黒紫の兆し
フィアナが皇国学園寮区の中央棟へ着いた時、廊下には夜間用の魔導灯だけが灯っていた。
簡易医務室の扉を叩くと、ほどなくして夜間担当の医務教師が顔を出した。
「オルフィスさん?」
昼にも医務室を訪れたばかりだった。
「右手に、見慣れない変化が出ました」
「入ってください」
教師の声音が引き締まった。
フィアナは診察卓の前へ座り、右手の白い手袋を外した。手首の内側には、黒紫色の細い線が浮かんでいる。
「これは、いつ気づきましたか?」
「先ほどです。着替えるために手袋を外した時に見つけました」
「最初から、この長さでしたか?」
「いいえ。筆記帳へ記録してからもう一度見たところ、少し伸びているように見えました」
フィアナは持ってきた紺色の筆記帳を開いた。
『右手首の内側に黒紫色の線を確認。痛み、熱、強張りはありません』
教師は記録へ目を通し、魔導灯を右腕へ近づけた。黒紫色の線は皮膚の表面にできた傷ではなく、その下へ細く色が浮かんでいる。
「昼に確認した後、右手に変化はありましたか?」
「ありません。授業中も寮へ戻ってからも、問題なく動いていました」
「今は?」
「痛みも強張りもありません」
「右手を開いてください」
「はい」
フィアナは指を開き、そのままゆっくりと握った。途中で止まったり、引っかかったりすることはない。
教師は左右の手を順に確認し、握る力や指先の感覚に差がないかを調べていく。手首や腕にも触れたが、黒紫色の線がある場所だけ熱を持っている様子もなかった。
「痺れはありませんか?」
「ありません」
「触れられた感覚に、左右で違いはありますか?」
「感じません」
教師は棚から小型の測定具を取り出した。
フィアナは指示に従い、左手、右手の順に板状の器具へ手を置いた。表面に刻まれた目盛りへ淡い光が走り、身体を巡る魔力に合わせて細い針が揺れる。
教師は数値を記録した後、右手だけもう一度測定したが、結果は変わらなかった。
「今のところ、右手の動きや感覚に異常はありません。魔力の巡りにも、測定できる範囲では目立った乱れは出ていません」
教師は黒紫色の線へ視線を戻した。
「では、この線は何なのでしょうか」
「分かりません」
答えはすぐに返ってきた。
「目に見える変化が出ている以上、何も起きていないとは考えません。ただ、今の検査だけでは原因を判断できません」
フィアナも右腕を見た。
痛みはない。指も動く。測定にも異常は現れない。それでも黒紫色の線だけは、皮膚の下に残っている。
教師は紙へ右腕の簡単な図を描き、線が現れている位置と長さを書き込んだ。
「少し時間を置いて、もう一度見せてください。それまで右手は普段どおりにしていて構いません」
「分かりました」
フィアナは寝台へ腰を下ろした。
しばらくして再び右腕を確認したが、黒紫色の線がさらに伸びた様子はなかった。
「今のところ、長さは変わっていませんね」
教師は記録へ書き加えようとして、ふと手を止めた。
「そういえば、フィアナさんはご実家から届いている薬を飲んでいると仰っていましたね」
「はい」
「よろしければ、その薬を確認させてくれませんか」
フィアナは一瞬、答えに迷った。
「申し訳ありません。家から送られているものですので、私の判断だけでお渡しすることはできません。確認してからでもよろしいでしょうか」
「分かりました。では、ご実家へ確認が取れてからで構いません」
教師はそれ以上求めなかった。
「ただ、今夜はここで様子を見ましょう。先ほどは線が伸びたように見えたとのことですから、もう変化しないと確認できるまでは戻さない方がよいでしょう」
「分かりました」
「明日の授業についても、朝の状態を見てから判断します」
「はい」
教師は診療記録を閉じる前に、もう一つ付け加えた。
「それから、原因が分かるまでは属性魔術の使用も控えてください。火属性だけでなく、水属性もです」
「分かりました」
以前なら、右手が動くことを理由に授業へ出たいと申し出ていたかもしれない。今は、そこまでして急ぐ必要を感じなかった。
「不安ですか?」
フィアナは黒紫色の線を見た。
「分からないことが多いとは思います。ですが、今は報告できています。調べていただくこともできます」
「ええ。そのための医務室です」
教師は壁際の寝台を示した。
「今夜はこちらで休んでください。また変化があれば、すぐに呼んでください」
「はい」
白い手袋を外したまま寝台へ腰を下ろし、右手を開いて握る。黒紫色の線は消えていないが、指は今も思いどおりに動いた。
◇ ◇ ◇
夜も更けた頃、医務室の担当教師は皇国学園の学園長室を訪れていた。
机の向こうには、白髪を後ろへ撫でつけた老人が座っている。深い紺色の長衣を纏い、その傍らには細身の杖が立てかけられていた。
皇国学園学園長、アルディオン=グランディス。
大陸でもごくわずかな者しか持たない、《賢者》の称号を有する1人だった。
その斜め後ろには、学園長補佐を務める女性が静かに控えている。
「遅い時間に申し訳ありません」
「構いません。この時間に報告へ来たということは、明日まで待つべきではないのでしょう」
アルディオンは差し出された記録を手に取った。
『昼食時に右手からスプーンを落とした。昼の確認では異常は見つからず、夜になって右手首の内側に黒紫色の線が現れ、発見後にわずかに伸びた可能性がある。』
「現在は?」
「線の長さに変化はありません。運動、感覚、皮膚温にも異常はなく、魔力の巡りにも測定できる範囲では目立った乱れがありません」
「目に見える異常はある。それ以外は正常ということですか」
「はい」
長く医務に携わり、魔術による負傷も、魔力巡路の障害も見てきた。これまで見てきた症例のどれにも、今回の症状はうまく当てはまらなかった。
「気になっていることはありますか?」
「1つだけ」
教師は言葉を選んだ。
「オルフィスさんは、以前から実家より届く薬を服用しています」
「その薬について、何か分かっているのですか?」
「いいえ。本人から服用していると聞いているだけで、中身は確認できていません」
アルディオンが記録から顔を上げる。
「今夜、見せてもらえないか尋ねました。しかし、家へ確認しなければ自分の判断では渡せないと」
「なるほど」
「薬が原因だと断定するつもりはありません。ただ、こちらで内容を確認できていないものとして気になっているのが、その薬です」
学園長室が静かになった。
アルディオンはしばらく記録を読み返していた。
「オルフィスさんは、今夜も医務室に?」
「はい。朝まで経過を見ます。属性魔術の使用も止めました」
「それでいいでしょう」
アルディオンは記録を机へ置いた。
「本人が薬を渡せないと言うのも理解できます。家から預けられたものを、勝手に他者へ渡すわけにはいかないのでしょう」
教師が頷いた。
「ですから、本人にこれ以上求める必要はありません」
アルディオンの視線が、傍らに控えていた女性へ向いた。
「薬を調べてください」
「承知しました」
教師がわずかに目を見開いた。
「学園長?」
「オルフィスさんが学園に滞在している間、彼女の安全を守る責任はこの学園にあります」
アルディオンの声は穏やかなままだった。
「何もなければ、それで結構。しかし、確認を怠ったまま事態が悪化したのなら、それは我々の責任です」
「ですが、ご本人にもオルフィス家にも許可を取らずにとなると……」
「全責任は私が負います」
迷いのない返事だった。
アルディオンは学園長補佐へ向き直る。
「必要なのは調査に足る量だけです。薬そのものに問題があるかどうかを確認してください」
「かしこまりました」
女性はそれ以上尋ねなかった。
アルディオンは再び、黒紫色の線が描かれた右腕の図へ目を落とした。
「原因が何であれ、手遅れになってからでは遅い」
学園長補佐の女性が静かに一礼する。
そのまま踵を返し、足音をほとんど残さず学園長室を出ていった。
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