姉の旅立ち
レイナが学園都市レイヴェルンへ旅立つ日は、よく晴れていた。
雲は薄く、朝の光がハヅキ辺境伯家の屋敷を柔らかく照らしている。
屋敷の正門前には、旅装を整えた馬車が用意されていた。
皇国中央へ向かう長旅に耐えられるよう、車輪には補強が施され、御者台の横には護衛の者が控えている。
荷台には、衣装箱、書物、筆記具、護身用の短剣、魔術具、そしてコトネが用意させた薬箱まで積まれていた。
多い。どう見ても多い。
「姉上は、引っ越しでもするつもりなのか?」
テンカが呟くと、隣に控えていたキリカが静かに答えた。
「4年間通われるのですから、引っ越しに近いのでは?」
「む。それはそうじゃが」
テンカは馬車の荷を眺める。
皇国では、13歳になると才ある貴族の子女や選ばれた者たちが学園都市レイヴェルンへ入る。
学ぶ期間は4年間。
武術、魔術、歴史、礼法、政務、商業、芸術。
皇国中から集まった者たちが、それぞれの才を磨く場所。
レイナは13歳。
ハヅキ辺境伯家の長女であり、次期当主でもあるので、学園都市へ向かうのは当然だった。
当然なのだ。
けれど。
テンカは正門前に立つ姉を見た。
父譲りの金色の髪が、朝の光を受けて柔らかく輝いている。
いつもの屋敷着ではなく、旅装に近い上品な装い。
けれど、その立ち姿にはすでに次期当主としての気品があった。
レイナは、綺麗だった。
そして、少しだけ遠く見えた。
「テンカ」
レイナがこちらを振り返る。
その瞬間、整っていた表情がふにゃりと崩れた。
「本当に、本当に無理はしていませんか?」
「しておらぬ」
「顔色は?」
「昨日より良い」
「薬湯は?」
「飲んだ」
「全部?」
「……九割ほど」
「テンカ」
「飲んだ。最後は苦すぎて、少しだけ魂が抜けかけたが」
「姫さま」
キリカの声が低くなる。
「全部お飲みになりました」
「む。そうであったな」
「嘘はいけません」
「忘れていただけじゃ」
レイナが口元を押さえて笑った。
その笑みを見て、テンカは少しだけ胸が軽くなる。
いつもの姉だ。
テンカを心配して、少し過保護で、けれど優しい姉。
「本当は」
レイナが小さく言った。
「出立を延ばしたかったのです」
テンカは何も言わなかった。
レイナの目が、まっすぐテンカを見る。
「あなたが倒れたと聞いた時、私は……学園どころではないと思いました。全快するまで、そばにいたいと」
「ならぬ」
テンカは静かに言った。
レイナが目を見開く。
「姉上は、ハヅキの次期当主であろう」
「……はい」
「ならば、わらわのことばかり案じておってはならぬ。姉上には姉上の務めがある」
「テンカ」
「わらわは大丈夫じゃ。母上も父上もおる。キリカもおる。刀は砕けたが、ムネチカが新たな太刀へ継いでくれる」
言いながら、テンカは少しだけ指先に力を込めた。
砕けた刀のことを口にすると、まだ胸が痛む。
けれど、前ほど苦しくはない。
終わらせるのではない。
継がせる。
ムネチカの言葉が、胸の奥に残っていた。
「だから、姉上は学びに行くのじゃ」
「……妹にそう言われると、姉として立つ瀬がありません」
「姉上は立派な姉じゃ」
「本当に?」
「うむ。少し心配性ではあるが」
「それは、妹が無茶をするからです」
「それは……否定できぬ」
テンカが目を逸らすと、レイナは小さく笑った。
だが、その目元は少し赤い。
泣きそうなのを堪えている。
テンカはそれに気づいて、胸の奥がぎゅっとなった。
レイナは、ずっとそばにいた。
テンカが前世を思い出す前から。
思い出した後も。
変わらず、テンカを妹として見てくれた。
可愛いと騒ぎ、姫と呼び、周囲にまでそれを広めた困った姉。
けれど、テンカにとっては、大切な姉だった。
「姉上」
「はい」
「手紙を書くのじゃ」
「もちろんです。毎週書きます」
「毎週は多くないか?」
「少なくありませんか?」
「む」
認識に差があった。
レイナは真剣だった。
「あなたも書いてください。体調のこと、鍛錬のこと、キリカに叱られた回数、薬湯を残していないか、新しい太刀のこと、全部です」
「最後以外、報告内容がおかしくないか?」
「大事なことです」
「大事かのう」
「大事です」
即答だった。
テンカは小さく肩をすくめる。
「ならば、姉上も学園都市のことを書くのじゃ」
「ええ。授業のこと、先生方のこと、寮のこと、友人ができたらそのことも」
「菓子事情もじゃ」
レイナが瞬きをした。
「菓子事情?」
「前にも言うたが、重要じゃ。学園都市レイヴェルンには皇国中から人が集まるのであろう。ならば、各地の菓子も集まるはずじゃ」
「あなたは本当に……」
レイナは呆れたように笑う。
「では、良い甘味処を見つけたら必ず知らせます」
「うむ。特に饅頭に類するものがあれば詳しく頼む」
「承知しました、姫さま」
「姉上までそのような呼び方を」
「最初に広めたのは私ですもの」
得意げに言われ、テンカは言葉に詰まった。
確かにそうだった。
その時、コトネが歩み寄ってきた。
艶やかな黒髪を結い上げ、いつも通り静かな佇まい。
だが、その瞳は母のものだった。
「レイナ」
「はい、母上」
「学園都市では、ハヅキの名を背負うことになります。ですが、名に縛られすぎてはなりません。見なさい。学びなさい。そして、自分の目で人を選びなさい」
「はい」
「次期当主として必要なのは、知識だけではありません。誰を信じ、誰と歩むか。それを学ぶのも、学園都市での務めです」
レイナは真剣な顔で頷いた。
「心に刻みます」
次に、アルバートが柔らかく微笑む。
「困ったことがあれば、すぐに手紙を送りなさい。君は頑張りすぎるところがあるからね」
「それはテンカの方では?」
「二人ともだよ」
父にそう言われ、姉妹は同時に黙った。
キリカがわずかに目を逸らす。
否定する者はいなかった。
出立の時間が近づく。
御者が馬の手綱を確かめ、護衛の騎士たちが配置についた。
レイナは最後に、テンカの前へ立った。
そして、そっと手を差し出す。
テンカはその手を取った。
姉の手は温かかった。
「テンカ」
「うむ」
「約束してください」
「何をじゃ」
「無茶をしてもいいです」
「いいのか?」
「本当はよくありません。でも、あなたは必要だと思えば無茶をするのでしょう」
「……否定できぬ」
「だから、約束してください。無茶をしても、必ず帰ってくると」
その言葉に、テンカは息を止めた。
母に言われた言葉と重なる。
レイナも同じなのだ。
怒っているのではない。
止めたいのでもない。
ただ、帰ってきてほしい。
テンカは姉の手を握り返した。
「約束する」
「本当に?」
「うむ。わらわは、必ず帰る」
「絶対ですよ」
「絶対じゃ」
レイナの瞳が潤む。
それでも、彼女は笑った。
「では、私も約束します。必ず学んで戻ります。ハヅキの次期当主として、あなたの姉として、胸を張って帰ってきます」
「うむ。待っておる」
「手紙も書きます」
「菓子事情も」
「はいはい、菓子事情も」
レイナは微笑み、それから馬車へ向かった。
乗り込む直前、振り返る。
金色の髪が朝の光に揺れた。
「テンカ!」
「何じゃ!」
「可愛い妹のままでいてくださいね!」
「それは約束できぬ!」
「どうしてですか!」
「わらわは武人を志す身じゃ! 凛々しくなる予定なのじゃ!」
「凛々しくて可愛ければよいのです!」
「姉上は強欲じゃな!」
屋敷の前に、小さな笑いが広がった。
泣きそうだった空気が、少しだけ軽くなる。
レイナは満足したように笑い、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる。
車輪がゆっくりと動き始める。
護衛の騎士たちが前後につき、馬車は屋敷の門を出ていく。
テンカは門前に立ち、遠ざかる馬車を見送った。
金色の髪が、窓越しに少しだけ見える。
レイナが手を振っていた。
テンカも手を上げる。
身体はまだ万全ではない。
長く立っているだけで、少し足が重い。
だが、今だけは座りたくなかった。
姉が旅立つ背を、最後まで見送っていたかった。
やがて馬車は通りの向こうへ消えていった。
テンカはしばらく、その先を見つめていた。
「姫さま」
キリカが静かに声をかける。
「お身体が冷えます」
「うむ」
「お戻りになりましょう」
「……そうじゃな」
テンカは頷いた。
胸の奥に、少しだけ空白ができたようだった。
けれど、それは寂しさだけではない。
姉は、学びに行った。
ハヅキの次期当主として、遠く学園都市へ。
ならば、テンカも立ち止まってはいられない。
砕けた刀。
継がれる火。
大魔境に残る影。
自分が向き合うべきものは、まだいくつもある。
テンカは小さく息を吐いた。
「キリカ」
「はい」
「戻ったら、手紙を書く準備をする」
「もうですか?」
「うむ。姉上が忘れぬうちに、まずは饅頭について念を押しておかねばならぬ」
「そこからですか」
「重要じゃ」
キリカは呆れたように、けれど少しだけ柔らかく笑った。
「はい、姫さま」
テンカは屋敷へ向けて歩き出す。
朝の光の中、遠くへ向かった姉の背中を思いながら。
いつか自分も、あの学園都市へ行く日が来るのだろうか。
その問いは、まだ遠い。
けれど確かに、テンカの胸の奥で小さく灯っていた。
評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!




