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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2部第3章 万象接脈《オムニア・グラフト》
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漆黒の剣閃

 学園長室へ戻ったアルディオンは、机の上に広げた報告書へ視線を落としていた。


 黒紫色へ変質した薬液。火と水、異なる属性の魔力を取り込みながら融合した2つの塊。そして、学園へ侵入してまでそれを奪ったローブ姿の人物。


 若い頃に他国の大魔境で目にした、《澱み》に汚染された魔物の姿が脳裏から離れない。


 もちろん、今回の異常が同じものだと断定するには材料が足りなかった。

 それでも、見過ごすには似すぎている。


 アルディオンは報告書を閉じると、隣に置いていた封書を手に取った。


 宛先は、ハヅキ辺境伯家。


 南方に広がる悠久なる大魔境と向き合い続けてきた家であり、その麾下には魔物や大魔境の異常事態へ対処する滅魔旅団がいる。

 もし今回の件に《澱み》が関わっているのなら、彼らの知見を借りるべきだった。


 アルディオンは封書へ学園長印を押す。


 預かった薬は学園側で厳重に保管する。正体の分からないものを不用意に外へ持ち出すつもりはない。

 送るのは、これまでに確認された現象をまとめた報告と、調査への協力を求める書状だけだ。


「失礼します」


 扉が開き、旅装を整えた男性職員が入ってきた。


 風属性魔術を得意とし、学園外への急使を任されることもある男だった。


「お呼びでしょうか」

「ええ。これをハヅキ辺境伯家へ届けてください」


 アルディオンが封書を差し出す。


「できるだけ急いでいただきたい。ただし、昨夜は学園内部へ侵入者がありました。周囲には十分注意してください」

「承知しました」


 職員は封書を鞄へ収め、留め具を確かめる。


「黄昏街道を通ります」

「お願いします」


 男が一礼して部屋を出ていく。


 アルディオンは閉じた扉をしばらく見つめていた。


 学園の中だけで収まる問題なら、それに越したことはないが、そう願える段階は、すでに過ぎていた。


 ◇  ◇  ◇


 学園都市を出た男は、黄昏街道を南へ進んでいた。


 男は風を身体の周囲へ纏わせ、一定の速度を保ったまま街道を進む。急ぐ必要はあったが、学園長から手渡された封書の内容までは知らされていない。


 それでも、学園内部へ侵入者があった直後にハヅキ辺境伯家へ送る急使なのだから、軽い用件ではないことくらい分かった。


 街道が森の近くを通る場所へ差しかかった時だった。


 男は足を止めた。前方の道に、深いフードを被った黒いローブ姿の人物が1人立っている。顔は見えない。


「……道を空けていただけますか」


 声をかけても、人影は動かなかった。


 嫌な感覚が背中を走る。


 男は右手へ魔力を集めた。


「その鞄を置いていってください」


 ローブの人物が口を開いた。


「何のことでしょう」

「分かっているはずですよ。ハヅキ辺境伯家へ届ける書状です」


 男の表情が強張った。


 封書を預かったことを知っている。男は考えるより先に風属性魔術を発動し、足元から巻き上がった風で身体を押し出して街道脇へ大きく跳んだ。


 同時に、ローブの人物が抜き放った剣が、先ほどまで立っていた場所を薙ぐ。そのまま一気に間合いを詰めてきた。


「くっ!」


 男は腕を振り、圧縮した風を放った。


 横殴りの突風が街道を走る。


 ローブが大きくはためいたものの、相手は身体を沈めて踏み込みを続けた。風を真正面から受けながら、その速度がほとんど落ちていない。


 男は後方へ跳ぶ。


 追ってきた刃が胸元を掠め、旅装が裂けた。


 次の一撃を避けようと足元へ風を集めた瞬間、相手の蹴りが腹へ突き刺さる。


「ぐっ……!」


 身体が地面を転がった。


 肺から息が押し出される。

 立ち上がろうとしたが、右脚に力が入らない。


 ローブの人物がゆっくりと近づいてきた。


「最初から渡していれば、痛い思いをせずに済んだのですが」


 男は鞄を庇うように身体を起こした。


「これは……渡せません」

「そうですか」


 ローブの人物が刃を振り上げる。


 風を集める時間もなく、男が歯を食いしばった、その時だった。


 澄んだ金属音が街道に響いた。


 振り下ろされた刃が、横から飛び込んできた剣に弾かれた。ローブの人物が素早く距離を取ると、男の前にはいつの間にか1人の剣士が立っていた。


 灰色の混じった黒髪に、どこか柔和な印象を与える顔立ち。黒を基調とした鎧と外套を纏い、右手には抜き身の剣を握っている。剣士は倒れている男へ一度だけ視線を向けると、ローブの人物へ向き直った。


 柔和だった目元が、一瞬で鋭さを帯びた。


 ローブの人物が地面を蹴る。剣士も同時に踏み込み、2人の刃が正面からぶつかって甲高い音を響かせた。相手が手首を返して剣の脇を抜くように刃を突き込むと、剣士は半歩だけ身体をずらしてかわし、すれ違いざまに横薙ぎを放つ。


 黒いローブが裂け、相手は後方へ跳んで間合いを取った。剣士は追わず、手にした剣を静かに鞘へ戻す。その動きを見た相手の足が止まった。


 納刀した今でも、剣士の立ち姿には隙が見当たらない。


 ローブの人物は正面を避け、低く構えたまま斜めへ踏み込んだ。剣を抜かせるより先に懐へ入るつもりだった。


 刃が届く寸前、剣士の腰が沈む。


 鞘走りの音。


 抜き放たれた剣が、下から斜めに閃いた。


「っ!」


 ローブの人物が刃を重ねて受ける。


 衝撃に押され、両足が地面を滑った。


 剣士はさらに一歩踏み込むと、返した剣を再び振るう。相手は身を捻ってかわしたが、フードの端が切り飛ばされた。


 黒い布が宙を舞う。


 ローブの人物は距離を取りながら、初めて剣士の姿をじっと見た。


「その容貌、その装い……この技……」


 わずかな沈黙。


「まさか、このようなところで《漆黒》と遭遇するとは……。なぜ、ここに?」


 《漆黒》と呼ばれた男は答えなかった。


 剣を鞘へ収め、柄へ右手を添える。


 次の瞬間、一気に間合いを詰めた。


「……ちっ!」


 ローブの人物が抜刀を受け止め、刃と刃が噛み合って火花が散った。その最中、相手の視線が街道の先へ動く。

 遅れて、倒れていた男の耳にも複数の足音が届いた。こちらへ近づいてくる。


 ローブの人物は剣を強く弾くと、大きく後方へ跳んだ。


「今日は退かせてもらいましょう」


 黒いローブが森の中へ飛び込み、その姿が木々の向こうへ消える。


 《漆黒》と呼ばれた男は追わなかった。


 ほどなくして、街道の向こうから数人の男女が駆けてくる。


「隊長!」


 先頭の男が足を止め、森へ目を向けた。


「今の人物は何者ですか? 追いますか?」


 隊長と呼ばれた男は、静かに剣を鞘へ収めた。


「いや、いらぬでござる。それよりも、そこの倒れている者の治療を」

「承知しました!」


 数人がすぐに負傷した男のもとへ駆け寄った。


 彼らが身に纏っているのは、黒を基調とした鎧と外套だった。外套にはハヅキ家の家紋と、その傍らに八咫烏の徽章があしらわれている。


 八咫烏の徽章は、ハヅキ辺境伯家の滅魔旅団第二討伐隊を示すものだった。


「傷を見せてください」


 隊員の1人が膝をつき、男の腹部と脚を確かめる。


「動けますか?」

「なんとか……」


 答えながら、男は鞄へ手を添えた。


 封書は残っている。


「私は皇国学園の者です。ハヅキ辺境伯家へ、急ぎの書状を……」


 隊長と呼ばれた男の視線が、鞄へ向いた。


「その書状を、先ほどの者が狙っていたのでござるか?」

「はい」


 男が頷く。


 隊長は少し考え、後ろに立つ隊員たちへ振り返った。


「2人、書状を預かり領都へ向かえ。途中で何かあれば、無理に戦わず報せを優先するでござる」

「はっ!」


 2人の隊員が応じる。


 負傷した男は鞄から封書を取り出し、そのうちの1人へ手渡した。


 封が破られていないことを確かめると、隊員たちはすぐに南へ走り出す。


「残りは、この者を学園まで送り届けるでござる」


 隊長の言葉に、男は目を瞬いた。


「学園へ?」

「我らも学園都市へ向かう途中でござった。襲われた事情も、学園長殿から直接聞いた方がよかろう」


 男は黒い外套を見上げた。


 その胸元で、ハヅキ家の家紋と八咫烏の徽章が朝の光を受けていた。

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