を向けた。
戦場であれば、斬るべきものを見定めればいい。
だが、これから立つのは、刀を抜かぬ場だ。
そこで何を見られ、何を測られるのか。
それを考えるだけで、継火の重みとは別のものが、肩にのしかかる気がした。
トウマが静かに一歩前へ出る。
「当日は、領内の有力者だけでなく、中央寄りの家からも使者が参ります。純粋な祝意だけではなく、探りもあると見てよいでしょう」
「探り」
「テンカ様の実力、継火の存在、ハヅキ家の方針。それらを見極めたい者がいます」
「直接聞いてくれればよいものを」
「直接聞かずに探るのが貴族の礼儀と考える方もおりますので」
「面倒じゃな」
「ええ、面倒です」
トウマが真顔で答えた。
そのあまりの即答に、テンカは少しだけ笑いそうになった。
「ただし、全員が敵というわけではありません」
トウマは続ける。
「友好的な家もあります。たとえば、北方のフロストレイン侯爵家」
「フロストレイン?」
「氷魔術の名門です。今回は令嬢を伴って来訪するとのこと」
「令嬢?」
テンカは首を傾げた。
「同じくらいの年頃なのですか」
「おそらくは」
コトネが答える。
「名は、エリシア=フロストレイン。北方でも氷魔術の才を高く評価されている令嬢だそうです」
「氷魔術」
テンカの目が少しだけ輝いた。
火行や水行とは違う、属性魔術としての氷。
それも北方名門の令嬢が扱うとなれば、興味が湧かないはずがない。
「その者も来るのか」
「ええ」
トウマが頷く。
「フロストレイン家からの書状には、テンカ様に一度お目にかかりたい、という文言もありました」
「わらわに?」
「はい。黒き鬼を斬った『ハヅキの姫さま』に、令嬢ご本人も関心を示されているようです」
「……それはまた、随分と見られておるのう」
テンカは継火の柄を軽く撫でた。
まだ会ったこともない北方の令嬢が、自分に興味を持っている。
それは少し不思議で、少し落ち着かない。
「どのような娘なのじゃ」
「会えば分かります」
「母上、そういう返しは少しずるい」
「事前に決めつけてはなりません」
「む」
たしかに、それはそうだった。
テンカはまだ見ぬ令嬢の姿を想像する。
氷魔術の才を持つ、北方の名門侯爵家の令嬢。
雪のように冷たい目をしているのだろうか。
それとも、貴族令嬢らしく優雅に微笑むのだろうか。
どちらにしても、饅頭の話が通じるかは分からない。
「テンカ」
「はい」
「今、何を考えていましたか」
「……氷魔術とは、どのようなものかと」
嘘ではない。
半分は。
キリカの視線が、横から刺さった。
「姫さま」
「何じゃ」
「もう半分は?」
「……菓子の趣味が合うかどうかじゃ」
執務室に、わずかな沈黙が落ちた。
アルバートが肩を震わせている。
トウマは眼鏡の位置を直した。
コトネは目を閉じ、静かに息を吐く。
「テンカ」
「はい」
「報告会は、菓子を食べに行く場ではありません」
「承知しております」
「本当に?」
「……努力します」
「努力では困ります」
「では、善処します」
「同じです」
キリカが小さく頷く。
「姫さま、わたしも当日は側に控えます」
「それは心強いが、少し監視に近くないか?」
「護衛です」
「本当か?」
「護衛です」
テンカは疑わしげにキリカを見た。
だが、キリカの表情は揺らがない。
コトネは机の上から別の書状を取り、テンカへ向けた。
「当日の衣装も整えます」
「衣装?」
「ええ。継火を佩くことを前提にした、ハヅキ家の礼装です」
テンカの眉がぴくりと動いた。
「継火を佩いてよいのですか」
「佩きなさい」
その言葉は、思っていたよりもはっきりとしていた。
「あなたを、噂の中の『ハヅキの姫さま』として見せるのではありません。ハヅキ辺境伯家の娘として、そして継火を佩く武人として見せます」
テンカは黙った。
腰の継火が、静かに重みを返している。
ハヅキ辺境伯家の娘。
継火を佩く武人。
そのどちらも、自分なのだろうか。
まだ少し、実感は薄い。
けれど、逃げるわけにはいかない。
黒き鬼を斬った噂が広がったのなら。
継火を佩いた姿を見られるのなら。
そこに立つ自分が、噂に負けるわけにはいかない。
「分かりました、母上」
テンカは静かに頷いた。
「わらわは、ハヅキの姫としてその場に立ちます」
コトネは、ほんのわずかに目を細めた。
「よろしい」
「ただし」
テンカは少しだけ真剣な顔で続けた。
「北方の令嬢を迎えるなら、菓子の用意は慎重にした方がよいと思います」
「菓子、ですか」
コトネの声が、わずかに低くなる。
キリカの視線も、横から静かに刺さった。
「誤解するでない。これは大事な話じゃ」
「どのあたりがでしょう」
「客人をもてなす席で出す菓子は、ハヅキ領の印象にも関わる。まして相手は北方の名門侯爵家の令嬢であろう。ならば、まずはハヅキの菓子で心を掴むのも一手ではないか?」
テンカは堂々と言い切った。
アルバートが、とうとう小さく笑う。
「それは一理あるね」
「父上は分かっておられる」
「たしかに、ハヅキ領の甘味は良い話題になるかもしれない。テンカの目は厳しいから」
「そうじゃろう」
「ですが」
コトネが静かに言った。
「あなたが食べたいだけではありませんね?」
「……少しだけです」
「少しはあるのですね」
「確認は必要じゃ」
「試食と言い換えても駄目です」
「む」
テンカが唇を尖らせると、キリカが小さく笑った。
執務室の空気が、わずかに柔らかくなる。
それでも、机の上には多くの書状が残っている。
噂は、すでに動き出している。
中央からの視線。
領内貴族の好奇。
北方の令嬢。
それらが、これからテンカの前に現れる。
テンカは継火の柄にそっと触れた。
これは、戦場ではない。
けれど、立たねばならない場だ。
刀を抜くためではなく。
ハヅキの姫さまと呼ばれる者として、人々の前に立つために。
その日、テンカは初めて知った。
継火を佩くということは、ただ武器を得ることではない。
その重みごと、人々の視線を受けるということなのだと。
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