幕間 姉からの手紙
学園都市レイヴェルンの朝は、ハヅキ領の朝とは少し違っていた。
石造りの塔。
整えられた庭園。
磨かれた廊下に響く靴音。
遠くから聞こえる鐘の音。
皇国中から集まった貴族子女や才ある者たちが行き交うこの場所は、華やかで、整っていて、そして少しだけ息が詰まる。
レイナは、学園の中庭に面した回廊を歩いていた。
父譲りの金色の髪が、朝の光を受けて柔らかく揺れる。
すれ違う生徒たちは、自然と彼女へ視線を向ける。
ハヅキ辺境伯家の長女。
次期当主候補で、南方の大領主のご令嬢。
その肩書きは、レイナが何をするより先に、この学園都市で彼女の輪郭を作っていた。
けれど、その日レイナへ向けられた視線には、いつもと少し違う色が混じっていた。
「レイナ様」
回廊の先で、同級生の令嬢たちが足を止める。
レイナは穏やかに微笑み、軽く会釈した。
「おはようございます」
「おはようございます。あの……少しお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ええ。何でしょう」
令嬢たちは顔を見合わせる。
その仕草だけで、レイナには何となく察しがついた。
最近、似たような空気を何度か感じている。
「妹君が、黒き鬼を斬られたというお話は、本当なのですか?」
やはり、と思った。
レイナは微笑みを崩さない。
「大魔境で危険な魔物と交戦したことは事実です。ですが、その場には我がハヅキ領が誇る滅魔旅団の方々もおりました。妹ひとりの武勇として語られるのは、少し違います」
「ですが、刀を用いて戦われたとか」
「新しい太刀を佩かれたとも聞きましたわ」
「黒髪で、東方の術を扱う姫さまだと」
言葉が重なっていく。
悪意はない。
好奇心と憧れ。
それに少しの噂好きが混じっているだけだ。
けれど、レイナの胸の奥には、ほんの小さな棘が刺さった。
テンカは、見世物ではない。
そう言いたくなる。
あの子は確かに強い。
けれど、まだ11歳の妹だ。
饅頭に目を輝かせ、可愛いと言われると不満げに頬を膨らませ、キリカにたしなめられては「む」と唸る。
そんなテンカを、噂だけで語ってほしくはなかった。
それでも、レイナは表情を崩さなかった。
ハヅキ家の長女として。
次期当主候補として。
ここで感情をそのまま見せるわけにはいかない。
「妹は、努力家です」
レイナは静かに言った。
「刀も、術も、日々学んでおります。ですが、噂にあるような大仰なものではありません」
「そうなのですか?」
「ええ」
レイナは微笑む。
「ただ、少し負けず嫌いで、少し頑張りすぎるところがあります」
令嬢たちが、ほっとしたように笑った。
「まあ。可愛らしい方なのですね」
その言葉に、レイナの微笑みがほんの少し深くなる。
「ええ。とても」
そこだけは、否定する理由がなかった。
授業を終えたその夜。
レイナは学生寮の自室で机に向かっていた。
窓の外には、学園都市の灯りが並んでいる。
遠くの塔には魔灯がともり、夜のレイヴェルンを淡く照らしていた。
机の上には、便箋と封筒。
それから、昼に買った小さな焼き菓子が置かれている。
学園都市の菓子店で売られていたものだ。
悪くはない。
悪くはないが、テンカが喜ぶかどうかは慎重な判断が必要だった。
「……フクキタルの饅頭には、まだ遠いかしら」
レイナは小さく呟いた。
そして、筆を取る。
宛名は、テンカ。
最愛の妹。
遠く離れたハヅキ領にいる、黒髪の姫さま。
レイナは少しだけ考え、それから筆を走らせた。
『親愛なるテンカへ。
学園都市レイヴェルンより、姉のレイナです。
こちらでの生活にも、少しずつ慣れてきました。
学園はとても広く、講義棟も訓練場も、寮も庭園も、想像していた以上に立派です。
皇国中から人が集まっているだけでなく、友好国や遠方の国々からの留学生も少なくありません。
見慣れない礼法や話し方、異国の装いに触れることも多く、毎日が新しい発見の連続です。
あなたなら、きっと最初に菓子店の場所を確認するでしょうね。
安心してください。
姉はすでに、学園都市の菓子事情を調査し始めています。
ただし、今のところ、フクキタルの饅頭に並ぶものは見つかっていません。
これは由々しき問題です。
今後も調査を継続します』
そこでレイナは、思わず口元を緩めた。
テンカがこの一文を読んだら、きっと真剣な顔で頷くに違いない。
菓子事情は重要じゃ。
そんな声が聞こえてくるようだった。
レイナは少し間を置き、次の行へ進む。
『それから、あなたの噂がこちらにも届き始めています。
黒き鬼を斬ったハヅキ家の妹君。
刀匠ムネチカが新たな太刀を打った姫さま。
東方の術を扱う黒髪の少女。
皆、色々な言い方をします。
けれど私は、そのたびに少しだけ困ってしまいます。
だって、私にとってのあなたは、噂の中の勇ましい姫さまである前に、私の可愛い妹だからです』
筆先が止まる。
レイナは、窓の外を見た。
夜の学園都市は美しい。
けれど、その美しさの中には、ハヅキ領の森の匂いも、領都の賑わいも、フクキタルの甘い香りもない。
そして、テンカの声もない。
離れてみて初めて、妹の存在がどれほど日常の中にあったのかを知る。
レイナは小さく息を吐き、再び筆を動かした。
『新しい太刀の名は、継火だと聞きました。
とてもよい名だと思います。
砕けたものが、ただ失われるのではなく、形を変えて次へ繋がる。
その名を聞いただけで、あなたが少し前へ進んだのだと分かりました。
でも、どうか忘れないで。
強くなることと、無茶をすることは違います。
あなたがどれほど強くなっても、私にとっては可愛い妹です。
キリカの言うことをよく聞くこと。
母上を心配させすぎないこと。
父上にちゃんと顔を見せること。
そして、饅頭を食べすぎないこと。
最後のひとつは、きっと守られない気がしています』
レイナはそこで、少しだけ笑った。
テンカが不満そうに「姉上は分かっておらぬ」と言う姿が目に浮かぶ。
それでも、書いておかなければならない。
姉とは、そういうものだ。
『いつか、あなたが継火を佩いた姿を見られる日を楽しみにしています。
その時は、可愛いと言っても怒らないでください。
いえ、たぶん怒るでしょうね。
でも、姉は言います。
あなたは、強くて、凛々しくて、そして可愛い妹です。
どうか、倒れずに戻るために、その太刀を振るってください。
遠くレイヴェルンより。
あなたの姉、レイナ』
最後の文字を書き終え、レイナは筆を置いた。
便箋を丁寧に折り、封筒へ入れる。
封蝋を落とし、ハヅキ家の紋を押した。
宛名に、そっと指を添える。
テンカ=ハヅキ。
その名は今、遠い学園都市でも囁かれ始めている。
黒き鬼を斬った姫さま。
新たな太刀を佩いた、ハヅキ家の次女。
けれど、レイナにとっては違う。
どれほど噂が大きくなっても。
どれほど周囲がテンカを特別なものとして見始めても。
あの子は、自分の妹だ。
世界で一番可愛くて、少し危なっかしくて、誰よりも誇らしい妹。
レイナは封をした手紙を胸元へ寄せ、窓の外に広がる夜の学園都市を見つめた。
南の空の向こうに、ハヅキ領がある。
そこにいる妹へ、この手紙が届くまでには、少し時間がかかるだろう。
それでも、言葉は届く。
姉の心配も、誇りも、少しの寂しさも。
夜風が窓を揺らした。
レイナはそっと微笑む。
「待っていてね、テンカ」
遠く離れた学園都市で。
姉は、妹の噂を聞いていた。
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