幕間 姫さまの噂
ハヅキ辺境伯家の執務室には、朝からいくつもの書状が運び込まれていた。
封蝋に刻まれた紋章は、どれも見覚えがある。
皇国中央の伯爵家。
東方寄りの侯爵家。
ハスター伯爵家と縁のある商会。
そして、名目上はただの見舞いでありながら、明らかに別の意図を含んだものも混じっている。
コトネは、それらをひとつずつ開封していた。
艶やかな黒髪を結い上げ、背筋を伸ばして机に向かう姿は、ハヅキ辺境伯家の当主そのものである。
その横では、アルバートが柔らかな表情で書状の束を見ていた。
「ずいぶん届いたね」
「ええ」
コトネは短く答え、手元の一通へ視線を落とす。
文面は丁寧だった。
ハヅキ領で発生した黒き鬼との交戦についての見舞い。
滅魔旅団の勇戦への称賛。
そして最後に、さりげなく一文が添えられている。
――このたび御息女テンカ様が並々ならぬ武勇を示されたと伺い、いずれその御姿を拝見する機会を賜れれば幸いに存じます。
コトネは無言で書状を置いた。
アルバートが苦笑する。
「見舞いの文面にしては、随分と目がこちらへ向いている」
「黒き鬼を斬った姫さま、という言葉が独り歩きしているのでしょう」
「姫さまか」
アルバートは小さく笑った。
「レイナが幼い頃に吹聴した呼び名が、妙な形で広がっているね」
「笑い事ではありません」
「分かっているよ」
アルバートの声は穏やかだったが、その瞳には父親としての心配が浮かんでいる。
テンカはまだ11歳だ。
大魔境の魔物と斬り結んだ事実だけで見れば、確かに武勇として語られるだろう。
だが、噂はいつも実像よりも早く走る。
少女の恐怖も、刀が砕れたことも、倒れて戻ったことも、噂の中では都合よく削られていく。
残るのは、分かりやすい言葉だけだ。
黒き鬼を斬った姫さま。
刀匠ムネチカが新たに太刀を打った少女。
ハヅキ辺境伯家の次女。
そして、東方の術を扱う異質な才。
「トウマ」
コトネが呼ぶと、執務室の端に控えていた男が静かに一歩前へ出た。
黒に近い藍色の髪を後ろで緩く束ね、銀縁の眼鏡をかけた細身の男。
滅魔旅団副長、トウマである。
「はい、コトネ様」
「書状の内訳は」
「純粋な見舞いが三割。滅魔旅団の動向を探るものが二割。残りは、テンカ様に関心を寄せる内容です」
「多いですね」
「黒き鬼という言葉の重さを考えれば、予想の範囲内です」
トウマは書状の一部を手に取り、目を通す。
「特に中央貴族は、ハヅキ領がどの程度の戦力を保持しているのかを知りたがっています。そこへ、当主家の次女が変異種を斬ったという話が加わった」
「探りを入れたくなる、か」
アルバートが静かに言った。
「ええ。加えて、ムネチカ殿が新たな太刀を打ったという話も漏れ始めています」
「早いですね」
「工房の出入りは完全には隠せません。むしろ、隠しすぎれば余計な憶測を招きます」
トウマの声は淡々としていた。
だが、その言葉の奥には、すでにいくつもの警戒線が引かれている。
コトネは窓の外へ視線を向けた。
庭の向こうでは、使用人が静かに歩いている。
この屋敷の中で、テンカはまだ饅頭に目を輝かせる少女だ。
継火を佩いて少し得意げに歩き、キリカにたしなめられれば頬を膨らませる。
だが、屋敷の外では違う。
黒き鬼を斬った姫さま。
ハヅキ辺境伯家の秘された刃。
中央の者たちは、都合のよい名前をつけてくるだろう。
「テンカは、まだ子どもです」
コトネは静かに言った。
「ですが、ただの子どもとして見られない場所へ、一歩踏み出してしまった」
アルバートが目を伏せる。
「本人は、たぶん饅頭のことを考えている頃だろうね」
「ええ」
コトネの口元が、ほんのわずかに緩む。
「だからこそ、守らねばなりません」
「隠しますか?」
トウマが問う。
コトネは首を横に振った。
「隠しきれるものではありません。黒き鬼との交戦は滅魔旅団にも記録されています。継火の存在も、いずれ知られるでしょう」
「では」
「整えます」
コトネの声に、当主としての硬さが宿る。
「噂に振り回されるのではなく、こちらから形を与える。テンカを奇異な武勇譚の主としてではなく、ハヅキ辺境伯家の姫さまとして見せる準備をします」
トウマが小さく頷いた。
「社交の場に出す、ということですか」
「すぐにではありません。ですが、いずれ避けられません」
コトネは机の上の書状を一通、手に取る。
そこには、近く開かれる領内貴族の集まりについて触れられていた。
名目は収穫と交易の報告会。
だが、そこにテンカが姿を見せれば、意味は変わる。
継火を佩いたハヅキの姫さま。
その噂は、さらに形を持つことになる。
「テンカは嫌がるかな」
アルバートが少し困ったように笑う。
「菓子があると言えば、少しは前向きになるでしょう」
「それはそれで心配だね」
「ええ。本当に」
コトネは小さく息を吐いた。
母としての表情が、一瞬だけ滲む。
だが、すぐに当主の顔へ戻った。
「トウマ。中央からの書状は、家格ごとに整理しなさい。探りの強いものには、返答を慎重に。純粋な見舞いには礼を尽くします」
「承知しました」
「クレハには、滅魔旅団内での噂の広がりを確認させます。テンカの名が不必要に担ぎ上げられることは避けたい」
「手配いたします」
トウマは頭を下げた。
アルバートは、コトネが置いた書状の一つを見つめる。
「それでも、誇らしくはあるね」
コトネは答えなかった。
だが、その沈黙は否定ではなかった。
テンカは確かに戦った。
恐れ、迷い、それでも刀を取った。
そして今、砕けた刃を継いだ太刀を佩いている。
それを誇らしく思わない母などいない。
「誇らしいからこそ、慎重でなければなりません」
コトネは静かに言った。
「あの子は、刃になり得る。ですが、ただの刃として扱わせるつもりはありません」
「姫さまとして?」
「ええ」
コトネは書状の束を見下ろす。
「ハヅキ辺境伯家の姫さまとして」
その日の午後。
テンカは自分の知らないところで、自分の名がいくつもの書状に記されていることを知らなかった。
領内の貴族たちが、中央の家々が、学園都市にいる者たちが、少しずつその名へ目を向け始めていることも。
継火を佩いた黒髪の少女。
黒き鬼を斬った、ハヅキ家の次女。
噂はまだ小さい。
けれど、火種はすでに置かれていた。
姫さまの噂は、静かに皇国の風へ乗り始めていた。
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