皇国のはじまり
《歴史学》の授業が始まると、教師は教卓の後ろに大きな地図を広げた。
現在のファールン皇国と周辺諸国が描かれ、その南には広大な《悠久なる大魔境》が塗り分けられている。
「今回は《歴史学》のうち、ファールン皇国の成り立ちについて扱います」
教師は学生たちを見渡した。
「すでに家庭教師などから教わっている方もいるでしょう。その場合は復習のつもりで聞いてください」
貴族家の子弟が多い教室では、何人かが当然のように筆記具を構える。
テンカも筆記帳を開きながら、改めて地図へ目を向けた。
「まず、現在ファールン皇国が存在するこの地ですが、かつてはその大半が《悠久なる大魔境》の一部でした」
教師の指が、皇国南方から中央へ向かって地図の上を滑っていく。
「当時、この一帯には《ウォラートル》と呼ばれる大悪魔が存在していたと伝えられています。古い言葉で『喰らう者』を意味する名です」
教室が少し静かになった。
「《ウォラートル》は周辺諸国へ侵攻を繰り返し、いくつもの国を滅ぼしました。人が暮らしていた土地も魔境へ呑み込まれ、やがて小国アルトゥールにもその脅威が迫ります」
教師は地図の中央付近へ指を移した。
「アルトゥールもまた、滅亡は時間の問題と見られていました。その時に現れたのが、後にファールン皇国の初代皇帝となるホルデウス様です」
筆記具の動く音が重なる。
「当時のホルデウス様は王族でも、一国の将軍でもありませんでした。仲間たちと傭兵団を結成し、各地を巡りながら魔物と戦っていたと伝わっています」
テンカは筆記具を動かしながら、その部分で少しだけ顔を上げた。
傭兵団を率いて魔物と戦っていた男が、やがて国を築く。
改めて聞くと、随分と壮大な人生である。
「ホルデウス様とその仲間たちはアルトゥールへ入り、国軍とともに《ウォラートル》へ挑みました。戦いは長く激しいものだったとされますが、最終的に《ウォラートル》は討たれます」
教師の指が、再び地図を南へ滑った。
「その後、ホルデウス様たちは《ウォラートル》が支配していた土地の開拓を進めました。そしてアルトゥール王家の姫を皇妃として迎え、旧アルトゥール領と新たに開拓した土地を合わせて建国されたのが、現在のファールン皇国です」
現在の皇国領を示す線が、地図の上を大きく囲んでいる。
南の果てには、今なお《悠久なる大魔境》が残っていた。
そこを守るのが、今のハヅキ家である。
「ここまでは、皇国で広く教えられている建国史です。ただし、当時については現在も研究者によって見解の分かれる部分があります」
教師の言葉に、何人かの学生が顔を上げた。
「皇室に残る歴史書では、ホルデウス様は正義と審判の女神《ユースティア神》の加護を受けていたとされています」
教師はそこで一度言葉を切った。
「一方、神聖国家リヒテンの古代派と呼ばれる学者たちは、この記述を否定しています」
教室のあちこちから小さな声が漏れた。
「先生。それは、神の加護がなかったということですか?」
学生の1人が尋ねた。
「古代派の主張はそうです。ただし、これは現在も決着していない歴史上の論争です。皇国側は加護の存在を正史としており、リヒテンの古代派は当時の史料からは証明できないとしています」
「では、どちらが正しいのでしょうか」
「それを調べ、考えるのも歴史学です」
教師は穏やかに答えた。
「なお、この問題を巡る両国の対立は今も続いており、ファールン皇国はリヒテンの古代派に属する学者たちの入国を認めていません。この件については、いずれ周辺諸国との関係を扱う際に改めて学びます」
テンカは筆記帳へ書き留めながら、少しだけ眉を上げた。
遥か昔の英雄に神の加護があったかなかったか。
それだけの違いが、今を生きる者の往来にまで影響していた。
歴史とは、思っていた以上に後を引くものなのだ。
「さて。《ウォラートル》を討ったのは、もちろんホルデウス様お一人ではありません」
教師が話を進めた。
「傭兵団を旗揚げした頃からホルデウス様と行動をともにし、建国まで戦い抜いた6人の仲間がいました。彼らとその家系は、後に皇国の六大貴族として名を馳せることになります」
その言葉に、テンカの筆記具が止まった。
「この教室にも、そのご子孫がいらっしゃいますね」
教師の視線が教室を巡った。
「北方を守った《レギナ=フロストレイン》様。そして、南方へ赴いた《リンネ=ハヅキ》様」
教室の視線が、エリシアとテンカへ集まった。
「……なぜ皆、わらわを見るのじゃ」
「先生が今、あなたのご先祖様のお名前を挙げたからでしょう」
エリシアは平然と答えた。
「それくらい分かっておる」
「でしたら聞かなくてもよろしいのではなくて?」
「視線が多すぎると言うておるのじゃ」
周囲から小さな笑いが起こった。
教師もわずかに口元を緩めてから、話を続けた。
「もちろん、六大貴族の役割は建国当時から変化しています。例えばダルトン公爵家は、現在では魔導工学分野で皇国随一ともいわれる家です。魔導列車の導入を強く推進したことでも知られていますね」
「魔導列車」
思わずテンカの口から声が漏れた。
隣では、ミナまでぱっと顔を上げている。
「……そこだけ反応が露骨ですわよ、2人とも」
「仕方あるまい。魔導列車じゃぞ」
「魔導列車ですよ」
テンカとミナの声が重なった。
エリシアは小さく息を吐いた。
「歴史の授業ですわ」
「ちゃんと聞いておる」
「私もです」
ミナが真面目な顔で答える。
教師は咳払いをひとつして、再び六大貴族の話へ戻った。
テンカも筆記帳へ視線を戻した。
ホルデウスとともに《ウォラートル》を討った6人のうちの1人が、ハヅキ家の始祖リンネである。
―ふぅむ。改めて考えてみれば、リンネ様は東方出身にもかかわらず、メイド服に並々ならぬこだわりがあったとハヅキ家には伝わっておる。もしや……。
授業終了を告げる鐘が鳴った。
◇ ◇ ◇
夕刻、フィアナが寮へ戻ると、東棟の受付で見覚えのある木箱を渡された。送り主はオルフィス子爵家で、これまでにも何度か届いている定期薬と同じ箱だった。
フィアナは受取簿へ署名し、自室へ持ち帰った。
机の上へ木箱を置き、封を確かめてから蓋を開ける。中には薬瓶が収められており、液体の色も前回届いたものと変わらない。
フィアナはそれを引き出しへしまった。
服用時刻には、まだ少し早い。
先に机へ向かい、父へ送る報告を書き始める。
先日の測定では、水属性を低出力で使用した後に十分な休息を取り、その後で火属性を確認した。どちらも指定された出力まで正常に到達し、痛みや強張りは出ていない。
火属性については、引き続き学園側から使用を制限されていることも記した。
そこで筆記具が止まる。
調整された定期薬を服用するようになってから、水術の制御は安定している。火属性を使った際にも、以前のような抵抗はなかった。
フィアナはその事実も報告へ加えた。
書き終えた便箋を脇へ寄せると、その下から紺色の筆記帳が覗いた。
先日、自分で選んで買ったものだ。
手に取って表紙を開くと、最初の頁には、日付とともに自分の文字が残っていた。
『次は、焼き菓子の店へ行く。私から皆さんを誘う』
まだ誘えておらず、どの店へ行くのかも決めていない。
フィアナは頁を見つめ、焼き菓子の店についてもう少し調べてみようと考えた。
その時、窓の外から鐘の音が聞こえてきた。
服用の時刻になり、フィアナは筆記帳を閉じて引き出しから薬瓶を取り出した。栓を外し、かすかな金属の匂いがする濃い薬液を口へ含む。舌に残る苦みごと水で流し込んだ。
右腕の内側に熱が走ったが、以前のように広がり方や指の動きを確かめようとは思わなかった。水属性も火属性も使え、学園での測定でも異常は出ていない。
熱はほどなく薄れ、フィアナは薬瓶に栓をして引き出しへ戻した。
その時、扉が叩かれた。
「フィアナ。食堂へ行きますわよ」
エリシアの声だった。
「はい。今行きます」
フィアナは席を立つ。
扉を開けると、廊下ではエリシアとテンカが待っていた。
「遅いぞ、フィアナ。腹が減った」
「テンカが早すぎるのですわ」
「夕餉を早く食べて何が悪い」
「まだ食堂へ着いてもいませんでしょう」
2人のやり取りを聞きながら、フィアナは扉を閉めた。
「行きましょう」
3人で並び、食堂へ向かって歩き出した。
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