黒紫の脈動
夜の皇国学園寮区は静まり返っていた。
東棟の廊下には等間隔に魔導灯が灯り、窓の外には中庭を囲む建物の影が落ちている。学生たちの多くはすでに自室へ戻り、行き交う者の姿もない。
その廊下を、1人の女性が音もなく歩いていた。
学園長室でアルディオンの傍らに控えていた女性だった。
足を止めたのは、フィアナ=オルフィスの部屋の前。
女性は周囲へ視線を巡らせてから扉へ手を伸ばした。鍵が掛かっていることを確かめ、しばらく錠へ触れていると、小さな音が鳴る。
扉を開けて室内へ入り、すぐに閉めた。
魔導灯は点けなかった。窓から差し込む月明かりだけを頼りに机へ近づき、引き出しを1つずつ確認していく。
目的の物は、ほどなく見つかった。細長い木箱だった。
蓋を開くと、黒い布の上に小さな薬瓶が並んでいる。女性はそのうちの1本を取り出し、月明かりへ透かした。
暗い紫色の液体が、瓶の中で揺れる。女性は懐から小さな透明の容器を取り出し、薬瓶の栓を外してごく少量だけ移した。
栓を戻して薬瓶を木箱へ収め、瓶の向きも箱の位置も元へ戻す。引き出しを閉じると、女性は一度だけ室内を見回した。
机の上には授業で使う筆記帳が重ねられ、衣装棚も閉じたままになっている。寝台にも触れた跡はない。
部屋を出る時には、入る前と何も変わっていなかった。
◇ ◇ ◇
学園の研究棟には、通常の授業では使われない分析室がいくつか設けられている。
その一室で、白衣を纏った男性が小さな容器を受け取った。
「これを?」
「調べてください」
学園長補佐の女性が答える。
「毒物、薬効成分、魔力反応。確認できるものは一通りお願いします」
「分かりました。結果は学園長へ?」
「直接報告してください」
男性は容器を魔導灯へかざした。
暗い紫色の薬液が、光を受けて鈍く透ける。
「何か、心当たりは?」
「ありません」
短い返事だった。
「だから調べるのです」
女性はそれだけ告げると、分析室を出ていった。
男性は閉じられた扉を見送り、改めて容器へ目を落とした。見たところ、ただの薬液にしか見えず、まずは通常の検査から始めることにした。
◇ ◇ ◇
翌朝、1年1組では、すでに最初の授業が始まっていた。
教師の説明を聞きながら筆記具を動かしていたテンカは、教室の扉が開く音に顔を上げた。
「失礼します」
入ってきたのはフィアナだった。
いつもの制服姿で、両手には白い手袋を着けている。
教師が手元の書類を確認した。
「医務室から連絡は受けています。席へどうぞ」
「ありがとうございます」
フィアナが教室へ入り、自分の席へ向かう。
テンカはその姿を目で追った。
歩き方におかしなところはない。鞄を机へ置く手にも、昨日の昼に見えたような遅れはなかった。
目が合うと、フィアナが小さく頷いた。テンカも頷き返して前へ向き直る。詳しい話は昼休みに聞かせてもらうつもりだった。
◇ ◇ ◇
「それで、どうだったのじゃ?」
昼休みになると、テンカは大食堂の卓へ座るなり尋ねた。
「朝まで医務室で経過を見ていただきました」
フィアナは白い手袋に覆われた右手を卓上へ置く。
「黒紫色の線は、昨夜確認した時から大きく変化していません。痛みも強張りもなく、朝の検査でも異常は見つかりませんでした」
「消えてはいないのですわね?」
エリシアが確認する。
「はい。線そのものは残っています」
「それで授業へ戻ってよいと言われたのですか?」
ミナが心配そうに尋ねた。
「座学への出席は許可されました。ただし、属性魔術は使わないように言われています。少しでも変化があれば、すぐに医務室へ戻るようにも」
「それならば、今日は実習があっても見学じゃな」
「はい」
テンカはフィアナの右手を見つめた。
白い手袋に隠れているため、黒紫色の線は見えない。
「見せてもらうことはできるか?」
「ここで、ですか?」
フィアナが周囲を見た。
大食堂には多くの学生がいる。卓の間を行き交う者も多く、手袋を外せば人目につく可能性があった。
「……ここではやめておいた方がよさそうじゃな」
「わたくしもそう思いますわ」
エリシアが頷いた。
「わざわざ周囲へ知らせる必要はありませんもの」
「寮へ戻ってからでしたら、お見せできます」
「うむ。それでよい」
ミナはフィアナの右手を見ながら、少し考えているようだった。
「黒紫色の線があるのに、魔力の検査では何も出ないんですよね?」
「はい」
「不思議ですね……」
そこでミナは口を閉じた。
「何か分かるのか?」
テンカが尋ねる。
「いえ。全然分かりません」
ミナは首を横へ振った。
「魔導具でしたら、回路や魔石を見れば考えられることもあります。でも、人の身体については私の知識では何とも言えません」
「分からぬなら、分からぬでよい」
テンカは腕を組んだ。
「医務室でも調べておるのであろう。わらわたちまで勝手に答えを作る必要はあるまい」
「そうですわね」
エリシアがフィアナへ目を向ける。
「ただし、昨日より少しでも変わったら、すぐに言うのですわよ」
「はい」
「痛みがなくてもじゃぞ」
「分かっています、テンカ様」
「強張りがなくてもですわ」
「分かっています、エリシア様」
「指が少し遅れただけでもです」
ミナまで加わった。
フィアナが3人を順に見た。
「……皆さん、同じことを言っています」
「大事なことだからじゃ」
「大事なことですもの」
「大事なことですから」
3人の声が続き、フィアナが目を瞬かせた。
やがて、その口元がわずかに緩む。
「分かりました。何かあれば、すぐに言います」
「うむ」
ようやくテンカも満足して、自分の昼食へ手を伸ばした。
エリシアが呆れたように息を吐く。
「テンカが一番安心した顔をしていますわね」
「何を言う。エリーも同じ顔をしておるぞ」
「しておりませんわ」
「していますよ」
ミナが答えた。
「ミナ?」
「す、すみません」
フィアナは3人のやり取りを聞きながら、静かにスプーンを手に取った。
今度は、指が遅れることもなかった。
◇ ◇ ◇
研究棟の分析室では、朝から続けられていた検査が一通り終わろうとしていた。
分析を担当する男性は、机の上に並べた記録を読み返した。既知の毒物に該当する反応はなく、薬として使われる成分はいくつか検出されているものの、特別珍しいものではない。腐食性もなく、少量を魔力測定器へ置いても目立った反応は示さなかった。
「これだけでは、何も分からないか……」
容器の底には、まだ暗い紫色の薬液が残っている。通常の検査結果だけなら、異常な薬とは言い切れない。
それでも、学園長から直接調査を命じられた品である。これだけで調査を終える気にはなれなかった。
男性は記録をめくり、薬を服用している学生について渡された最低限の情報へ目を通すと、火属性と水属性の記述で指を止めた。
「……属性魔力との反応は?」
これまで行ったのは、無属性の測定器を用いた魔力反応の確認だった。
男性は棚へ向かい、属性検査に使う赤い火属性の魔石と、青い水属性の魔石を取り出した。机の上へ2枚の浅い皿を並べ、それぞれに薬液を数滴落としてから、その中央へ魔石を置く。
しばらく様子を見たが、変化はなかった。
「違うか……」
男性が息を吐き、記録へ手を伸ばしかけた。
赤い魔石の光が、わずかに弱くなった。
「……?」
男性は手を止め、今度は青い魔石へ目を向けた。そちらも同じように、内側に宿っていた光が少しずつ薄れている。
代わりに、皿の上の薬液は暗い紫から、さらに深い黒紫へと濃さを増していた。男性は椅子を引き、顔を近づけた。
「魔力を……吸っている?」
赤い魔石から細い光が漏れ、薬液へ引き込まれていく。青い魔石も同じように光を失い、その代わりに黒紫色の薬液がゆっくりと揺れ始めた。
熱を加えたわけでも、風が吹いたわけでもない。それでも薬液は自ら中央へ集まり、粘りを増していく。やがて細い糸のようなものを何本も伸ばしながら、小さな黒紫色の塊へ変わった。もう一方の皿でも同じ変化が起こり、火属性の魔力を吸った塊には微かな赤い光が、水属性の方には青い光が残っている。
男性は息を呑んだ。少なくとも、通常の薬液とは違う。今、目の前にあるものを液体と呼ぶこともできなかった。
同じ学生が火と水の2属性を扱っている以上、2つの変質物を接触させた場合の反応も確かめておきたい。男性は長い器具を使って2つの皿をゆっくり近づけた。
皿の縁同士が触れるより先に、黒紫色の塊が動いた。
「な……」
火属性を取り込んだ塊から細い筋が伸びると、水属性を取り込んだ塊も応えるように筋を伸ばした。やがて2本が触れ、その瞬間、互いの筋が絡み合う。
異なる魔力を抱えた黒紫色の塊が、皿の上を這うように近づき、やがて2つの塊が接触し、境目が崩れた。
片方が片方を呑み込んだのではない。互いの表面が溶け合い、黒紫色の筋が複雑に絡みながら、1つの塊へ形を変えていく。内部には赤と青、2つの光が残ったままだった。
「なん……だ、これは……」
分析官の口から、掠れた声が漏れた。
その直後、黒紫色の表面がゆっくりと膨らみ、縮んだ。少し間を置いて同じ動きを繰り返す。
規則的ではない。それでも、まるで何かが脈を打っているように見えた。
分析官は椅子から立ち上がった。
「学園長に報告せねば……」
記録を掴み、脈動する黒紫色の塊へもう一度目を向ける。
その背後、魔導灯の光が届かない分析室の隅で、フードを深く被った何者かが、分析官の一連の作業を黙って見つめていた。
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