未だ名もなき鋼
新しい刀の方針が決まった翌日から、テンカの稽古は少しだけ変わった。
刀を振る時間が減ったわけではない。
むしろ、型の稽古はこれまでより丁寧になった。
一太刀を振るう。
そこで終わらせない。
振り抜いた刃を戻し、足を運び、次の一手へつなげる。
ムネチカが言った「帰るための刀」という言葉は、刀の設計だけでなく、テンカ自身の身体の使い方にも影を落としていた。
屋敷の鍛錬場。
朝の空気はまだ涼しく、庭木の葉に残った露が、淡く光を返している。
テンカは予備の刀を構えた。
黒き鬼を斬った刀ではない。
手に完全に馴染むわけでもない。
けれど、今はこの重みでいい。
まだ新しい刀を持つ前の自分には、少し不自由なくらいがちょうどよいのかもしれない。
「ふっ」
短く息を吐き、テンカは踏み込んだ。
刃が空を裂く。
そのまま前へ流れそうになる身体を、左足で受け止める。
手首を返し、刀を戻す。
次の一手へ。速くはない。派手でもない。
だが、昨日までよりも明確に、斬った後のことを意識していた。
「……む」
テンカは刀を下ろし、眉を寄せた。
少しだけ、重心が前に残る。
黒き鬼と戦った時のように、ただ前へ届かせようとすると、身体は戻り遅れる。
火行も同じなのだろう。
前へ押し出すだけでは、きっと自分に跳ね返ってくる。
「姫さま」
鍛錬場の端で見ていたキリカが、静かに声をかけた。
「今の一太刀、少しだけ前に残っておりました」
「分かっておる」
「では、もう一度」
「容赦がないのう」
「姫さまが望まれた稽古ですので」
「そうじゃった」
テンカは小さく笑い、刀を構え直した。
キリカの言葉は厳しい。
だが、ただ止めるための言葉ではない。
見ている。
支えている。
だからこそ、今の一太刀のズレにも気づく。
テンカは息を整えた。
足の裏で地面を感じる。
肩の力を抜く。
刀を握る指に、余計な力を入れない。
今度は、斬り込む瞬間から戻る先を意識する。
踏み込む。
振るう。
戻す。
刃が空を切り、袖が遅れて揺れた。
先ほどよりは、少しだけましだった。
「今のは?」
「先ほどより良くなりました」
「つまり、まだ足りぬのじゃな」
「はい」
「そこは少し褒めてもよいのではないか?」
「褒めています」
「厳しい褒め方じゃ」
言いながらも、テンカの口元は緩んでいた。
一つずつ知り、一つずつできるようになっていくのは、案外悪くない。
そう思ったばかりだ。
ならば、この少しずつの積み重ねも悪くない。
午前の型稽古を終えると、次は火行の制御だった。
鍛錬場の中央には、小さな結界符が四方に置かれている。
万が一にも火が暴れぬよう、コトネが用意させたものだ。
キリカはその一枚に視線を落とし、淡々と言った。
「当主様からは、少しでも危ういと判断した場合、即座に稽古を中止するよう命じられております」
「母上は、わらわを何だと思っておるのじゃ」
「姫さまです」
「答えになっておるようで、なっておらぬ」
「十分な答えかと」
「むう」
テンカは不満げに唸ったが、反論はしなかった。
心配されている理由は、分かっている。
テンカは刀を置き、砂地の上に座った。
両手を膝の上に乗せ、目を閉じる。
腹の底に意識を沈める。
そこには、赤い熱がある。
黒き鬼を焼いた時のような荒々しい炎ではない。
けれど、触れ方を誤ればすぐに膨れ上がる、危うい種のようなもの。
テンカはその熱に、そっと水行を添えた。
水で消すのではない。押さえつけるのでもない。
ただ、輪郭を知る。
火の大きさ、熱の向き、揺れ方。
それを見て、少しだけ包む。
指先が、じり、と熱を帯びた。
火は外へ出ていない。
それでも、皮膚の内側を細い針でなぞられるような熱が走る。
テンカは呼吸を乱さぬよう、唇を結んだ。
火の輪郭だけを、そっとなぞる。
赤い熱が、腹の底で揺れた。
一呼吸。
二呼吸。
三呼吸。
そこで、火が不意に跳ねた。
「っ」
テンカは目を開ける。
指先に小さな緋色が浮かび、空気がじり、と歪んだ。
砂地に落ちた熱が、黒い点を作る。
次の瞬間、四方の結界符が淡く光った。
キリカが即座に一枚を構える。
だが、テンカは首を振った。
「まだ大丈夫じゃ」
声は少し掠れていた。
それでも、焦りはなかった。
火が跳ねた理由を、今は見ていた。
水で押さえ込みすぎた。
火が逃げ場を失い、反発したのだ。
「押さえつけるのではない……添えるだけ」
テンカは小さく呟いた。
もう一度、目を閉じる。
今度は、水行を薄くする。
火の周囲を流すだけに留める。
赤い熱は揺れる。
青白い流れも揺れる。
完全には安定しない。
それでも、先ほどより長く保てた。
テンカはそこで手を止めた。
無理に続けない。
キリカがこちらへ歩み寄ってくる。
「お止めになったのですね」
「うむ。今続けると、たぶん乱れる」
「よい判断です」
「珍しく素直に褒めたのう」
「褒める時は褒めます」
「では、もっと褒めてもよい」
「調子に乗られますので」
「む」
テンカは不満げに頬を膨らませた。
だが、身体は思ったよりも疲れている。
火行を外へ出していないのに、腹の奥がじんわり重い。
自分の内側で火を扱うことは、思っていた以上に神経を使うらしい。
その日の午後、ムネチカの鍛冶場から使いが来た。
鍛造の様子を少し見せたい、とのことだった。
伝言を聞き終えたキリカは、テンカへ向き直る。
「当主様からは、短時間ならば許可すると。ただし、午前のように自分で止められなくなった場合は、即座に連れ戻すようにとのことです」
「母上は、わらわを信用しておらぬのか」
「大切にされているのです」
「……分かっておる」
テンカは小さく息を吐いた。
分かっているからこそ、今度は反発しなかった。
許可は許可である。
テンカはキリカとともに、再び鍛冶場へ向かうことになった。
領都北の山裾に着く頃には、空は薄く茜を帯び始めていた。
鍛冶場の中は、朝の鍛錬場とはまるで違う熱で満ちている。
炉の前では、ムネチカが鋼を打っていた。
赤く熱せられた鋼は、まだ刀の形には遠い。
だが、以前見た時よりも細く、長く、何かの輪郭を持ち始めている。
「来られましたか」
ムネチカは槌を置き、汗を拭った。
顔にも腕にも煤がついている。
だが、その目は妙に澄んでいた。
「少し、形が見えてきましたな」
ムネチカが鉄床の上を示す。
テンカは息を呑んだ。
そこにあるのは、まだ刀ではない。
刃もなく、反りもわずか。
ただの赤い鋼の棒に近い。
それでも、そこには確かに、これから刀になろうとする気配があった。
「これが……」
「まだ名もない鋼です」
ムネチカは静かに言った。
「ですが、姫さまの火を受ける器になろうとしております」
テンカは鉄床の前に立ち、鋼を見つめた。
火に焼かれ、水に鎮められ、何度も叩かれて、少しずつ形を得ていく。
それは、テンカが初めて見た始まりの鋼よりも、ほんの少しだけ前へ進んでいた。
「わらわの稽古も、似たようなものじゃな」
「ほう」
ムネチカが目を細める。
「火を留めようとすれば乱れる。水で押さえすぎれば跳ねる。少しずつ、見て、直して、また試すしかない」
「それがよろしい」
「よろしいのか?」
「ええ」
ムネチカは鋼を火箸で持ち上げ、炉の光にかざした。
「鋼も、一度で形になるものではありませぬ。熱し、打ち、戻し、また熱する。急げば割れます。怖がりすぎれば、火が足りぬ」
彼は鋼を見つめたまま、低く続ける。
「姫さまも、割れぬように打たれることですな」
テンカは黙ってその言葉を聞いた。
ムネチカの言葉は、説教のようではない。
鉄を見てきた者が、ただ知っていることを口にしているだけだった。
だから、胸に残る。
「姫さま」
ムネチカが振り返った。
「少し、手を出していただけますかな」
「手?」
「火行を使え、という意味ではありませぬ。今の姫さまの水気を、鋼に近づけていただきたい」
テンカはキリカを見た。
キリカは少し考え、それから頷く。
「火行を巡らせないのであれば」
「巡らせぬ」
テンカは鉄床の前に立ち、そっと右手を差し出した。
熱い。炉の熱ではない。
鋼そのものの熱が、肌を刺すように伝わってくる。
テンカは火行に触れない。
代わりに、水行をほんの薄く巡らせた。
湧水場で感じた清らかな流れ。
霊水石の青白い光。
それを思い出しながら、手のひらの内側に水の気を留める。
その瞬間、鋼が低く鳴った。
きん、と澄んだ音ではない。
もっと深い、炉の奥から返ってくるような音だった。
赤い鋼の表面を、青白い筋が一瞬だけ走る。
炉の火が揺れ、鍛冶場の空気がわずかに震えた。
「……反応しておりますな」
ムネチカが呟く。
「分かるのか?」
「鉄は言葉を話しませぬ。ですが、機嫌はあります」
「機嫌」
「ええ。今のこいつは、姫さまの水気を嫌ってはおりませぬ」
何とも言えない表現だった。
だが、不思議と分かる気もした。
テンカの手の内で、水行が静かに流れる。
鋼の熱は強い。
けれど、暴れてはいない。
触れ合うというより、互いの距離を測っているようだった。
「この感覚を覚えておいてください」
ムネチカが言った。
「新しい刀を持つ時、姫さまは火だけでなく、水でもこいつと話すことになります」
「刀と話すのか」
「そういうものです」
ムネチカは当然のように言った。
「よい刀ほど、使い手を見ます。姫さまが焦れば、刀も焦る。姫さまが乱れれば、火も水も乱れる」
テンカは自分の手を見た。
火を留める手。
水を巡らせる手。
そして、いつか新しい刀を握る手。
「ならば、わらわはこやつに見られても恥ずかしくないようにならねばならぬな」
「ええ。なかなか厳しい相手になりますぞ」
「望むところじゃ」
テンカがそう言うと、ムネチカは笑った。
キリカも、ほんの少しだけ目を細める。
その後、テンカは長居せずに鍛冶場を出た。
夕暮れの風が、火照った頬を撫でる。
鍛冶場の中では、また槌音が響き始めていた。
低く、重く、けれど一定の調子で。
まるで、まだ名もない鋼の鼓動のようだった。
テンカは足を止め、振り返る。
黒い瓦屋根の向こうに、細い煙が上がっている。
あの中で、刀が少しずつ形を得ている。
自分もまた、少しずつ変わっている。
火を留める手。
水を巡らせる呼吸。
斬った後に戻る足。
どれもまだ未熟だ。
けれど、昨日より少しだけ分かることがある。
明日は、もう少し長く保てるかもしれない。
明後日は、もう少し静かに振れるかもしれない。
テンカは小さく息を吐いた。
焦らず、恐れすぎず、ひとつずつ。
火を御する手は、まだ新しい刀を待つ途中にあった。
評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!




