焔を鎮める石
火喰い鋼を打つには、水気が要る。
ムネチカがそう告げたのは、レイナが学園都市へ旅立った翌日のことだった。
ハヅキ辺境伯家の屋敷、その客間。
机の上には、砕けた刀の欠片と、ムネチカが持ち込んだ小さな図面が広げられている。
「火喰い鋼は、火の気に強い鋼ですな」
ムネチカは太い指で図面を叩いた。
「ですが、強い火を受け止めるだけでは足りませぬ。姫さまの火行は、ただ燃えるだけの火ではない。瘴気を焼き、再生を断ち、刀身そのものを内側から食い破るほどの火です」
「……随分な言いようじゃな」
「事実ですので」
どこかで聞いたような言い方だった。
テンカは思わずキリカを見る。
キリカは涼しい顔をしていた。
「ですので、火を鎮める水気が要ります」
「水気?」
「霊水石ですな。清浄な水の気を宿した石で、火喰い鋼を鍛える際の急冷に用います。火をただ冷ますのではなく、暴れぬように落ち着かせる」
ムネチカは、砕けた刃の欠片へ視線を落とした。
「姫さまの太刀には、火を受ける器だけでなく、火を鎮める流れが必要です」
火を鎮める流れ。
その言葉に、テンカは小さく息を吐いた。
黒き鬼を斬った緋色の火。
あれは強すぎた。
刀を砕き、自分自身を倒れさせるほどに。
ならば、その火を振るうために水がいるというのは、妙に納得できた。
「その霊水石は、どこにあるのじゃ」
テンカが問うと、ムネチカは少しだけ目を細めた。
「領都北の山裾に、古い湧水場があります。そこに小さな鉱脈がありますな。大魔境ではありませんが、魔力の流れが濃い土地です」
「採れるのか」
「採れるには採れます。ただし、最近は石喰い猿が住み着いておりましてな」
「石喰い猿?」
「鉱石を好んで持ち去る小型の魔物です。硬い石を噛み砕く歯を持ち、群れで動く。人を積極的に襲うほどではありませんが、すばしこく、面倒ですな」
テンカは少しだけ身を乗り出した。
それだけで、キリカの目が細くなる。
「姫さま」
「まだ何も言っておらぬ」
「お顔に書いてあります」
テンカは咳払いをして、コトネへ向き直った。
「母上」
「なりません」
「まだ何も言っておりませぬ」
「行きたいのでしょう」
「……うむ」
「なりません」
即答だったが、予想はしていた。
だが、テンカも引くつもりはない。
「母上。火行は使いませぬ」
コトネの瞳がわずかに動いた。
「水行だけで対処します。霊水石は、わらわの太刀に必要なものなのでしょう。ならば、わらわ自身も見ておきたい」
「あなたはまだ本調子ではありません」
「承知しております。だから無理はしませぬ。キリカも連れていきます。護衛もつけてください。危ういと判断されたら、すぐに戻ります」
テンカはまっすぐ母を見る。
「ですが、わらわは、自分の火を鎮めるための水を知りたいのです」
コトネは黙ってテンカを見ていた。
その沈黙が長い。
やがて、コトネは静かに息を吐いた。
「条件があります。あなたが申した通り、火行は使わないこと。単独行動をしないこと。キリカの制止には必ず従うこと」
「承知しました」
「そして、危険と判断した時点で即座に撤退すること」
「はい」
テンカが頷くと、コトネはキリカへ視線を向けた。
「キリカ」
「はい、当主様」
「あなたの判断で連れ戻しなさい」
「承知いたしました」
キリカの声には、妙な気合いがこもっていた。
「……キリカ」
「はい」
「少し嬉しそうではないか?」
「気のせいです」
絶対に気のせいではなかった。
翌日、テンカたちは領都北の山裾にある湧水場へ向かった。
同行するのは、テンカ、キリカ、ムネチカの弟子である若い職人、そして護衛が三名。
ムネチカ本人は屋敷に残り、砕けた刀の欠片と図面を調べている。
代わりに来た弟子の名は、リク。
まだ若いが、霊水石の見分けはできるらしい。
「この辺りです」
リクが小さな槌を腰に下げたまま、湧水場の奥を指差した。
山肌から清らかな水が細く流れ出し、岩の窪みに小さな池を作っている。
水は澄んでいて、底に沈む石まで見える。
空気も涼しい。
大魔境の湿った瘴気とは違う、静かで清らかな魔力が満ちている。
「よい場所じゃな」
テンカは水面を見つめ、水行の感覚を薄く広げる。
流れが見えた。
山肌から染み出す水。
石の間を抜ける細い流れ。
地中に沈む、冷たい光のような水気。
その中に、いくつか澄んだ点がある。
「あれが霊水石か」
テンカが呟くと、リクが驚いたように目を見開いた。
「分かるのですか?」
「水の流れが、そこだけ少し違う」
「さすがです。霊水石は、周囲の水気を集める性質がありますので」
テンカは小さく頷いた。
その時だった。
岩陰で、何かが動き、キリカが即座に前へ出る。
「姫さま」
「分かっておる」
テンカも、腰の刀に手を添える。
今のテンカには、以前の刀がない。
代わりに帯びているのは、屋敷の武具庫から借り受けた予備の刀だ。
長さも重さも、テンカの手に完全に馴染むものではない。
火行を通すためのものでもない。
だが、刀は刀。
抜けば、テンカの手に確かな重みが返ってくる。
そこへ、岩の上に小さな影が現れる。
猿だった。だが、普通の猿ではない。
灰色の毛並み。
石を噛み砕くための大きな前歯。
細い腕には、青白い石を抱えている。
「石喰い猿です!」
リクが叫ぶ。
一匹。二匹。三匹。
岩陰や木の上から、次々と姿を現す。
小さい。だが、動きが速い。
そして、その腕の中には霊水石らしき石がいくつも抱えられていた。
「逃がすな。霊水石を持っておる」
護衛の一人が前に出る。
だが、石喰い猿の一匹が鋭く鳴き、岩の上を跳ねた。
速い。
護衛の剣が空を切る。
別の猿が、リクの背負い袋へ飛びかかった。
「うわっ!」
キリカが袖口から隠し針を滑らせる。
「姫さま、後ろへ」
「いや」
テンカは水行の感覚を広げた。
猿を見るのではない。
流れを見る。
足場の水気。
濡れた岩。
苔の上を伝う薄い水の膜。
猿たちが跳ねるたびに乱れる、空気と水の動き。
火で焼く必要はない。
力で斬る必要もない。
流れを読めばいい。
「キリカ、右の猿を追うな。戻ってくる」
「はい」
キリカが即座に動きを止める。
直後、逃げたように見えた石喰い猿が、別の岩を蹴って戻ってきた。
そこへキリカの短刀が走る。
峰で打たれた猿が地面を転がった。
「左の岩陰、押さえよ!」
「承知!」
テンカの声に、護衛が盾を構える。
岩陰から飛び出した猿が盾にぶつかり、体勢を崩す。
その隙に、別の護衛が網を投げた。
一匹を捕らえる。
だが、まだ数が多い。
石喰い猿たちは霊水石を抱えたまま、散るように逃げようとする。
テンカは一歩踏み出した。
「姫さま!」
キリカの声が飛ぶ。
「火は使わぬ!」
テンカは刀を抜いた。
だが、火は通さない。
刃を低く構え、切っ先を水面へ向ける。
斬るためではない。
流れを指し示すためだ。
刀身に映る水面が、わずかに揺れる。
猿たちの足運び。
跳躍の癖。
濡れた岩肌を伝う水の筋。
それらが、一本の線のようにテンカの目に映った。
水行。
流れを読む。
流れを添える。
そして、ほんの少しだけ、流れを変える。
「――水行・流転水鏡」
湧水場の岩肌に広がる薄い水の膜が、淡く揺れた。
石喰い猿の足が滑る。
一匹。
二匹。
跳躍の瞬間に足場を奪われた猿たちが、次々と転がった。
「今じゃ!」
護衛たちが動く。
網が飛び、キリカの短刀が峰で急所を外して打つ。
テンカは呼吸を乱さないよう、ゆっくりと水行を巡らせた。
火行のように燃え上がらない。
水行は静かだった。
だが、確かに場を変えていく。
猿たちの逃げ道を読み、足元の水をわずかに動かし、仲間の動きに合わせる。
斬るのではない。
流れを整える。
それだけで、戦いは少しずつこちらへ傾いた。
最後の一匹が、高い岩へ飛び移ろうとする。
その腕には、大きめの霊水石が抱えられていた。
テンカは目を細める。
水行の感覚が、猿の着地点を示す。
「キリカ、上じゃ」
「はい」
キリカが地を蹴った。
袖口から放たれた細い糸付きの針が、猿の進路を塞ぐ。
驚いた猿が空中で身を捻る。
その着地点に、テンカは水を集めていた。
ぬるり、と岩肌が滑る。
猿が見事に転び、抱えていた霊水石が宙へ舞い、テンカは手を伸ばすが、届かない。
次の瞬間、キリカが横から飛び込み、石を受け止めた。
「姫さま、無理をなさらないでください」
「……今のは、少し惜しかった」
「惜しくありません」
キリカはきっぱりと言った。
テンカは小さく笑う。
石喰い猿たちは、捕らえられた数匹を除き、山の奥へ逃げていった。
積極的に人を襲う魔物ではないため、深追いはしない。
護衛たちは周囲を警戒しながら、リクが霊水石を確認するのを待った。
リクは、キリカが受け止めた石を手に取る。
青白く澄んだ石だった。
中に水が閉じ込められているかのように、光が揺れている。
「これは……上質です」
リクの声が弾んだ。
「これだけの大きさなら、火喰い鋼の急冷に使えます。小さな石もいくつか回収できました。十分です」
「そうか」
テンカは安堵の息を吐いた。
その瞬間、少しだけ膝から力が抜ける。
キリカがすぐに支えた。
「姫さま」
「分かっておる。少し疲れただけじゃ」
「それを無理と言います」
「火行は使っておらぬ」
「水行も魔力を使います」
「む」
正論だった。
テンカは言い返せず、素直に近くの岩へ腰を下ろす。
湧水の音が耳に届く。
静かな音だった。
黒き鬼を焼いた火の轟きとはまるで違う。
けれど、今のテンカには、その静けさが心地よかった。
「火だけでは、駄目なのじゃな」
テンカはぽつりと呟いた。
「姫さま?」
「火を振るうには、水も要る。火を鎮め、流れを見て、暴れぬように整えるものが」
テンカは、キリカの手の中にある霊水石を見た。
青白い光が、静かに揺れている。
「わらわ自身も、そうならねばならぬのじゃろう」
強い火を持つだけでは足りない。
その火を鎮め、御するための流れを、己の内にも持たなければならない。
「帰ろう、キリカ」
「はい」
「母上に、火行は使わなかったと報告せねばならぬ」
「それはよい報告です」
「それと、無理もしておらぬ」
「それは審議が必要です」
「厳しいのう」
「姫さまのためです」
テンカは小さく笑った。
リクが霊水石を丁寧に布で包む。
護衛たちが周囲を確認し、一行は帰路についた。
手に入れたのは、青白い霊水石。
火を鎮めるための石。
そしてそれは、テンカ自身が焔を御するための、小さな手がかりでもあった。
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