砕けた太刀を抱いて①
ハヅキ家の屋敷へ戻った時、空はすでに夕暮れに染まり始めていた。
西の空には茜色が広がり、屋敷の白壁が淡く赤く照らされている。
いつもなら美しいと思えたはずの光景だった。
だが今のテンカには、その色が少し眩しかった。
身体が重い。
指先に力が入らず、胸の奥は乾ききった井戸のように空っぽだった。
魔力枯渇。
治癒師からそう告げられた。
黒き鬼を討った後、第三結界柱近くの仮設天幕で目を覚ましたテンカは、応急の治療と最低限の魔力回復を受け、そのまま屋敷へ戻されることになった。
歩こうと思えば、歩ける。
ただし、数歩で膝が笑う。
だから今は、馬車の座席に身体を預けていた。
隣にはキリカが座っている。
専属メイドは、いつものように背筋を伸ばしていたが、その横顔には疲労が見えた。
無理もない。
黒き鬼との戦いの後、テンカが倒れてから今に至るまで、キリカはほとんど休んでいないはずだった。
「キリカ」
「はい、姫さま」
「そなたも、少し休め」
「姫さまがお休みになられてからであれば」
「それでは、いつまで経っても休めぬではないか」
「その場合は、姫さまに早くお休みいただくまでです」
「頑固よのう」
「姫さまほどではありません」
淡々と返され、テンカは言葉に詰まった。
言い返したい。
だが、今の身体では反論する気力すら惜しい。
テンカは小さく息を吐き、視線を落とした。
膝の上には、布に包まれたものがある。
砕けた刀の柄。
黒き鬼を斬った一太刀に耐えきれず、刀身は砕け散った。
残ったのは柄と、わずかな刃の根元だけ。
それでもテンカは、それを手放す気にはなれなかった。
この3年間、幾度となく握ってきた刀だった。
決して名刀ではない。
子供の身体に合わせて鍛えられた、実戦用の一振り。
だが、テンカにとっては初めての相棒だった。
「……すまぬな」
小さく呟く。
刀は答えない。
当たり前だ。
それでも、言わずにはいられなかった。
キリカは何も言わなかった。
ただ、そっとテンカの膝に掛けられた布がずれないよう整える。
その手つきがいつもより少しだけ優しくて、テンカは胸の奥がわずかに痛んだ。
屋敷の正門が見える。
門前には、すでに人影があった。
屋敷の使用人たち。数名の近衛。
そして、その中央に立つ三人。
母、コトネ。
父、アルバート。
姉、レイナ。
テンカは思わず背筋を伸ばそうとした。
だが、身体が言うことを聞かず、少しだけ肩が揺れる。
「姫さま、無理をなさらず」
「分かっておる」
分かってはいる。
だが、家族の前でぐったりした姿を見せるのは、どうにも落ち着かない。
馬車が止まり、扉が開かれる。
まずキリカが降り、続いてテンカへ手を差し出した。
テンカはその手を借りて、ゆっくりと馬車を降りる。
足が地面に触れた瞬間、膝に力が入らなかった。
わずかによろめく。
「テンカ!」
レイナの声が響いた。
次の瞬間、金色の髪が視界いっぱいに広がる。
レイナが駆け寄ってきたのだ。
陽光を糸にして紡いだかのような金色の髪が揺れ、泣きそうな顔でテンカに手を伸ばす。
しかし、抱きしめる直前でぴたりと止まった。
キリカが半歩前に出ていた。
「レイナ様。姫さまはまだお身体が」
「……分かっています」
レイナは唇を噛んだ。
今すぐ抱きしめたい。
けれど、テンカに負担をかけたくない。
その葛藤が表情に出すぎていて、テンカは少しだけ困ったように笑った。
「姉上」
「テンカ……」
「案ずるでない。わらわは戻った」
そう言うと、レイナの目元がさらに潤んだ。
「戻った、ではありません」
「む」
「どれほど心配したと思っているのですか。黒き鬼を斬ったと聞いて、刀が砕けたと聞いて、あなたが倒れたと聞いて……」
レイナの声が震える。
「私は、私は……」
言葉の途中で、レイナは顔を伏せた。
テンカは胸の奥が詰まるのを感じた。
黒き鬼の前では、恐怖を受け止められた。
火行の熱にも、どうにか呑まれずに済んだ。
だが、姉の泣きそうな顔は、別の意味で堪える。
「姉上」
テンカは手を伸ばした。
小さな手で、レイナの袖をそっと掴む。
「すまぬ。心配をかけた」
レイナが顔を上げる。
暗い紅玉の瞳と、潤んだ金の瞳が合った。
「でも、守れたのじゃ。第三結界柱も、皆も」
「それは分かっています。分かっていますけれど……」
レイナは小さく首を振った。
「妹が無茶をして平気でいられる姉などいません」
「平気ではなかったのか」
「当たり前です」
即答だった。
テンカは小さく肩をすくめようとして、身体が重くて失敗した。
「む。これは、思ったより効いておるな」
「姫さま」
キリカの声が少し低くなる。
「動かないでください」
「分かっておる」
「分かっておられる方の動きではありません」
「……すまぬ」
素直に謝ると、キリカの表情が少しだけ和らいだ。
その様子を見ていたアルバートが、静かに近づいてくる。
金色の髪を夕日に照らしながら、彼はいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
しかし、その目元には疲労と安堵が滲んでいる。
「おかえり、テンカ」
「ただいま戻りました、父上」
「無事でよかった」
アルバートはそれだけを言った。
たった一言。
けれど、そこに込められた感情は重かった。
テンカは少しだけ視線を落とす。
「父上にも、心配をかけました」
「うん。とても心配したよ」
アルバートは苦笑した。
「でも、まずは帰ってきてくれた。それだけで、今は十分だ」
優しい言葉だった。
だからこそ、テンカは胸が痛くなる。
そして。
最後に、コトネが歩み寄ってきた。
艶やかな黒髪を結い上げ、静かな佇まいで立つ母。
貴族社会で《黒の真珠姫》と呼ばれるその人は、いつも通り冷静だった。
少なくとも、表面上は。
テンカは自然と背筋を伸ばした。
身体は重い。だが、母の前でだらしない姿は見せられない。
「母上」
「テンカ」
コトネの声は静かだった。
怒鳴らない。慌てない。
ただ、まっすぐにこちらを見る。
その視線だけで、テンカは自分の背中に冷たいものが走るのを感じた。
「無事に戻ったことは、何よりです」
「はい」
「第三結界柱を守ったことも、異様なオーガを討ったことも、報告で聞いています」
「はい」
「ですが」
コトネの声が、わずかに低くなる。
「戻っただけでは、済みません」
夕暮れの赤に染まる屋敷の前で、テンカは静かに背筋を伸ばした。
第2章開始です。お付き合いいただければと思います。
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