母の叱責①
翌朝、テンカは母コトネの私室へ呼ばれた。
昨夜は屋敷に戻ってすぐ、治癒師の診察を受け、薬湯を飲まされ、そのまま眠らされた。
魔力枯渇による倦怠感は、まだ身体の奥に残っている。
指先は重く、魔力を巡らせようとしても、いつものような滑らかな流れは戻ってこない。
それでも、一晩眠ったことで、歩けないほどではなくなっていた。
もちろん、キリカは最後まで反対したが。
「姫さま、本当にお一人で歩かれるのですか?」
「母上に呼ばれたのじゃ。這ってでも行く」
「這わせません」
「では歩く」
「それも本来なら止めたいのですが」
そんなやり取りの末、結局キリカに付き添われて、テンカは母の私室まで来ることになった。
扉の前で、キリカが一度だけテンカを見る。
「姫さま」
「何じゃ」
「当主様は、姫さまを責めたいわけではありません」
「分かっておる」
「ですが、お叱りにはなられると思います」
「それも、分かっておる」
テンカは小さく息を吐いた。
逃げるつもりはない。
黒き鬼を斬ったのは自分だ。火行を解き放ったのも自分だ。
それによって第三結界柱は守られ、死者は出なかった。
だが、刀は砕け、自分は倒れ、一歩間違えれば、味方を焼いていたかもしれない。
それを、勝ったからよい、で済ませてはならない。
「案ずるでない」
テンカはキリカに言った。
「叱られてくるだけじゃ」
「姫さま」
「何じゃ」
「それを軽く言えるあたり、やはり姫さまは姫さまです」
「褒めておるのか?」
「半分ほどは」
「残り半分は何じゃ」
「心配です」
テンカは少しだけ笑った。
扉の向こうから、静かな声が聞こえる。
「入りなさい」
コトネの声だった。
テンカは背筋を伸ばし、扉を開いた。
室内には、香の匂いが淡く漂っていた。
書棚と文机。
壁際に置かれた刀掛け。
整えられた帳面と封書。
華美ではない。
だが、一つひとつの品に無駄がなく、どこか張り詰めた空気がある。
部屋の中央で、コトネ=ハヅキが座っていた。
艶やかな黒髪を結い上げ、淡い色の着物に身を包んでいる。
一見すれば、物静かで美しい貴婦人だ。
だがその瞳には、刃のような冷たさが宿っていた。
いや、冷たいのではない。
曇りがないのだ。
テンカは母の前まで進み、膝を折った。
「母上。参りました」
「座りなさい」
「はい」
テンカは正座する。
キリカは一礼し、部屋の隅に控えた。
コトネはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が、かえって重い。
怒鳴られる方が、まだ楽だったかもしれない。
やがて、コトネが口を開いた。
「体調は」
「昨日よりは戻っております」
「魔力は」
「まだ、ほとんど戻っておりません」
「痛むところは」
「全身が少し重い程度です」
「嘘はありませんね」
「……少し、胸の奥が痛みます」
正直に答えると、コトネの眉がわずかに動いた。
「治癒師には?」
「伝えております。魔力枯渇の影響だろうと」
「後で再度診せなさい」
「はい」
それで体調確認は終わった。
コトネは文机の上に置かれた数枚の報告書へ視線を落とす。
「詳細な報告は受けました」
「はい」
「第三討伐隊の術士からも、黒きオーガ……いえ、黒き鬼の瘴気と再生についての所見が上がっています」
「結界柱に損傷はなく、死者もいない。重傷者は数名。いずれも命に別状はない」
テンカはわずかに息を吐いた。
すでに聞いていたことだ。
それでも、母の口から改めて確認すると、胸の奥が少しだけ緩む。
「あなたが火行を放たなければ、第三結界柱は危なかったでしょう」
コトネは静かに言った。
「黒き鬼の再生を断った判断も、誤りではありません」
テンカは思わず顔を上げた。
母の瞳は変わらず静かだった。
「母上」
「あなたは勝ちました。第三結界柱を守り、滅魔旅団の者たちを救いました。そのこと自体は、誇ってよい」
「……はい」
褒められた。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
だが、それは本当に一瞬だけだった。
「ですが」
コトネの声が、わずかに低くなる。
「勝ったから許されるわけではありません」
テンカの背筋が伸びた。
来た。
コトネは報告書から視線を上げる。
「あなたは火行を使いました」
「はい」
「私が、まだ使ってはならないと教えていた火行を」
「はい」
「刀は砕けました」
「はい…」
「あなた自身も、魔力を使い切って倒れました」
「……はい」
「そして、火勢を御し損ねれば、サイゾウや第三討伐隊を巻き込んでいた」
その言葉に、テンカは唇を結んだ。
黒き鬼を斬った瞬間の熱が、脳裏に蘇る。
緋色の炎。刀身を走る光。
黒い瘴気が焼け、肉が炭化し、再生が止まる感覚。
あの一太刀は、確かに届いた。
だが、届いたからこそ分かる。
あれは危うかった。
もしサイゾウが一歩近くにいたら。
もし槍兵が退き遅れていたら。
もしキリカが止めに入っていたら。
緋色の炎は、黒き鬼だけを焼いたとは限らない。
「力は、結果だけで語ってはなりません」
コトネの声が響く。
「何を成したかだけではなく、何を危うくしたのかを見なければならない」
テンカは膝の上で拳を握った。
「分かっております」
「本当に?」
母の問いは静かだった。
だからこそ、逃げられなかった。
「はい」
テンカは答える。
「わらわは……危うかったのじゃな」
言葉にすると、重かった。
「黒き鬼を討つことはできました。第三結界柱も守れました。ですが、それは結果として、うまくいっただけ」
喉が少し渇く。それでも、テンカは続けた。
「わらわは、自分の火行を御しきれておらぬ。刀にも、無理をさせました。サイゾウたちを巻き込む可能性もあった」
言いながら、自分の中で何かが沈んでいくのを感じた。
悔しい。
情けない。
でも、それ以上に怖い。
自分の力で、大切な者たちを傷つけるかもしれなかった。
その事実が、黒き鬼の咆哮よりも深く胸を抉った。
「母上」
「何です」
「わらわは、誤ったのでしょうか」
コトネはすぐには答えなかった。
その沈黙に、テンカは息を止める。
やがて、母は静かに首を横に振った。
「判断そのものは、誤りではありません」
「……」
「黒き鬼を止めるには、火行が必要だった。あの場であなたが動かなければ、誰かが死んでいた可能性は高いでしょう」
「では」
「ですが、正しい判断であっても、未熟な実行は危うい」
コトネの声に、温度が宿る。
怒りではない。悲しみに近い。
「私は、あなたに戦うなと言っているのではありません」
「はい」
「ハヅキの娘として、大魔境に向き合う日はいずれ来ます。あなたに五行の才があるなら、それを磨くことも必要です」
コトネは一度だけ目を伏せた。
「ですが、力はあなた一人のものではありません」
「一人のものではない……」
「あなたが刀を振るえば、隣に立つ者がいます。背を預ける者がいます。あなたの一太刀に命を預ける者も、あなたの無事を祈る者もいる」
キリカが、部屋の隅でわずかに息を詰めた。
「あなたが倒れれば、誰かが泣きます。あなたが無茶をすれば、誰かが傷つきます。あなたが力を誤れば、守るべき者を焼くかもしれない」
テンカは、顔を上げられなかった。
胸の奥が熱い。火行の熱ではない。
もっと苦く、重い熱だった。
「だからこそ、私はあなたに言いました」
コトネの声が、少しだけ柔らかくなる。
「恐れを恥じてはなりません、と」
テンカは息を呑んだ。
何度も思い出した母の言葉。
大魔境で、黒き鬼を前にして、自分を支えた言葉。
「恐れぬ者は勇敢なのではありません。未熟を知らぬだけです」
「はい」
「今回、あなたは恐れましたか」
「……恐れました」
「ならばよろしい」
テンカは顔を上げた。
コトネは、静かにテンカを見ていた。
「恐れた上で、あなたは見た。考えた。斬るべき時を選んだ。それは、あなたの成長です」
「母上……」
「ですが」
コトネの声が再び引き締まる。
「次は、倒れずに戻りなさい」
短い言葉だった。
だが、その中に、叱責と願いの両方があった。
テンカは深く頭を下げた。
「はい」
「刀を砕くことも、己を使い潰すことも、誇ってはなりません」
「はい」
「力を振るうなら、振るった後も立っていなさい」
「……はい」
「あなたは、ハヅキの姫なのですから」
ハヅキの姫。
その言葉が、静かに胸へ落ちる。
戦うだけでは足りない。勝つだけでも足りない。
守った後、生きて戻ること。
帰ってきた者として、次を考えること。
それが、ハヅキの娘として求められることなのだ。
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