痛みの消えた手
次の《基礎魔術学》では、術の出力と停止を確かめる実習が行われていた。
実習室には腰ほどの高さの石台が並び、その上に課題ごとの器具が置かれている。属性魔術を扱える学生は、自分の適性属性に合わせた課題へ取り組み、まだ現象化に至らない学生は、魔力灯へ一定量の魔力を流す基礎制御を行う。
火、水、風、土。学生によって扱う属性は違っても、求められることは同じだった。
定められた出力で術を発動し、維持し、確実に止める。
フィアナの前には、内側に細い線が刻まれた浅い石器が置かれていた。
「オルフィスさんは、医務室からの指示どおり水属性のみです」
担当教員が記録板を確認する。
「出力は最低段階。器の線まで水を満たし、10を数える間維持した後、術を停止してください。痛みや強張りが出た場合は、すぐに申告すること」
「はい」
フィアナは右手の指を軽く曲げた。
授業が始まってからも、痛みや強張りは出ていない。昨夜飲んだ定期薬の効果は、今も続いているようだった。
少し離れた石台では、エリシアが薄い氷板を作っていた。表面の厚さを均一に保ったまま形を崩し、器の中へ水として戻していく。
ミナは小型の魔力灯へ手を添え、光の強さを一定に保っている。大きく明滅させることなく、弱い光を長く維持する課題らしい。
テンカはすでに別の石台で五行の基礎制御を終え、教員の確認を受けていた。
「次、オルフィスさん」
名前を呼ばれ、フィアナは石器の前へ進んだ。
左手を器の上へかざす。
これまでは、水の魔脈へ魔力を通すたび、身体の奥に細い抵抗が生じていた。狭い道へ無理に水を押し込むような、わずかな引っかかり。
その感覚がない。
フィアナが魔力を流すと、掌の下に水が生まれた。
澄んだ水が細い流れとなり、石器へ注がれていく。水面は大きく揺れることなく、内側に刻まれた線へ近づいた。
フィアナは出力を絞る。
水の勢いが弱まり、指定された線でぴたりと止まった。
「そのまま維持してください」
担当教員が数を読み上げる。
フィアナは水面を見つめた。
術を維持しても、右手にも腕の内側にも、これまでの異常は現れなかった。
「……9、10。停止」
フィアナは水術を止めた。
掌の下から水の流れが消える。石器に満たされた水は、指定線をわずかにも越えていなかった。
フィアナは左手を下ろし、右手の指を開いた。
一度曲げ、伸ばす。
引っかかりはない。
「状態を報告してください」
「痛みはありません。右手の指にも、強張りは確認できません」
「もう一度、指を動かしてください」
フィアナは教員から見えるように右手を持ち上げ、人差し指と中指を順に曲げた。
担当教員は指の動きを確認し、記録板へ筆記具を走らせる。
「本日の水術使用後には異常なし。ただし、1度の結果だけで回復したとは判断しません。今日の実習はここまでです」
「はい」
もう一度使えば、同じ結果になるだろうか。
確かめたい気持ちはあった。それでも、フィアナは石器の前から離れた。
異常が出なかったからといって、続けて術を使う必要はない。教員がここまでと判断したのなら、それに従うべきだった。
席へ戻ると、先に課題を終えていたテンカたちが集まってきた。
「フィアナ様、指定線からほとんどずれていませんでした」
ミナが石器と記録板を交互に見る。
「水を止めた後の残留魔力も少なかったと思います。前より制御が安定しているのではないでしょうか」
「私も、以前より扱いやすく感じました」
「痛みがなかったのはよいことですわ」
エリシアはフィアナの右手へ視線を落とした。
「けれど、医務室への報告は必要ですわよ。授業中に異常が出なかったからといって、後から症状が現れないとは限りませんもの」
「はい。今日の記録と合わせて報告します」
フィアナが答えると、エリシアは満足そうに頷いた。
テンカは腕を組み、石器に満たされた水を見つめていた。
「フィアナ」
「はい、テンカ様」
「本当に、痛みはないのじゃな?」
「ありません。右手も問題なく動きます」
フィアナは右手を開き、指を動かしてみせた。
テンカの暗い紅玉の瞳が、その動きを追う。
「そうか。それならよい」
そう答えながらも、テンカはすぐには視線を外さなかった。
「何か気になることがありますか?」
「いや。以前より、ずいぶん素直に水が出たと思っただけじゃ」
「定期薬を、右手の症状に合わせて調整していただきました。その効果だと思います」
「薬で、か」
テンカは短く呟いた。
やがて、テンカは考え込むような表情を解いた。
「良くなったのであれば、わらわが難しく考えることでもあるまい。ただし、エリーの言うとおり報告は忘れるでないぞ」
「はい」
「テンカに言われなくても、フィアナは分かっていますわ」
「念を押しただけじゃ」
「念を押す顔ではありませんでしたけれど」
「そなたは細かいのう」
「テンカが分かりやすいのですわ」
2人のやり取りを聞きながら、ミナが口元を緩める。
フィアナも、ほんの少しだけ笑った。
授業の終わりに、担当教員が次回の内容を告げた。
「次の実習では、適性と習熟度に応じて魔力出力と維持時間を測定します。今日の記録と比較しますので、体調に変化があった場合は事前に申告してください」
フィアナは記録板へ目を向けた。
水術使用後、異常なし。
その結果が、教員の筆記具によって記されている。
◇ ◇ ◇
寮の自室へ戻ると、フィアナは机に筆記帳を広げた。
授業名と実習内容を書き、今日の状態を順に記録していく。
『水術は最低出力で使用。指定された水量を維持した後、正常に停止しました』
次の行へ筆記具を移す。
『水術使用後、痛みおよび右手の強張りは確認されませんでした』
以前は、症状について記すたびに、自分の不足を報告しているように感じていた。
今日は違う。
授業で求められた課題を終え、異常も出なかった。休息を求める必要も、役割を変更する必要もなかった。
フィアナは筆記具を置き、右手を持ち上げた。
指を開き、ゆっくりと握る。
水術を使った後も、痛みはない。指は思いどおりに動いている。
次の測定でも、同じように術を使えるかもしれない。
次の迷宮にも、5人で入れるかもしれない。
フィアナはもう一度右手を握り、滑らかに動く指を静かに見つめた。
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