帰るための刀
ムネチカから呼び出しがあったのは、継ぎ火の炉を見届けた翌日のことだった。
場所は、前と同じく領都北の山裾にある鍛冶場。
ただし、今日は炉の前ではなく、鍛冶場の奥にある小さな作業部屋へ通された。
壁には、鍔や柄巻きに使う紐、鞘に用いる木材、金具の見本が並んでいる。
部屋の中央には低い机。
その上には、一枚の図面が広げられていた。
まだ刀の姿ではない。
刀身の長さ。
反り。重心。鍔の形。
鞘に刻む術式の位置。
細かい線が幾重にも引かれ、ところどころにムネチカの字で書き込みがある。
「姫さまに、決めていただきたいことがあります」
ムネチカはそう言った。
テンカは思わず首を傾げる。
「わらわに?」
「はい」
ムネチカは、図面の端を太い指で押さえた。
「火喰い鋼、霊水石、砕けた刃の欠片。材料は揃い始めております。刀身の方針も見えてきました。ですが、最後に決めねばならぬことがある」
「最後?」
「姫さまが、その刀に何を望むかですな」
テンカは黙った。
何を望むか。
テンカは図面へ視線を落とした。
紙の上には、まだ名を持たない太刀の線が引かれている。
その細い線を見ていると、胸の奥に沈んでいたものが、ゆっくりと浮かび上がってくるようだった。
強い刀。
折れにくい刀。
火行に耐える刀。
どれも必要だ。
けれど、それだけでは足りない。
ムネチカが聞いているのは、おそらく違う。
テンカが黙っていると、ムネチカが図面の上に太い指を置いた。
「強い刀なら、打ちます。折れにくい刀も目指しましょう。火行に耐える刀にするため、火喰い鋼も使います」
そこで、ムネチカは顔を上げた。
「ですが、それは刀の働きの話ですな」
「刀の、働き」
「はい。私が聞きたいのは、姫さまがその刀で何を斬るかではありませぬ」
ムネチカは、図面の上に置いた指を静かに動かした。
「その刀を振るった後、どこへ戻りたいかです」
問いは静かだった。
だが、胸の奥にすとんと落ちてくる。
刀を振るった後、自分はどこへ戻りたいのか。
黒き鬼を斬るため。
大魔境の魔物を討つため。
ハヅキ領を守るため。
答えはいくつも浮かんだ。
けれど、どれも少しだけ遠い。
テンカの胸に残っていたのは、黒き鬼を斬った瞬間ではない。
砕けた刀を抱えて戻った時の重さ。
目元を赤くしたキリカ。
泣きそうな顔で手を握ったレイナ。
そして、母の言葉。
――次は、倒れずに戻りなさい。
テンカは静かに息を吐いた。
「わらわは」
言葉がゆっくりと形になる。
「斬りたいわけではない」
ムネチカは何も言わない。
キリカも、テンカの隣で静かに控えている。
「いや、斬らねばならぬ時はある。大魔境の魔物が来れば、刀を抜かねばならぬ。黒き鬼のようなものが現れれば、わらわはきっとまた斬る」
テンカは、図面の上に置かれた線を見つめた。
「だが、斬って終わりではないのじゃ」
黒き鬼は倒した。
けれど、戦いはそこで終わらなかった。
砕けた刀を抱えて戻り、火行の危うさを知り、母に叱られ、姉を泣かせた。
戦いは、斬った瞬間だけで終わるものではない。
「わらわは、帰りたい」
その言葉を口にした瞬間、テンカ自身が少し驚いた。
けれど、不思議と違和感はなかった。
「斬って、守って、それで倒れるのではなく。ちゃんと立って戻りたい。キリカのところへ。母上と父上のところへ。姉上に手紙を書ける場所へ」
キリカが、小さく息を呑んだ気配がした。
テンカは続ける。
「だから、わらわが欲しいのは、敵を斬るためだけの刀ではない」
顔を上げる。
ムネチカと目が合った。
「帰るための刀じゃ」
作業部屋が静まり返った。
炉の音が、遠くから聞こえる。
低く、重い音。
ムネチカはしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷く。
「帰るための刀、ですか」
「変か?」
「いいえ」
ムネチカは首を横に振った。
「生きて帰ることほど、難しいことはありませぬ」
その声は、いつもより少しだけ重かった。
「刀は斬る道具です。ですが、斬るだけならば、まだ易い。斬った後に立っていること。守った者のもとへ戻ること。次もまた刀を取れること。それは、強さだけでは届かぬところにあります」
ムネチカは図面に視線を落とした。
「なるほど。姫さまが求めるのは、勝つための刀ではなく帰るための刀ですか…」
「勝たぬわけにはいかぬぞ」
「もちろんです。負けては戻れませぬからな」
「うむ」
テンカが頷くと、ムネチカは少しだけ笑った。
「難しい注文です」
「またそれか」
「ええ。ですが、悪くありませぬ」
ムネチカは筆を取り、図面の端へ何かを書き込んだ。
テンカには読めない。
だが、その筆先が迷っていないことだけは分かった。
「では、刀身は少し重心を手元に寄せましょう。姫さまの体格で振り切るためではなく、振った後に戻せるために」
「戻せるため?」
「はい。強く斬るだけなら、前へ重くしてもよい。ですが、姫さまの望みは違う。斬った後、次の一手へ戻れる刀でなければなりませぬ」
ムネチカの指が、図面の線をなぞる。
「火行を通す時も同じです。火を前へ押し出すだけではなく、余熱を逃がし、使い手へ跳ね返らぬようにする。霊水石の水気は、鞘と鍔の術式にも回します」
「鞘にも?」
「ええ。抜いた時だけではなく、納める時にも意味があります。火を振るった後、きちんと納められること。それも帰る刀には必要でしょう」
テンカは思わず息を呑んだ。
抜くための刀。
斬るための刀。
それだけではない。
納めるための刀。
その考え方が、胸に残った。
「刀を納めることも、帰ることなのじゃな」
「そうですな」
ムネチカは頷いた。
「抜くより、納める方が難しい時もあります」
その言葉に、テンカは母の教えを思い出す。
――斬るべき時にのみ、刀を抜きなさい。
ならば、抜いた刀を納めることもまた、学ぶべきことなのだろう。
キリカが静かに口を開いた。
「姫さまらしい刀になるのですね」
「そうか?」
「はい」
キリカは微かに微笑んだ。
「姫さまは、前へ出ます。ですが、戻ってこようともなさいます。だから、帰るための刀というのは、とても姫さまらしいと思います」
真正面からそう言われると、少し照れる。
テンカは咳払いをした。
「そう言われると、悪くないのう」
「悪くありません」
「では、見た目も少し格好良くしたい」
キリカの表情が、すっと整った。
「実用性が優先です」
「分かっておる。だが、格好良さも重要じゃ」
「重要でしょうか」
「重要じゃ。武人たるもの、己の刀には誇りを持たねばならぬ」
「誇りと装飾は別では?」
「ぐぬ」
ムネチカが小さく笑った。
「多少ならば、意匠も入れられますな」
「本当か!」
「ただし、重くならぬ範囲で」
「うむ。そこは任せる」
「色味はどうされますかな」
「黒がよい」
テンカは即答した。
「黒き鞘に、緋を少し。だが、派手すぎぬように」
「黒と緋ですか」
「わらわの髪と、火行の色じゃ」
言ってから、少しだけ気恥ずかしくなる。
だが、ムネチカは真面目に頷いた。
「よろしいかと。黒は姫さまの髪に、緋は火行に通じる。ならば、他の四行も隠し意匠として入れましょう」
「隠し意匠?」
「はい。木、火、土、金、水。それぞれを示す色を、鞘と鍔の内側に細く巡らせます。普段は目立たず、五行を巡らせた時にだけ、淡く浮かぶ程度に」
「それは……よいな」
テンカは思わず身を乗り出した。
「ですが、見えすぎてはなりません。姫さまの太刀は飾りではない。黒を基調に、緋を一筋。そして奥に、五行の色を忍ばせる」
「ふむ。控えめでありながら、わらわらしい」
「そのように打ちましょう」
「任せる」
ムネチカは図面に線を加えていく。
その横顔は楽しそうだった。
難しいと言いながら、やはり難しいものほど燃える職人なのだろう。
しばらくして、ムネチカは筆を置いた。
「これで方針は定まりました」
「もうよいのか?」
「ええ。刀身は、帰るために。拵えは、姫さまが誇りを持てるように。術式は、火を受け、水で鎮め、五行の巡りを邪魔しないように」
ムネチカは図面を見下ろした。
「まだ形はありません。ですが、行き先は決まりました」
行き先。
その言葉が、テンカの胸に残る。
黒き鬼を斬ってから、目まぐるしい日々が続いていた。
砕けた刀と向き合い、火行の危うさを知り、素材を集め、稽古を始めた。
それらは後始末のようでいて、少しずつ次へ進むための道でもあった。
新しい刀だけではない。
テンカ自身もまた、少しずつ形を変えようとしている。
「ムネチカ」
「はい」
「その刀ができたら、わらわはもっと強くなれるか?」
ムネチカはすぐには答えなかった。
少し考え、それから首を横に振る。
「刀が姫さまを強くするのではありませぬ」
「む」
「刀は、姫さまが強くなるための道を作るだけです。歩くのは、姫さまご自身ですな」
厳しい。
だが、嫌ではなかった。
「ならば、歩く」
テンカは静かに言った。
「何度でも稽古して、火を留め、水を巡らせ、刀を振るう。ちゃんと帰るために」
「よいお覚悟です」
ムネチカは深く頷いた。
キリカも、隣で静かに頭を下げる。
「その時は、わたしもお供いたします」
「うむ。頼りにしておる」
「はい、姫さま」
ムネチカは図面を丁寧に巻き、紐で結んだ。
そして、作業部屋の向こうにある炉へ視線を向ける。
そこではまだ、名もなき鋼が火を待っている。
「では、打ちましょう」
ムネチカは低く告げた。
「姫さまが、帰るための一振りを」
炉の奥で、炭が小さく爆ぜた。
火はまだ、刀の形を持たない。
けれど、その行き先は決まった。
斬るためだけではなく。
守り、納め、そして帰るために。
その一振りは、少しずつ姿を得ようとしていた。
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