落ちた匙
午前の授業を終えると、テンカたちは学園の大食堂へ向かった。
昼時の食堂は学生たちで混み合っている。長い卓の間を給仕が行き交い、焼いた肉や煮込み料理の匂いに、あちこちから上がる話し声が重なっていた。
「今日は何にするのじゃ?」
入口近くに掲げられた献立を見上げながら、テンカが尋ねる。
「朝から決めていましたわ」
エリシアは迷わず冷製の魚料理を選んだ。
「また冷たい物か」
「昼食くらい好きな物を選ばせてくださいませ」
「止めてはおらぬ。ただ、本当に好きじゃなと思っただけじゃ」
「テンカ様は昨日も肉料理でしたよね」
ミナが献立とテンカを交互に見る。
「肉はよい。身体を動かす者には必要じゃ」
「それでしたら、野菜も必要ですわよ」
「食べておるぞ」
「添えられている物を仕方なく、でしょう?」
「腹に入れば同じじゃ」
「同じではありませんわ」
エリシアに言い切られ、テンカは不満げに眉を寄せた。
フィアナはその横で、野菜と鶏肉を煮込んだ料理を選んでいた。
「フィアナもエリー側か?」
「何の話でしょうか」
「野菜を食べよという話じゃ」
「必要な栄養は取った方がよいと思います」
「ほら、ご覧なさい」
「なぜエリーが勝ち誇るのじゃ」
ミナが笑いをこらえながら、4人で座れる席を探し始めた。
窓際の卓が空いたところで、テンカたちは並んで腰を下ろした。授業の話や午後の予定を交わしながら、それぞれ食事を進めていく。
「そういえば、昨日の歴史学ですけれど」
ミナがパンをちぎりながら顔を上げた。
「ダルトン公爵家が魔導列車の導入を推進したという話、もう少し調べてみたいんです」
「わらわもじゃ」
「そこだけは本当によく覚えていますのね、2人とも」
「重要な歴史であろう」
「重要なのは否定しませんけれど、ホルデウス様の建国より目を輝かせていたのはどうかと思いますわ」
「魔導列車は今も走っておるからのう」
「分かります。古い記録を読むと、初期型は今よりずっと魔石の消費が大きかったらしくて」
「ほう」
ミナが話し始めると、テンカはすぐに身を乗り出した。
「また始まりましたわね」
エリシアが呆れたように息を吐く。
フィアナもわずかに口元を緩め、煮込み料理のスプーンへ右手を伸ばした。
その時だった。
指先が、スプーンの柄を掴み損ねた。硬い音を立てて、スプーンが床へ落ちる。
フィアナが右手へ目を落とした。
「フィアナ?」
テンカも会話を止めた。
「失礼しました。手が滑ったようです」
フィアナは椅子を引こうとしたが、先にミナが床のスプーンを拾い上げた。
「新しいものを持ってきます」
「ありがとうございます」
ミナが給仕へ声をかける。
テンカはフィアナの右手から目を離さなかった。
スプーンが滑っただけなら、珍しいことではない。それでも、落ちる直前の動きが引っかかった。
柄を掴もうとした指が、ほんの一瞬だけ遅れていた。
「フィアナ。右手を見せよ」
「右手ですか?」
フィアナが手袋に覆われた手を持ち上げる。
「開いてみよ」
言われたとおり、フィアナは指を開いた。
「次は握れ」
右手の指が掌へ曲がる。途中で止まることも、以前のように強張る様子もない。
「痛みは?」
「ありません」
「痺れはどうじゃ」
「それもありません。動かしにくさも感じません」
フィアナはもう一度、指を開いてみせた。
エリシアも向かいからその動きを確かめる。
「念のため、医務室へ報告した方がよいのではありませんか?」
「はい。午後の授業が終わった後に寄ります」
「今からでもよいぞ」
テンカが言うと、フィアナは少し考えてから首を横へ振った。
「今は痛みも強張りもなく、指も問題なく動いています。午後の授業で少しでも違和感があれば、その時点ですぐに医務室へ行きます」
「……うむ。無理はするでないぞ」
「はい」
ミナが新しいスプーンを持って戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
フィアナは右手で受け取った。今度は問題なく柄を握り、煮込みをすくって口へ運ぶ動きにも不自然なところはなかった。
テンカはしばらくその手を見ていたが、やがて自分の皿へ視線を戻した。
「テンカ」
エリシアが小声で呼ぶ。
「何じゃ」
「気になるのです?」
「少しな」
テンカは声を落とした。
「落としたことではない。掴む時の指が、わずかに遅れたように見えた」
「わたくしには分かりませんでしたわ」
「わらわの見間違いなら、それでよい」
エリシアはフィアナへ視線を向けた。向かいでは、ミナと話しながら普通に食事を続けている。
「医務室へ報告すると言っていますもの。今は、それでよいでしょう」
「うむ」
そう答えたものの、テンカの中には小さな引っかかりが残った。
◇ ◇ ◇
午後の授業では、何も起こらなかった。
フィアナは右手で筆記具を持ち、普段どおりに授業内容を書き留めていた。頁をめくる時も、鞄の留め具を外す時も、指の動きが遅れる様子はない。
授業後には、約束どおり医務室へ立ち寄った。
昼食時にスプーンを落としたことを伝え、両手の動きや握る力を確認してもらう。その時点では痛みの訴えはなく、強張りも確認されなかった。
「同じ症状が出た場合や、感覚に変化があればすぐに来てください」
「分かりました」
そのまま寮へ戻るまで、右手に変化はなかった。
◇ ◇ ◇
夜、フィアナは自室で翌日の準備を終えると、机の上に広げていた筆記帳を閉じた。
昼食時にスプーンを落としたことも、医務室で確認された内容も記録してある。
『昼食時、一時的に右手の動きが遅れ、スプーンを落としました。医務室での確認時には異常なし』
職員から聞いた所見を読み返し、筆記具を置いた。
その後に症状は出ていない。今後も何か変化があれば、すぐに報告するよう言われている。
フィアナは立ち上がり、着替えるために右手の白い手袋を外した。
そこで手が止まった。
右手首の内側に、見慣れない色があった。
「……?」
魔導灯の近くへ腕を寄せる。
皮膚の下に、細い黒紫色の線が浮かんでいた。手首から腕の内側へ向かって伸びている。傷のように皮膚が裂けているわけではなく、腫れてもいない。
フィアナは左手の指先で、その上をそっと押した。
痛みも熱もなく、右手を開いて握ってみても、昼食時とは違って指は思いどおりに動いた。それでも、これまで右腕にこのような色が現れたことはない。
フィアナは机へ戻り、筆記帳を開いた。
『右手首の内側に黒紫色の線を確認。痛み、熱、強張りはありません』
そこまで記し、右腕をもう一度確かめる。
これは医務室へ報告するべきだろう。フィアナは白い手袋へ手を伸ばしかけ、もう一度黒紫色の線を見た。
先ほどよりも、腕の内側へわずかに長く伸びているように見える。明日の朝まで待つべきではない。
フィアナは白い手袋をはめ直し、すぐに部屋を出た。
評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!




