継ぎ火の支度
屋敷へ戻ったテンカは、まず母へ報告することになった。
場所は、コトネの私室。
テンカの前には、白い布に包まれた霊水石が置かれており、青白く澄んだ石は、部屋の光を受けて、内側に水を閉じ込めているかのように揺らめいていた。
「火行は使いませなんだ」
テンカは、まずそこから告げた。
コトネは静かに頷く。
「それはよい報告です」
「うむ」
「ですが、水行は使ったのですね」
「……使いました」
テンカは素直に頷いた。
隣に控えていたキリカが、一歩前に出る。
「水行による魔力消費は確認しています。帰路で姫さまの足取りがやや重くなりました」
「キリカ」
「はい」
「そこまで詳しく報告せずともよいのではないか?」
「必要な報告です」
「む」
コトネの視線がテンカへ向く。
「テンカ」
「はい」
「無理は?」
「しておりませぬ」
「キリカ」
「審議が必要です」
「キリカ!」
「事実です」
テンカは言い返せなかった。
コトネは小さく息を吐いた。
叱られるかと思ったが、その声は思ったよりも柔らかい。
「火行を使わなかったことは評価します。ですが、水行であっても魔力は消費します。まだ本調子ではないことを忘れてはなりません」
「はい」
「それでも、霊水石を得たことは確かです。よく戻りました」
その言葉に、テンカの胸が少しだけ温かくなる。
叱責だけではない。
結果も、選んだ手段も、母はちゃんと見ている。
「ありがとうございます、母上」
テンカは頭を下げた。
その後、霊水石はムネチカのもとへ運ばれた。
ハヅキ家の客間。
前回と同じように、机の上には白い布が敷かれ、砕けた刀の欠片、図面、細かな道具が並べられ、そこへ青白い霊水石が加わった。
石を手に取り、ムネチカは硝子板越しに覗き込む。
「よい石ですな」
低く、しかし満足げな声だった。
「水の気が澄んでおります。これなら、火喰い鋼の荒ぶりを鎮めるには十分でしょう」
「本当に使えそうか?」
「ええ。姫さまたちが取ってきた甲斐はありますな」
テンカは少しだけ得意げに胸を張ったが、すぐにキリカの視線が飛んでくる。
「姫さま」
「分かっておる。無理はしておらぬ」
「審議中です」
「まだ審議しておるのか」
「継続審議です」
ムネチカが喉の奥で笑った。
「よい護り手ですな」
「それは認めるが、少し厳しすぎる」
「厳しいくらいが、姫さまにはちょうどよいかと」
「ムネチカまでそちら側か」
「刀匠は、折れそうなものを放ってはおけませぬ」
それは冗談のようで、冗談ではなかった。
テンカは少しだけ言葉を失う。
ムネチカは霊水石を布の上に置き、今度は火喰い鋼の小片を取り出した。
赤黒い金属だった。
一見すれば鈍い色の鉄片にしか見えない。
だが、近くに置かれただけで、空気の熱がわずかに変わった気がした。
「これが火喰い鋼か」
「試料ですな。本命の量は、北の霊山から届く手配になっております」
ムネチカが、火喰い鋼、霊水石、そして砕けた刃の欠片を順に指差した。
「火を受ける鋼。火を鎮める石。そして、姫さまの最初の火を知る刃」
その言葉に、テンカは目を伏せる。
砕けた刀の欠片は、静かにそこにある。
もう刀ではない。
だが、ただの金属片にも見えなかった。
「この三つを合わせ、姫さまの太刀を打ちます」
「火行に耐える太刀か」
「それだけではありませぬ」
首を横に振った。
「姫さまは火だけの方ではありません。五行を扱うのでしょう。ならば、ただ火に耐えるだけの刀では足りない。火を受け、水で鎮め、他の行の流れも邪魔しない。そういう器が要ります」
「器……」
「刀は、姫さまの代わりに力を制御してくれるものではありませぬ」
声が少しだけ厳しくなる。
「刀は、力の通り道です。通り道が整っていれば、火は刃へ届く。乱れていれば、刃も、使い手も傷つく」
テンカは黙って聞いていた。
黒き鬼を斬った時の熱が、手のひらに蘇る。
あの時、刀は最後まで火を通してくれた。
だが、耐えきれずに砕けた。
次の刀ができたとしても、自分が同じままなら、また同じことを繰り返すかもしれない。
「ムネチカ」
「はい」
「わらわは、何をすればよい」
ムネチカは、少しだけ口元を緩めた。
「それを聞けるなら、上々ですな」
「からかうでない」
「からかってはおりませぬ」
ムネチカは太い指を一本立てた。
「姫さまが今すべきは、火を強くすることではありませぬ」
「では、何じゃ」
「火を出さずに、火を保つことです」
テンカは眉を寄せた。
「火を出さずに、保つ?」
「ええ」
ムネチカは、霊水石を軽く叩いた。
「火喰い鋼が火を受け、霊水石がそれを鎮める。太刀はそう作ります。ならば、使い手である姫さまも同じことを学ばねばならない」
「……己の内で、火を鎮めるということか」
「その通りですな」
ムネチカは頷き。
「燃え上がらせるのは、おそらく姫さまには難しくない。ですが、燃やしながら暴れさせないこと。消さずに留めること。必要な時まで、刃に流さないこと。そちらの方が、ずっと難しい」
テンカは胸の奥を意識した。
火行の熱は、まだそこにある。
黒き鬼を斬った時のような荒々しい炎ではない。
けれど、腹の底に沈む赤い種のように、確かに残っている。
「水行で包むのはどうじゃ」
「よいでしょうな」
「霊水石と同じように?」
「近いです。姫さま自身が、火喰い鋼であり、霊水石にもなる」
「わらわ自身が……」
テンカは小さく呟いた。
火を持つだけでは足りない。
火を受け止める器にならなければならない。
そして、その火を鎮める流れも、自分の内に持たなければならない。
コトネが静かに口を開く。
「テンカ」
「はい」
「刀ができるまで、火行の実戦使用は禁じます」
「……はい」
「ただし、制御の稽古は許します。ムネチカの言う通り、火を出さず、保ちなさい」
「承知しました」
「キリカ」
「はい、当主様」
「稽古中も付き添いなさい。危ういと判断したら止めること」
「承知しました」
キリカの返事は早かった。
テンカはじっとキリカを見る。
「また少し嬉しそうではないか?」
「気のせいです」
「最近、その返答が多くないか?」
「気のせいです」
コトネの口元が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
その日の午後。
テンカは屋敷の庭にいた。
庭の一角には、鍛錬用の小さな砂地がある。
周囲には結界符が貼られ、万が一火行が乱れても広がらないよう準備されていた。
キリカが少し離れた位置に立ち、じっとこちらを見ている。
手には、簡易の消火符。
本気である。
「キリカ」
「はい」
「その符は必要か?」
「必要です」
「即答か」
「姫さまですので」
「理由になっておるようで、ひどくないか?」
「信頼です」
「信頼とは何であったかのう」
テンカは小さく息を吐いた。
そして、両手を前に出す。
火行を巡らせる。
ただし、外へ出さない。
燃え上がらせない。
腹の底にある熱へ、そっと意識を触れさせる。
赤い種が揺れた。
ほんの少しだけ、熱が膨らむ。
テンカはすぐに水行を巡らせた。
湧水場で感じた、あの静かな流れ。霊水石の青白い光。
それを思い出しながら、火の周りに水を添える。
火が揺れ、水が包む。
消えそうになり、慌てて火を足す。
今度は燃え上がりそうになる。
「む……」
難しい。
黒き鬼を斬った時より、ある意味では難しい。
あの時は、ただ斬るべきものへ火を向けた。
だが今は違う。
火を出してはいけない。消してもいけない。
暴れさせてもいけない。ただ、そこに留める。
テンカの額に汗が滲んだ。
指先が熱い。だが、炎は出ていない。
キリカが一歩近づく。
「姫さま」
「まだじゃ」
「ですが」
「まだ、いける」
火が揺れ、水が乱れる。
テンカは息を吸う。
恐れるな。いや、恐れを恥じるな。
恐れたまま、視る。
火の形。水の流れ。
その境目。
ほんの一瞬。
腹の底で、赤い熱が青い流れに包まれた。
燃え上がらず、消えもせず。
ただ、静かにそこにあった。
「……できた」
呟いた瞬間、集中が切れた。
火がふっと散り、水行の流れもほどける。
テンカの身体がわずかに傾いた。
すぐにキリカが支える。
「姫さま」
「分かっておる。今日はここまでじゃ」
「珍しく聞き分けがよろしいですね」
「わらわも学ぶのじゃ」
「その調子でお願いします」
テンカは苦笑した。
ほんの一瞬だった。だが、確かに留められた。
火を振るうのではなく、火を保つ。
火に呑まれず、火を消さず、己の内に置く。
それは、新しい太刀を待つ間に、テンカ自身が作らなければならない器だった。
遠く、屋敷の客間では、ムネチカが図面を引いているのだろう。
火喰い鋼。霊水石。砕けた刀の欠片。
それらがいつか、一振りの太刀になる。
だが、その太刀を持つ自分が未熟なままでは意味がない。
テンカは、キリカに支えられながら空を見上げた。
夕暮れにはまだ早い。
けれど、光は少しだけ柔らかくなっている。
「キリカ」
「はい」
「次は、もう少し長く保つ」
「承知しました」
「その次は、もっと長く」
「ですが、焦ってはなりません」
「分かっておる」
「本当に?」
「……努力する」
キリカは小さく息を吐いた。
けれど、その表情はどこか柔らかかった。
「では、その努力を見届けます」
テンカはキリカを見上げた。
アッシュブラウンの髪が、風にわずかに揺れている。
「うむ。頼りにしておる」
「はい、姫さま」
火を斬るより、火を留める方が難しく、思うようにならぬことは、まだ多い。
けれど、一つずつ知り、一つずつできるようになっていくのは、案外悪くない。
評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!




