わらわは、俺だった①
前世の記憶を取り戻したからといって、世界が劇的に変わるわけではなかった。
朝になれば目が覚めて、キリカが部屋にやってくる。
顔を洗い、髪を整え、朝食を取り、座学を受け、刀剣術の稽古をする。
ハヅキ辺境伯家の次女、テンカ=ハヅキとしての日々は、昨日までと同じように続いている。
ただし、ひとつだけ違うことがあった。
自分が、テンカ=ハヅキであると同時に、かつて40歳の男だったことを思い出してしまったということだ。
「……姫さま?」
鏡の前で固まっていたテンカに、キリカが不思議そうな声をかける。
「いかがなさいました?」
「いや……」
テンカは鏡の中の自分を見つめた。
艶やかな黒髪。
暗い紅玉のような瞳。
幼さを残しながらも、どこか気位の高そうな顔立ち。
そこにいるのは、紛れもなく美少女だった。
それも、前世の自分が設定を盛りに盛った、わらわ口調の姫武者に酷似した少女である。
いや、酷似どころではない。
幼さを除けば、ほぼ本人だ。
髪を結われ、白と緋を基調にした装束を着せられれば、もはや前世で画面越しに眺めていたセカンドキャラそのものだった。
「……改めて見ると、破壊力が高いのう」
「はい?」
「何でもない」
危ない。
声に出ていた。
テンカは小さく咳払いをした。
前世の記憶が戻ってから、一晩が経った。
意識ははっきりしているし、体調も悪くない。
五行の力はまだ少し内側でざわめいているが、母コトネに言われた通り、自分から触れようとはしていない。
問題は、精神面だった。
この8年間の記憶と前世の記憶が入り混じって、今のテンカの頭の中は大変なことになっていた。
8歳の少女としての感覚。
40歳のおじさんとしての常識。
姫武者キャラとしての振る舞い。
その三つが、同じ頭の中で同時に主張してくるのだ。
「姫さま。本日の髪は、いつものように結い上げますか?」
「うむ。頼む」
「かしこまりました」
キリカが櫛を手に取る。
黒髪に櫛が通されるたび、さらさらと心地よい音がした。
これがまた落ち着かない。
前世の自分は、髪をここまで丁寧に扱ったことなど一度もなかった。
せいぜい寝癖を直す程度であったが、それが今は、専属メイドに髪を梳かれている。
現実感がなさすぎる。
だが、同時に妙にしっくりくるのも困る。
テンカ=ハヅキとしての8年間が、この状況を当然のものとして受け入れているのだ。
「……キリカ」
「はい」
「わらわは、昨日と比べておかしく見えるか?」
キリカの手が、ぴたりと止まった。
鏡越しに目が合う。
アッシュブラウンの髪を持つ少女は、少しだけ考えるように視線を落とした。
「正直に申し上げても?」
「構わぬ」
「少しだけ、雰囲気が変わられたように思います」
「そうか」
「ですが」
キリカは静かに続けた。
「姫さまは、姫さまです」
その言葉に、テンカは瞬きをした。
「……そう見えるか?」
「はい」
キリカの声には迷いがなかった。
「昨日の姫さまも、今日の姫さまも、わたしにとっては大切な姫さまです」
「そなたは……時々、ずるいことを言うのう」
「ずるい、ですか?」
「うむ。そんな風に言われては、わらわが悩んでいるのが馬鹿らしくなる」
テンカは小さく笑った。
内心では、おじさんの部分が少しだけ涙腺に来ていた。
11歳の少女に何を慰められているのだ、40歳。
いや、今の自分は八歳なのだが。
精神年齢とは何なのか。
そもそも自分は今、何歳として生きればよいのか。
考えれば考えるほど沼である。
だが、キリカの言葉は単純だった。
昨日も今日も、姫さまは姫さま。
ならば、ひとまずそれでいいのかもしれない。
「キリカ」
「はい」
「今日も稽古に付き合え」
「もちろんです」
「ただし、母上より五行の使用は禁止されておる。刀の型だけじゃ」
「承知しております」
キリカは結い終えた髪を整え、満足そうに頷いた。
「本日の姫さまも、大変お美しいです」
「そ、そういうことを真顔で言うでない」
「事実ですので」
「姉上に似てきておらぬか?」
「光栄です」
「褒めておらぬ」
自然と口から出たやり取りに、テンカは少しだけ安心する。
前世の記憶が戻っても、キリカとの距離は変わらない。
それが、思った以上にありがたかった。
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