氷華は北より来たる①
継火を佩くようになってから、ひと月近くが過ぎた。
その間、テンカは毎朝のように継火を手に取り、抜き、振り、納める稽古を続けていた。
屋敷の鍛錬場には、朝の澄んだ空気が流れている。
テンカは黒い鞘の太刀を腰に佩き、静かに息を整えていた。
継火。
刀匠ムネチカが打った、新しい太刀。
砕けた刀の欠片を継ぎ、火喰い鋼と霊水石を用いて打たれたその一振りは、テンカの腰に不思議なほど自然に収まっている。
だが、自然だからといって、使いこなせているわけではない。
「ふっ」
短く息を吐き、テンカは一歩踏み込んだ。
鞘から刃が抜ける。
黒い鞘から現れた刀身が、朝の光を淡く返した。
振り抜く。
戻す。
納める。
動きは、まだ遅い。
速さよりも、乱れないことを意識する。
火を巡らせるわけではない。
ただ、刀を抜き、振り、戻し、納める。
それだけの動作が、以前よりもずっと重く感じられた。
継火は、ただ斬るための太刀ではない。
帰るための太刀だ。
そう思うたびに、テンカの手の内も、足の運びも、少しだけ慎重になる。
「姫さま」
鍛錬場の端に控えていたキリカが声をかけた。
今日もアッシュブラウンの髪をきちんとまとめ、隙のない立ち姿である。
「今の納刀、少しだけ急がれました」
「む。分かるか」
「分かります」
「そなた、最近ますます厳しくなっておらぬか」
「姫さまが継火を佩くようになられましたので」
「理由になっておるような、なっておらぬような」
「なっています」
きっぱりと言い切られ、テンカは小さく唸った。
だが、言い返しはしなかった。
キリカが見ているのは、テンカを止めるためだけではない。
テンカが倒れずに戻るためだ。
それが分かるようになった分だけ、少しだけ反論しにくくなった。
「もう一度じゃ」
テンカは再び継火の柄に手を添える。
その時だった。
鍛錬場の入り口に、屋敷のメイドが姿を見せた。
「テンカ様。当主様がお呼びです」
「母上が?」
「はい。執務室へお越しくださいとのことです」
テンカはキリカを見る。
キリカもわずかに首を傾げた。
「何かしたかのう」
「心当たりがあるのですか」
「ない。ないはずじゃ」
「では、堂々となさればよいかと」
「それはそうなのじゃが、母上に呼ばれると何かしら身構えるのう」
そう言いながらも、テンカは継火をきちんと納めた。
黒い鞘が、かちりと静かに音を立てる。
その音を聞いてから、テンカは執務室へ向かった。
ハヅキ辺境伯家の執務室には、何通もの書状が並べられていた。
机の前にはコトネが座っている。
艶やかな黒髪を結い上げ、背筋を伸ばした姿は、母である前にハヅキ辺境伯家の当主だった。
その隣にはアルバート。
そして、少し離れた位置に、銀縁の眼鏡をかけた細身の男――滅魔旅団副長トウマが控えている。
「来ましたか、テンカ」
「はい、母上」
テンカは一礼する。
キリカもその後ろで頭を下げた。
「稽古中に呼び立ててしまいましたね」
「問題ありませぬ」
テンカはちらりと机の上を見る。
いくつもの封蝋。
見慣れぬ紋章。
丁寧に開かれた書状。
ただの家中の用件ではないことくらいは、さすがに分かる。
「何かあったのですか」
コトネは一通の書状を手に取った。
「あなたの噂が、思ったより早く広がっています」
「わらわの噂?」
「黒き鬼を斬ったハヅキの姫さま。刀匠ムネチカが新たに太刀を打った辺境伯家のご令嬢。東方の術を扱うハヅキ家の次女」
並べられる言葉に、テンカは少しだけ眉を寄せた。
「……随分と大げさじゃな」
「噂とは、そういうものです」
コトネは淡々と言った。
「あなたが恐れたこと。刀が砕けたこと。倒れて戻ったこと。そうしたものは、都合よく削られます」
「残るのは、分かりやすい武勇譚だけ、ということか」
「ええ」
テンカは継火の柄にそっと触れた。
黒き鬼を斬ったことは、事実だ。
けれど、あれは自分ひとりの武勇ではない。
キリカがいた。サイゾウがいた。第三討伐隊がいた。
母の教えがあった。
砕けた刀が、最後まで火を通してくれた。
それらすべてがあって、ようやく戻ってこられたのだ。
「わらわひとりの手柄ではない」
「そのように理解しているのなら、よろしい」
コトネの声は静かだった。
だが、どこか安堵が混じっているようにも聞こえた。
アルバートが柔らかく微笑む。
「ただ、外の人たちはそこまで丁寧には見てくれないからね」
「面倒じゃな」
「貴族社会は、だいたい面倒なものだよ」
「父上が言うと説得力があるのう」
「僕はハヅキ家に婿入りした身だからね。最初はずいぶん見られたよ」
アルバートは苦笑した。
コトネが小さく咳払いをする。
「本題に入ります」
「はい」
「近く、領内貴族と有力商会を招いた報告会を開きます。名目は、大魔境周辺の状況報告と交易路の確認です」
「報告会ですか」
「ええ。中央からの使者も数名、顔を出す予定です」
テンカは嫌な予感がした。
こういう時の嫌な予感は、だいたい当たる。
「まさか、わらわも出るのですか」
「出ます」
即答だった。
テンカは思わずキリカを見た。
キリカは涼しい顔をしている。
どうやら驚いていない。
「キリカ、知っておったのか」
「今、知りました」
「本当か?」
「本当です。ただ、いずれそうなるだろうとは思っておりました」
「そなたまで」
テンカは唸った。
コトネは机の上の書状を整えながら続ける。
「あなたを隠し続けることはできません。むしろ、噂だけが先に走る方が危うい」
「だから、姿を見せると」
「ええ。噂に振り回されるのではなく、こちらから形を与えます」
テンカは黙った。
噂の中の「ハヅキの姫さま」。
そして、これから人前に立つハヅキ辺境伯家の娘。
どうやら継火を佩いた自分は、もう屋敷の中だけにいられる存在ではないらしい。
刀を抜かぬ場で、何を見られ、何を測られるのか。
その時のテンカには、まだ分からなかった。
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