必要ではないもの
授業を終えた学生たちが帰り支度を始める中、ミナは机の上へ広げていた筆記帳を閉じた。
「今日は商業区へ寄ってから寮へ戻ります」
鞄へ筆記具を収めるミナに、エリシアが顔を向ける。
「何か買う物がありますの?」
「魔導工学の授業で使う紙が少なくなってきたので、補充しておこうと思いまして。細い線を書ける筆記具も見ておきたいです」
「わらわも行くぞ」
テンカが迷いなく答えた。
「テンカ様も、何か必要なのですか?」
「特にはない」
「では、どうしてです?」
「行ってから探せばよかろう」
ミナが目を瞬かせる。その横で、エリシアは慣れた様子で小さく息を吐いた。
「テンカの場合、必要な物を探すのではなく、食べたい物を見つけることになりそうですわね」
「商業区にうまい物があるならば、確かめる必要がある」
「それを必要とは申しませんわ」
フィアナは机の中を確かめた。
授業で使う紙には余裕がある。筆記具も予備まで揃っており、寮の部屋で不足している物も思い当たらない。
「私は先に寮へ戻ります」
鞄を持ち上げると、テンカがこちらを見た。
「フィアナは来ぬのか?」
「買う物がありませんので」
「買わねば街を歩けぬわけではあるまい」
「ですが、私が同行する理由がありません」
「友人と出かけるのに、理由が必要ですの?」
エリシアから尋ねられ、フィアナはすぐに答えられなかった。
授業や共同実習なら、それぞれに役割がある。迷宮へ入る時も、誰が何を担当するかを決めてから動く。
買い物に同行するだけならば、自分が担うべき仕事はない。
「荷物を持つことはできます」
「自分で持てないほど買う予定はありません」
ミナが困ったように笑った。
「店で紙を選ぶ時に、意見をいただけると助かります。でも、それを役割だと思わなくても大丈夫です」
「わらわたちと歩くだけでよい。用事なら、途中で見つかるかもしれぬぞ」
「見つからなければ、それまでですわ」
3人の言葉に、断るべき理由は残っていなかった。
「……分かりました。御一緒します」
そう答えると、テンカが満足そうに頷いた。
「うむ。最初からそう言えばよい」
「テンカが強引に連れていく形になっただけですわ」
「フィアナは了承したぞ」
「断りにくくしたのは、どなたでしょうね」
「エリーも加わっておったではないか」
言い合いながら教室を出る2人を、ミナが追いかける。
フィアナも鞄を持ち、3人の後に続いた。
◇ ◇ ◇
学園都市の商業区には、学生向けの店が数多く並んでいた。
制服の仕立て直しを受け付ける衣料品店や、演習用の武具を扱う店。魔導具工房の店先では、小型の魔力灯や温度を保つ水筒が並び、実演も行われている。
大通りの奥へ進むと、紙と筆記具を扱う店が見えてきた。
「ここです」
ミナが足を速める。
店へ入った途端、棚に並ぶ紙束へまっすぐ向かった。厚さや色の異なる紙を一枚ずつ取り、指先で表面を確かめていく。
「ずいぶん種類があるのじゃな」
テンカが棚を見上げる。
「術式を書く紙は、線が滲まないことが大切なんです。魔力を流して確認する場合は、紙そのものの繊維も揃っていた方がよくて……こちらは丈夫ですが、少し表面が粗いですね」
ミナは紙を光へ透かし、次の束を手に取った。
「こちらは線を書きやすそうです。でも、何度も折ると端が傷むかもしれません」
「授業で使うのであれば、持ち運ぶことも考えた方がよいのではありませんか」
フィアナが紙束の端を見比べる。
「こちらの方がわずかに厚く、繊維の向きも揃っています。枚数は少なくなりますが、折った際の傷みは抑えられると思います」
「本当です」
ミナが紙を軽く曲げ、目を輝かせた。
「見た目はほとんど同じなのに、よく分かりましたね」
「オルフィス家へ送る報告には、長く保管できる紙を使っていました。その時に教わっただけです」
「では、こちらにします。ありがとうございます、フィアナ様」
「お役に立てたのであれば、よかったです」
ミナが紙束を選ぶ間、エリシアは便箋が並ぶ棚を見ていた。
淡い青の縁取りが施された品を手に取り、紙質を確かめている。
「エリシア様も、便箋が必要なのですか?」
「ええ。北方へ送る手紙に使いますの。寮にも残っていますけれど、こちらの方が夏らしくてよいでしょう?」
「用途ではなく、季節で選ぶのですか?」
「手紙を受け取った者が、少しでも季節を感じられるように選ぶこともありますわ」
「内容が正確に伝われば、紙の意匠は関係ないように思います」
「フィアナらしい答えですわね」
エリシアは便箋を棚へ戻さず、そのまま購入する品に加えた。
少し離れた場所では、テンカが布製品の棚を眺めている。
「これなら鍛錬の後にも使えそうじゃな」
手にしているのは、吸水性の高い厚手の手拭いだった。
「結局、必要な物を見つけましたのね」
「使い道がある物を見つけたのじゃ」
「その違いは何です?」
「見つける前から必要だったか、見つけてから必要になったかの違いじゃな」
「ずいぶん都合のよい理屈ですわね」
フィアナは3人が選んだ品を見渡した。
ミナの紙には明確な用途がある。テンカの手拭いも、鍛錬後に使える。エリシアの便箋も、手紙を送るための物だった。
自分には、やはり必要な物がなかった。
店内を回りながら、筆記具や封筒の残量を思い出す。どれも不足していない。
出口へ向かおうとした時、棚の隅に並んだ小さな筆記帳が目に留まった。
普段授業で使っている物よりも小さく、片手で持てる程度の大きさだった。表紙には布が張られ、角を守るための小さな金具が取りつけられている。
色は深緑、紺、赤茶、薄灰色。
フィアナは紺色の一冊を手に取った。
頁を開くと、紙は薄いものの目が細かく、筆記具の先が引っかかることもなさそうだった。ただ、授業の内容をまとめるには小さく、報告書や正式な記録を残す用途にも向いていない。
使い道が思いつかず、棚へ戻そうとする。
「気になりますの?」
背後から声をかけられ、振り返った。
エリシアがフィアナの手元を見ている。テンカとミナも、選んだ品を持って近づいてきた。
「小さな筆記帳です。ですが、授業で使うには頁が足りません」
「授業以外に使えばよいのではありませんか?」
「報告書には向いていません。記録を保管するなら、もっと大きく丈夫な物を選ぶべきです」
「では、授業にも報告にも使わなければよいのですわ」
「何を書くのでしょうか」
「それをわたくしに尋ねますの?」
エリシアの問いに、フィアナは筆記帳へ視線を落とした。
書くべき内容が決まっていない物を買う理由はない。必要になった時に、用途に合った物を選べばよい。
「ミナなら、何に使いますか?」
「思いついた術式回路や、工房で見つけた部品を書き留めます。大きな筆記帳を出せない場所でも使えそうです」
「エリーならば、行きたい店でも書くのではないか?」
テンカが言うと、エリシアは眉を上げた。
「なぜ、わたくしが遊ぶことしか考えていないような言い方をしますの?」
「先日も、わらわを何軒連れ回したと思うておる」
「テンカも楽しんでいたでしょう?」
「否定はせぬ」
2人のやり取りを聞きながら、フィアナは筆記帳の頁をもう一度めくった。
何を書くかは決まっていない。
それでも、棚へ戻そうとすると、指がすぐには離れなかった。
「フィアナ」
テンカが筆記帳を指す。
「そなたは、それが欲しいのか?」
「必要かどうかを考えています」
「わらわが聞いたのは、欲しいかどうかじゃ」
「同じことではないのですか?」
「違いますわ」
エリシアが静かに答えた。
「必要な物は、なくては困る物です。欲しい物は、持っていたいと思った物でしょう?」
「使い道がなくても、ですか?」
「買ってから使い道を考えてもよいではありませんか」
「エリーにしては、よいことを言う」
「余計な一言を加えないでくださいませ」
フィアナは紺色の表紙を指でなぞった。
必要な理由は、まだ見つからない。
それでも、この紺色を棚へ戻したくないと思っていた。
「……これにします」
口にしてから、もう一度筆記帳を見る。
エリシアが目元を和らげ、ミナも嬉しそうに頷いた。
「紺色がよく似合うと思います」
「筆記帳に、似合うという判断があるのですか?」
「持つ人に合う色はあると思います」
「では、それも選ぶ理由になるのでしょうか」
「十分ですわ」
フィアナは筆記帳を持って会計へ向かった。
自分の財布から硬貨を出し、代金を支払う。包まれた筆記帳を受け取っても、鞄の中へすぐには入れなかった。
必要な物を買った時とは、少し違う。
何に使うか決まっていないのに、手元に置いておきたいと思った。
◇ ◇ ◇
店を出ると、通りには焼いた生地の甘い香りが漂っていた。
露店では、薄く焼いた菓子に果実の蜜を塗り、細く巻いた物を売っている。
「ほれ。やはり、確かめる必要がある物が見つかったではないか」
テンカが露店を指した。
「最初から、こちらが目的だったのではありませんか?」
「店へ入る前には知らなんだ。見つけたから必要になったのじゃ」
「先ほどの手拭いと同じ理屈ですわね」
テンカは気にした様子もなく、4人分の菓子を注文した。
「テンカ様、私の分までよろしいのですか?」
「今日はわらわが誘ったのじゃ。構わぬ」
「ですが」
「次にそなたが誘う時、行き先を選べばよい」
フィアナは返事に詰まった。
「私が、ですか?」
「うむ。今日のように、行きたい場所を決めればよい」
「行きたい場所……」
露店の主人から紙に包まれた菓子を受け取る。
一口かじると、表面はわずかに香ばしく、中には甘酸っぱい果実の蜜が広がった。
「おいしいです」
「そうであろう」
なぜかテンカが得意そうに胸を張る。
「テンカが作ったわけではありませんわ」
「見つけたのはわらわじゃ」
「店は最初からここにあります」
「細かいことを気にするでない」
ミナが笑いながら、フィアナの持つ包みへ目を向けた。
「新しい筆記帳には、最初に何を書くのですか?」
「まだ決めていません」
「今日買った物の記録でしょうか」
「それでは、いつもの記録と変わりませんわ」
エリシアが菓子を一口食べてから続ける。
「次に行きたい場所を書くのはいかがです?」
「次に行きたい場所……」
フィアナは通りの先を見た。
書店、衣料品店、魔導具工房。細い路地の奥には、焼き菓子を並べた小さな店の看板も見える。
これまでは、必要な店だけを選んで歩いていた。目的の物を買えば、そのまま寮へ戻っている。
「次も、御一緒してよいでしょうか」
尋ねると、3人がこちらを見た。
声に出してから、許可を求めるような聞き方になっていたことに気づく。
「当然じゃ」
「わざわざ確認することではありませんわ」
「私も、また御一緒したいです」
ミナが答える。
エリシアは少し考えるように指を頬へ添えた。
「次は、フィアナから誘ってくださってもよいのですわよ」
「私から……」
「行きたい場所を見つけて、わたくしたちへ声をかけるだけです」
「役割や理由は必要ありませんか?」
「必要ありませんわ」
「焼き菓子の店ならば歓迎するぞ」
「テンカは食べ物から離れてくださいませ」
「フィアナが選ぶのであれば、どこでも構わぬと言うておる。その店にうまい物があれば、なおよいだけじゃ」
フィアナは手にしていた包みを見下ろした。
果実の蜜が入った菓子は、すでに半分ほどになっている。
新しい筆記帳に書く内容が、ひとつだけ浮かんだ。
◇ ◇ ◇
寮の自室へ戻り、机の上へ紺色の筆記帳を置いた。
包みを外して表紙を開くと、何も書かれていない白い頁が現れる。
フィアナは筆記具を手に取り、最初に今日の日付を記した。
続けて、訪れた店と購入した品を書こうとして、手を止める。
これは授業の記録ではない。父へ送る報告でもなかった。
エリシアから言われたとおり、書くべき内容を誰かに決められているわけでもない。
少し考え、日付の下へ筆記具を走らせた。
『次は、焼き菓子の店へ行く。私から皆さんを誘う』
書き終えた文字を読み返す。
日程も、店も、まだ決まっていない。約束として交わしたわけでもなく、授業や報告に必要な予定でもなかった。
それでも、フィアナは文字を消さず、紺色の筆記帳を静かに閉じた。
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