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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2章 刀匠と継ぎ火
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砕けた太刀を抱いて①

 ハヅキ家の屋敷へ戻った時、空はすでに夕暮れに染まり始めていた。


 西の空には茜色が広がり、屋敷の白壁が淡く赤く照らされている。

 いつもなら美しいと思えたはずの光景だった。


 だが今のテンカには、その色が少し眩しかった。

 身体が重い。

 指先に力が入らず、胸の奥は乾ききった井戸のように空っぽだった。


 魔力枯渇。

 治癒師からそう告げられた。


 黒き鬼を討った後、第三結界柱近くの仮設天幕で目を覚ましたテンカは、応急の治療と最低限の魔力回復を受け、そのまま屋敷へ戻されることになった。


 歩こうと思えば、歩ける。

 ただし、数歩で膝が笑う。

 だから今は、馬車の座席に身体を預けていた。

 隣にはキリカが座っている。


 専属メイドは、いつものように背筋を伸ばしていたが、その横顔には疲労が見えた。

 無理もない。

 黒き鬼との戦いの後、テンカが倒れてから今に至るまで、キリカはほとんど休んでいないはずだった。


「キリカ」

「はい、姫さま」

「そなたも、少し休め」

「姫さまがお休みになられてからであれば」

「それでは、いつまで経っても休めぬではないか」

「その場合は、姫さまに早くお休みいただくまでです」

「頑固よのう」

「姫さまほどではありません」


 淡々と返され、テンカは言葉に詰まった。

 言い返したい。

 だが、今の身体では反論する気力すら惜しい。

 テンカは小さく息を吐き、視線を落とした。

 膝の上には、布に包まれたものがある。


 砕けた刀の柄。


 黒き鬼を斬った一太刀に耐えきれず、刀身は砕け散った。

 残ったのは柄と、わずかな刃の根元だけ。

 それでもテンカは、それを手放す気にはなれなかった。


 この3年間、幾度となく握ってきた刀だった。

 決して名刀ではない。

 子供の身体に合わせて鍛えられた、実戦用の一振り。

 だが、テンカにとっては初めての相棒だった。


「……すまぬな」


 小さく呟く。

 刀は答えない。

 当たり前だ。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 キリカは何も言わなかった。

 ただ、そっとテンカの膝に掛けられた布がずれないよう整える。

 その手つきがいつもより少しだけ優しくて、テンカは胸の奥がわずかに痛んだ。


 屋敷の正門が見える。

 門前には、すでに人影があった。

 屋敷の使用人たち。数名の近衛。

 そして、その中央に立つ三人。


 母、コトネ。

 父、アルバート。

 姉、レイナ。


 テンカは思わず背筋を伸ばそうとした。

 だが、身体が言うことを聞かず、少しだけ肩が揺れる。


「姫さま、無理をなさらず」

「分かっておる」


 分かってはいる。

 だが、家族の前でぐったりした姿を見せるのは、どうにも落ち着かない。


 馬車が止まり、扉が開かれる。

 まずキリカが降り、続いてテンカへ手を差し出した。

 テンカはその手を借りて、ゆっくりと馬車を降りる。

 足が地面に触れた瞬間、膝に力が入らなかった。


 わずかによろめく。


「テンカ!」


 レイナの声が響いた。


 次の瞬間、金色の髪が視界いっぱいに広がる。

 レイナが駆け寄ってきたのだ。

 陽光を糸にして紡いだかのような金色の髪が揺れ、泣きそうな顔でテンカに手を伸ばす。


 しかし、抱きしめる直前でぴたりと止まった。

 キリカが半歩前に出ていた。


「レイナ様。姫さまはまだお身体が」

「……分かっています」


 レイナは唇を噛んだ。

 今すぐ抱きしめたい。

 けれど、テンカに負担をかけたくない。

 その葛藤が表情に出すぎていて、テンカは少しだけ困ったように笑った。


「姉上」

「テンカ……」

「案ずるでない。わらわは戻った」


 そう言うと、レイナの目元がさらに潤んだ。


「戻った、ではありません」

「む」

「どれほど心配したと思っているのですか。黒き鬼を斬ったと聞いて、刀が砕けたと聞いて、あなたが倒れたと聞いて……」


 レイナの声が震える。


「私は、私は……」


 言葉の途中で、レイナは顔を伏せた。

 テンカは胸の奥が詰まるのを感じた。

 黒き鬼の前では、恐怖を受け止められた。

 火行の熱にも、どうにか呑まれずに済んだ。


 だが、姉の泣きそうな顔は、別の意味で堪える。


「姉上」


 テンカは手を伸ばした。

 小さな手で、レイナの袖をそっと掴む。


「すまぬ。心配をかけた」


 レイナが顔を上げる。

 暗い紅玉の瞳と、潤んだ金の瞳が合った。


「でも、守れたのじゃ。第三結界柱も、皆も」

「それは分かっています。分かっていますけれど……」


 レイナは小さく首を振った。


「妹が無茶をして平気でいられる姉などいません」

「平気ではなかったのか」

「当たり前です」


 即答だった。

 テンカは小さく肩をすくめようとして、身体が重くて失敗した。


「む。これは、思ったより効いておるな」

「姫さま」


 キリカの声が少し低くなる。


「動かないでください」

「分かっておる」

「分かっておられる方の動きではありません」

「……すまぬ」


 素直に謝ると、キリカの表情が少しだけ和らいだ。

 その様子を見ていたアルバートが、静かに近づいてくる。

 金色の髪を夕日に照らしながら、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。

 しかし、その目元には疲労と安堵が滲んでいる。


「おかえり、テンカ」

「ただいま戻りました、父上」

「無事でよかった」


 アルバートはそれだけを言った。

 たった一言。

 けれど、そこに込められた感情は重かった。


 テンカは少しだけ視線を落とす。


「父上にも、心配をかけました」

「うん。とても心配したよ」


 アルバートは苦笑した。


「でも、まずは帰ってきてくれた。それだけで、今は十分だ」


 優しい言葉だった。

 だからこそ、テンカは胸が痛くなる。


 そして。


 最後に、コトネが歩み寄ってきた。

 艶やかな黒髪を結い上げ、静かな佇まいで立つ母。

 貴族社会で《黒の真珠姫》と呼ばれるその人は、いつも通り冷静だった。


 少なくとも、表面上は。


 テンカは自然と背筋を伸ばした。

 身体は重い。だが、母の前でだらしない姿は見せられない。


「母上」

「テンカ」


 コトネの声は静かだった。

 怒鳴らない。慌てない。

 ただ、まっすぐにこちらを見る。


 その視線だけで、テンカは自分の背中に冷たいものが走るのを感じた。


「無事に戻ったことは、何よりです」

「はい」

「第三結界柱を守ったことも、異様なオーガ(黒き鬼)を討ったことも、報告で聞いています」

「はい」

「ですが」


 コトネの声が、わずかに低くなる。


「戻っただけでは、済みません」


 夕暮れの赤に染まる屋敷の前で、テンカは静かに背筋を伸ばした。

第2章開始です。お付き合いいただければと思います。


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