姫さまとフィアナ
フィアナとの面会が許可されたのは、授業を終えた後だった。
医務室で状態を確認し、本人も面会を了承したうえで、短い時間であれば問題ないと言われている。テンカは東棟の廊下を進み、フィアナの部屋の前で足を止めた。
昨日までは、訪ねようと思えばすぐに訪ねられる相手だった。それが今日は、扉を叩く前に少しだけ考えてしまう。
自分を観察し、とりわけ五行について父親へ報告していたこと。成果を出せなくなれば、自分は「処分対象になる」と考えていること。学園長から聞いた言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
テンカはしばらく扉を見つめ、それから手を上げた。軽く、2度叩いた。
「フィアナ。わらわじゃ」
「……はい。どうぞ」
返事を待って扉を開ける。
室内にはフィアナが1人でいた。いつもの制服ではなく、寮で過ごすための簡素な服を着ている。右手は白い手袋に覆われたままだった。
「失礼するぞ」
「はい」
フィアナは椅子から立とうとした。
「そのままでよい」
テンカが手で制すると、フィアナは一瞬迷ってから座り直した。
向かいの椅子へ腰を下ろした。
しばらく、どちらも口を開かなかったが、先に視線を上げたのはフィアナだった。
「テンカ様。学園長から、お聞きになったのですね」
「うむ」
何を、と確認する必要はなかった。
フィアナは膝の上へ両手を置き、頭を下げた。
「申し訳ありません」
「顔を上げよ」
フィアナはすぐには動かなかった。
「フィアナ」
「……はい」
ようやく顔が上がった。
煙水晶のような瞳は、いつもの落ち着きを失っていた。
「私は父から、テンカ様が五行を使う様子を観察し、その内容を報告するよう命じられていました」
「学園長から聞いた」
「実際に報告もしています。テンカ様が水行を使った時のことや、属性魔術との違いについて、私が見たことを……」
言葉がそこで止まった。
「黙っていたことも、報告していたことも、謝ります」
テンカはすぐには答えなかった。
何とも思わないわけではない。
自分の知らないところで観察され、五行について見たことがオルフィス子爵へ送られていたのだ。気分がよい話ではなかった。
「1つ、聞いてもよいか?」
「はい」
「わらわたちと迷宮へ入ったことも、買い物へ出かけたことも、すべて父君への報告のためだったのか?」
フィアナの目が見開かれた。
「違います」
返事は早かった。
それから、自分でも驚いたように一度口を閉じる。
「……違います」
今度は、確かめるように繰り返した。
「テンカ様の五行を観察することは、父から命じられていました。でも、皆さんと迷宮へ行くことも、買い物へ行くことも命じられていません」
「そうか」
「信じていただけるのですか?」
「報告されたことまで、なかったことにするつもりはないぞ」
フィアナの表情がわずかに強張る。
「じゃが、そなたが自分で選んだことまで疑う気もない」
「私が……選んだこと」
「うむ」
テンカはフィアナをまっすぐ見た。
「そなたは、わらわたちと出かけたくなかったのか?」
「それは……」
フィアナが視線を落とす。
長い沈黙ではなかった。
「楽しかったです」
小さな声だった。
「買い物も。皆さんと迷宮へ行ったことも。食堂で話すことも」
そこで言葉を切り、白い手袋に覆われた右手へ目を落とした。
「今まで、必要かどうかを考えることはありました。何をすれば役に立てるのか、何を報告すれば成果になるのかも。でも、楽しいから続けたいと思ったことは、あまりありませんでした」
テンカは黙って聞いていた。
「この前、皆さんと買い物へ行った時に買った筆記帳があります」
「覚えておるぞ」
「最初の頁に、書いたことがあるんです」
フィアナの頬が、ごくわずかに緩んだ。
「次は焼き菓子の店へ行く。私から皆さんを誘う、と」
「ほう」
「まだ、誘えていません」
「では、元気になったら誘えばよい」
「……はい」
その返事は、これまでより少しだけ軽かった。
テンカも口元を緩めた。
ここへ来る前から、聞こうと決めていたことがある。
「フィアナ。もう1つよいか?」
「はい」
「学園長から聞いた。そなたは、成果を出せなくなれば『処分対象になる』と言ったそうじゃな」
フィアナの表情から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「……はい」
「なぜ、そう思う?」
「そう教えられてきたからです」
返ってきた答えには、迷いがなかった。
「成果を示せないものに意味はありません。与えられた役目を果たせないのなら、そのために使われた時間も、薬も、研究も無駄になります」
テンカの眉が寄った。
「それを、そなた自身のこととして言っておるのか?」
「私は、そのためにオルフィス家へ迎えられましたから」
あまりにも当然のことを説明する声音だった。
昨日、学園長室で覚えた怒りが、また胸の奥へ浮かんでくる。
けれど、怒鳴ることはしなかった。
「父君がそなたへ何を求めておるのかは分かった」
「はい」
「では、そなたはどうしたい?」
フィアナが瞬きをした。
「……私、ですか?」
「他に誰がおる」
「ですが、私は父の期待に応えて、火と水を安定して使えるようにならなければ」
「それは父君が望んでおることじゃ」
フィアナの言葉が止まった。
「わらわが聞いておるのは、そなたのことじゃ。フィアナは、どうしたい?」
灰紫色の瞳が揺れた。
答えを探しているのだと分かった。
テンカは急かさずに待った。
「……分かりません」
やがて、フィアナはそう答えた。
「父に求められたことなら答えられます。学園で何を学ぶべきかも、報告に何を書くべきかも。でも、私がこれからどうしたいのかと聞かれると……分かりません」
「ならば、今すぐ分からずともよい」
「ですが」
「先のことを全部決めよとは言っておらぬ。今、そなたがしたいことはないのか?」
「今……」
フィアナは考えながら、机の上へ視線を向けた。
そこには、閉じられた筆記帳が置かれていた。
「また、皆さんと出かけたいです」
今度の答えは、先ほどよりも早かった。
「焼き菓子の店へ行きたいです。今度は、私から皆さんを誘いたいです」
「うむ」
テンカは笑った。
「それなら、まずはそれでよいではないか」
フィアナも、ほんの少しだけ笑った。
「……はい」
部屋に流れていた張り詰めた空気が、少しだけ緩む。
テンカは椅子の背へ身体を預けた。
聞きたかったことは聞けた。
少なくとも、フィアナが自分たちと過ごした時間まで父親に命じられていたわけではない。そして、まだ小さくても、自分で選んだ望みを持っている。
「今日はそれを聞けただけでも来た甲斐があった」
「テンカ様」
「何じゃ?」
フィアナは何かを言いかけて、口を閉じた。
先ほどまでとは違う迷い方だった。フィアナは白い手袋に覆われた右手へ視線を落とし、しばらくして再びテンカへ顔を向けた。
「私も、テンカ様にお話ししたいことがあります」
「聞こう」
「私の火と水に関わることです。今まで、詳しくお話ししていませんでした」
テンカは姿勢を戻した。
フィアナは膝の上で手を握る。
「父たちから聞いた、《万象接脈》についてお話ししたいです」
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