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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2章 刀匠と継ぎ火
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母の叱責①

 翌朝、テンカは母コトネの私室へ呼ばれた。


 昨夜は屋敷に戻ってすぐ、治癒師の診察を受け、薬湯を飲まされ、そのまま眠らされた。

 魔力枯渇による倦怠感は、まだ身体の奥に残っている。

 指先は重く、魔力を巡らせようとしても、いつものような滑らかな流れは戻ってこない。

 それでも、一晩眠ったことで、歩けないほどではなくなっていた。

 もちろん、キリカは最後まで反対したが。


「姫さま、本当にお一人で歩かれるのですか?」

「母上に呼ばれたのじゃ。這ってでも行く」

「這わせません」

「では歩く」

「それも本来なら止めたいのですが」


 そんなやり取りの末、結局キリカに付き添われて、テンカは母の私室まで来ることになった。

 扉の前で、キリカが一度だけテンカを見る。


「姫さま」

「何じゃ」

「当主様は、姫さまを責めたいわけではありません」

「分かっておる」

「ですが、お叱りにはなられると思います」

「それも、分かっておる」


 テンカは小さく息を吐いた。

 逃げるつもりはない。


 黒き鬼を斬ったのは自分だ。火行を解き放ったのも自分だ。

 それによって第三結界柱は守られ、死者は出なかった。

 だが、刀は砕け、自分は倒れ、一歩間違えれば、味方を焼いていたかもしれない。


 それを、勝ったからよい、で済ませてはならない。


「案ずるでない」


 テンカはキリカに言った。


「叱られてくるだけじゃ」


「姫さま」

「何じゃ」

「それを軽く言えるあたり、やはり姫さまは姫さまです」

「褒めておるのか?」

「半分ほどは」

「残り半分は何じゃ」

「心配です」


 テンカは少しだけ笑った。

 扉の向こうから、静かな声が聞こえる。


「入りなさい」


 コトネの声だった。

 テンカは背筋を伸ばし、扉を開いた。

 室内には、香の匂いが淡く漂っていた。


 書棚と文机。

 壁際に置かれた刀掛け。

 整えられた帳面と封書。


 華美ではない。


 だが、一つひとつの品に無駄がなく、どこか張り詰めた空気がある。

 部屋の中央で、コトネ=ハヅキが座っていた。

 艶やかな黒髪を結い上げ、淡い色の着物に身を包んでいる。

 一見すれば、物静かで美しい貴婦人だ。

 だがその瞳には、刃のような冷たさが宿っていた。


 いや、冷たいのではない。

 曇りがないのだ。

 テンカは母の前まで進み、膝を折った。


「母上。参りました」

「座りなさい」

「はい」


 テンカは正座する。

 キリカは一礼し、部屋の隅に控えた。

 コトネはしばらく何も言わなかった。

 その沈黙が、かえって重い。

 怒鳴られる方が、まだ楽だったかもしれない。


 やがて、コトネが口を開いた。


「体調は」

「昨日よりは戻っております」

「魔力は」

「まだ、ほとんど戻っておりません」

「痛むところは」

「全身が少し重い程度です」

「嘘はありませんね」

「……少し、胸の奥が痛みます」


 正直に答えると、コトネの眉がわずかに動いた。


「治癒師には?」

「伝えております。魔力枯渇の影響だろうと」

「後で再度診せなさい」

「はい」


 それで体調確認は終わった。

 コトネは文机の上に置かれた数枚の報告書へ視線を落とす。


「詳細な報告は受けました」

「はい」

「第三討伐隊の術士からも、黒きオーガ……いえ、()()()の瘴気と再生についての所見が上がっています」

「結界柱に損傷はなく、死者もいない。重傷者は数名。いずれも命に別状はない」


 テンカはわずかに息を吐いた。

 すでに聞いていたことだ。

 それでも、母の口から改めて確認すると、胸の奥が少しだけ緩む。


「あなたが火行を放たなければ、第三結界柱は危なかったでしょう」


 コトネは静かに言った。


「黒き鬼の再生を断った判断も、誤りではありません」


 テンカは思わず顔を上げた。

 母の瞳は変わらず静かだった。


「母上」

「あなたは勝ちました。第三結界柱を守り、滅魔旅団の者たちを救いました。そのこと自体は、誇ってよい」

「……はい」


 褒められた。

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 だが、それは本当に一瞬だけだった。


「ですが」


 コトネの声が、わずかに低くなる。


「勝ったから許されるわけではありません」


 テンカの背筋が伸びた。

 来た。


 コトネは報告書から視線を上げる。


「あなたは火行を使いました」

「はい」

「私が、まだ使ってはならないと教えていた火行を」

「はい」

「刀は砕けました」

「はい…」


「あなた自身も、魔力を使い切って倒れました」


「……はい」

「そして、火勢を御し損ねれば、サイゾウや第三討伐隊を巻き込んでいた」


 その言葉に、テンカは唇を結んだ。

 黒き鬼を斬った瞬間の熱が、脳裏に蘇る。


 緋色の炎。刀身を走る光。

 黒い瘴気が焼け、肉が炭化し、再生が止まる感覚。

 あの一太刀は、確かに届いた。

 だが、届いたからこそ分かる。


 あれは危うかった。


 もしサイゾウが一歩近くにいたら。

 もし槍兵が退き遅れていたら。

 もしキリカが止めに入っていたら。


 緋色の炎は、黒き鬼だけを焼いたとは限らない。


「力は、結果だけで語ってはなりません」


 コトネの声が響く。


「何を成したかだけではなく、何を危うくしたのかを見なければならない」


 テンカは膝の上で拳を握った。


「分かっております」

「本当に?」


 母の問いは静かだった。

 だからこそ、逃げられなかった。


「はい」


 テンカは答える。


「わらわは……危うかったのじゃな」


 言葉にすると、重かった。


「黒き鬼を討つことはできました。第三結界柱も守れました。ですが、それは結果として、うまくいっただけ」


 喉が少し渇く。それでも、テンカは続けた。


「わらわは、自分の火行を御しきれておらぬ。刀にも、無理をさせました。サイゾウたちを巻き込む可能性もあった」


 言いながら、自分の中で何かが沈んでいくのを感じた。


 悔しい。

 情けない。

 でも、それ以上に怖い。


 自分の力で、大切な者たちを傷つけるかもしれなかった。

 その事実が、黒き鬼の咆哮よりも深く胸を抉った。


「母上」

「何です」

「わらわは、誤ったのでしょうか」


 コトネはすぐには答えなかった。

 その沈黙に、テンカは息を止める。

 やがて、母は静かに首を横に振った。


「判断そのものは、誤りではありません」

「……」

「黒き鬼を止めるには、火行が必要だった。あの場であなたが動かなければ、誰かが死んでいた可能性は高いでしょう」

「では」

「ですが、正しい判断であっても、未熟な実行は危うい」


 コトネの声に、温度が宿る。

 怒りではない。悲しみに近い。


「私は、あなたに戦うなと言っているのではありません」

「はい」

「ハヅキの娘として、大魔境に向き合う日はいずれ来ます。あなたに五行の才があるなら、それを磨くことも必要です」


 コトネは一度だけ目を伏せた。


「ですが、力はあなた一人のものではありません」

「一人のものではない……」

「あなたが刀を振るえば、隣に立つ者がいます。背を預ける者がいます。あなたの一太刀に命を預ける者も、あなたの無事を祈る者もいる」


 キリカが、部屋の隅でわずかに息を詰めた。


「あなたが倒れれば、誰かが泣きます。あなたが無茶をすれば、誰かが傷つきます。あなたが力を誤れば、守るべき者を焼くかもしれない」


 テンカは、顔を上げられなかった。

 胸の奥が熱い。火行の熱ではない。

 もっと苦く、重い熱だった。


「だからこそ、私はあなたに言いました」


 コトネの声が、少しだけ柔らかくなる。


「恐れを恥じてはなりません、と」


 テンカは息を呑んだ。

 何度も思い出した母の言葉。

 大魔境で、黒き鬼を前にして、自分を支えた言葉。


「恐れぬ者は勇敢なのではありません。未熟を知らぬだけです」

「はい」

「今回、あなたは恐れましたか」

「……恐れました」

「ならばよろしい」


 テンカは顔を上げた。

 コトネは、静かにテンカを見ていた。


「恐れた上で、あなたは見た。考えた。斬るべき時を選んだ。それは、あなたの成長です」

「母上……」

「ですが」


 コトネの声が再び引き締まる。


「次は、倒れずに戻りなさい」


 短い言葉だった。

 だが、その中に、叱責と願いの両方があった。


 テンカは深く頭を下げた。


「はい」

「刀を砕くことも、己を使い潰すことも、誇ってはなりません」

「はい」

「力を振るうなら、振るった後も立っていなさい」

「……はい」

「あなたは、ハヅキの姫なのですから」


 ハヅキの姫。

 その言葉が、静かに胸へ落ちる。


 戦うだけでは足りない。勝つだけでも足りない。

 守った後、生きて戻ること。

 帰ってきた者として、次を考えること。


 それが、ハヅキの娘として求められることなのだ。

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