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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2部第2章 幕間
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幕間 ルルの観光案内「朝市はお腹を空かせて」

 東の空が白み始めた頃、ルルは大きなあくびを噛み殺しながら、甘味処「フクキタル」の勝手口を出て、戸が閉まったことを確かめた。


 いつもなら、まだ布団の中にいる時間だ。


 頭の猫耳は力なく横へ倒れ、尻尾も石畳の上を引きずりそうになっている。


「おはようございます、ルル」


 背後から声をかけられ、ルルは肩を揺らした。


 振り返ると、焦げ茶色の髪を隙なくまとめたシエナが立っていた。彩宮さいぐう書店で、旅案内書の制作を担当している女性だ。


 深緑の上着に乱れはなく、革鞄を抱えた姿にも眠そうな様子はない。


「……おはようにゃ。シエナは、本当に朝から元気だにゃ」

「これから朝市を取材するのですから、朝に来るのは当然でしょう」

「分かってるにゃ。でも、まだお日さまも起ききってないにゃ」

「市場の方々は、すでに働いていますよ」

「それを言われると、何も言い返せないにゃ……」


 ルルはもう一度あくびを飲み込み、肩から下げた布袋を持ち直した。


 最初に書いたフクキタルの草稿は、シエナから合格をもらった。


 そこで次に紹介することになったのが、領都の朝市である。


 昼の市場なら、ルルも何度となく歩いている。フクキタルで使う果物や茶葉を買いに来ることもあった。


 朝市となると、話は別だ。


 店を開ける準備よりも早い時間から始まり、昼前には多くの店が品物を片づけてしまう。暮らしの中で使ってはいても、旅人へ紹介するつもりで歩いたことはなかった。


「朝食は済ませましたか?」


 シエナの問いに、ルルの猫耳がぴんと立った。


「もちろん、食べてないにゃ」

「寝坊したのですか?」

「違うにゃ。朝市を正しく紹介するために、お腹を空かせてきたにゃ」

「取材に必要なのは観察力です。空腹ではありません」

「おいしいものを食べた時の感動が、大きくなるにゃ」

「食べ歩く気で来たのですね」

「取材にゃ」


 シエナの目が細くなる。


 ルルは視線をそらし、まだ薄暗い通りを歩き始めた。


 領都の朝市は、夜が明ける前から動き出す。


 近隣の農村から来た荷車が石畳を進み、籠いっぱいの野菜や果物を運び込む。南の海で水揚げされた魚は、砕いた氷や濡らした布とともに並べられ、山から来た者たちは茸や薬草、木の実を卓上へ広げていた。


 荷を下ろす者の横で、早くも威勢のよい呼び声が上がっている。


「採れたてだよ! 葉まで柔らかいから、捨てずに食べておくれ!」


「今朝届いたばかりの魚だ! 焼いても煮ても旨いぞ!」


「旅の携帯食ならこっちだよ! 干し肉も固焼きパンもあるよ!」


 店と店の間を進むたび、匂いが変わった。


 青い葉野菜のみずみずしい香り。干した果実の濃い甘み。塩と潮の匂い。焼き上がったパンの香ばしさ。


 その奥から、温かな出汁の香りが漂ってくる。


 ルルのお腹が、くう、と鳴った。


「今の音も草稿へ書きますか?」


 隣を歩くシエナが尋ねた。


「書かなくていいにゃ」

「朝市を歩く時の注意として、役立つかもしれません」

「何の注意にゃ?」

「空腹で来ると、案内役のお腹が鳴る」

「案内書にいらない情報にゃ!」


 声を上げると、近くの露店にいた女性が笑った。


 卓の上では、大きな鍋から白い湯気が立ち上っている。中身は魚と根菜を煮込んだ汁物だった。


「朝から元気だねえ。味を見ていくかい?」


 木椀へ少量をよそわれ、ルルの尻尾が勢いよく持ち上がった。


「いいのかにゃ?」

「旅案内書の取材なんだろう? うちの味もしっかり書いておくれ」

「任せるにゃ!」


 椀を受け取り、汁を一口すする。


 魚の旨味を吸った出汁が、冷えた身体へ染み込んだ。柔らかく煮えた根菜には、わずかに甘みが残っている。


「おいしいにゃあ……」


 猫耳から尻尾の先まで、力が抜けていく。


 眠気も寒さも、温かな汁とともに消えてしまった。


「感想はそれだけですか?」


 シエナが紙を取り出す。


「待つにゃ。今、もっと詳しく考えるにゃ」


 ルルは木椀を両手で包み、もう一口味わった。


「魚の味がしっかりするけど、しょっぱすぎないにゃ。根菜も柔らかくて、朝でも食べやすいにゃ。それから、寒い日に食べるとお腹の中から温まるにゃ」

「よいと思います」

「食べれば、ちゃんと書けるにゃ」

「その理屈で、すべての店を回るつもりですか?」

「必要な取材にゃ」

「一口ずつにしてくださいね」


 シエナが念を押す。


 ルルは空になった椀を返し、次の店へ目を向けた。


 細い串へ刺した肉を焼く店。その隣では、平たく丸めた米を炙り、甘辛いたれを塗っている。少し先には、皇国式の丸パンへ燻製肉と葉野菜を挟んだ品も並んでいた。


 どれも朝市へ来た者のため、その場ですぐ食べられるように作られている。


「朝市には、品物を買いに来るだけではなく、朝ごはんを食べに来る人も多いにゃ」


 ルルは紙へ書き留めた。


「畑から来た人も、海から来た人も、店を開ける人も、みんなここで何か食べてから働くにゃ」

「旅人にも勧められますか?」

「もちろんにゃ。でも、最初の店でお腹いっぱいにしたら駄目にゃ」

「あなたが言いますか」

「椀に少しよそってもらっただけにゃ」

「その手に持っているものは何です?」

「焼いた握り飯にゃ」

「いつ買ったのですか?」

「シエナが紙を見ている間にゃ」


 表面へ塗られたたれが、炭火に炙られて艶を帯びている。


 かじると、外側は香ばしく、中の米は柔らかかった。たれの甘みと塩気が米によく合い、噛むほどに食欲が増していく。


「一口食べてみるかにゃ?」


 ルルは半分ほど残った握り飯を差し出した。


「私は結構です」

「取材にゃ」

「ルルが感想を書ければ十分です」

「一人で食べてると、食いしん坊みたいに見えるにゃ」

「見えるのではなく、食べていますからね」


 冷静に返され、ルルの耳が横へ倒れた。


 握り飯を食べながら市場を進むと、籠を抱えた旅人らしい夫婦が、露店の前で困った顔をしていた。


 卓には細長い紫色の野菜が並んでいる。領都では珍しくないが、領外から来た者には見慣れない形なのだろう。


「どうやって食べるものなんだ?」


「そのままかじるのかしら」


 2人の会話を聞き、ルルは足を止めた。


「それは生より、焼くか煮た方がおいしいにゃ」

「そうなのか?」


 男性が振り返る。


「縦に切って油で焼くと、とろっと柔らかくなるにゃ。甘辛いたれを塗ってもおいしいにゃ」

「宿でも調理してもらえるかしら」

「厨房のある宿なら、頼めばやってくれると思うにゃ。泊まってる場所はどこにゃ?」


 宿の名を聞くと、そこには厨房があり、頼めば調理してもらえることをルルは教えた。


 夫婦は礼を言い、紫色の野菜を2本買っていった。


 その背中を見送っていると、シエナが鉛筆を止める。


「今の説明も、草稿へ入れましょう」

「野菜の食べ方かにゃ?」

「それもありますが、店の方へ尋ねれば、食べ方を教えてもらえることです」

「それは普通のことにゃ」

「領都で暮らすルルにとっては、でしょう」


 言われて、ルルは朝市を見回した。


 魚を前に悩んでいる客へ、店主が焼き方を教えている。見慣れない香辛料を手に取った若者には、別の客が使い方を話していた。


 品物を売るだけではない。


 どのように食べるのか。どの料理に合うのか。今日の品なら何を選ぶべきか。


 尋ねれば、誰かが答えてくれる。


 初めてこの街へ来た頃、ルルの家族もそうだった。


 米の炊き方も、見慣れない野菜の食べ方も、近所の者たちに教えてもらった。言葉がうまく通じない時には、鍋や包丁を使って見せてくれた。


「朝市は、品物だけを買う場所じゃないにゃ」


 ルルは新しい紙へ書き始めた。


「海の人も、山の人も、農村の人も、領都の人も来るにゃ。知らないものがあったら、売っている人に聞けばいいにゃ。おいしい食べ方まで教えてくれるにゃ」

「ええ。よい紹介になりそうです」


 シエナが頷く。


 褒められ、ルルの尻尾が緩やかに揺れた。


 朝日が建物の屋根を越える頃には、市場の人通りも増えていた。


 通りの左右には、南の海から届いた魚、領内の畑で採れた野菜、山で集められた木の実や茸が並んでいる。皇国式のパンの隣で、武蔵ノ原風の米料理が湯気を立てていた。


 ハヅキ領のあちこちから届いたものが、朝の領都へ集まっている。


 それを眺めていると、ルルには市場全体が大きな食卓のように思えた。


「シエナ。朝市へ来るなら、何を持ってきた方がいいかにゃ?」

「それを私に尋ねるのですか?」

「確認にゃ、確認」


 シエナは少し考えてから、自分の革鞄を持ち上げた。


「買った品を入れる袋。それから、細かい硬貨でしょうか」

「そうだにゃ。大きな硬貨ばかりだと、お店の人がお釣りに困るにゃ。両手が塞がるから、肩に掛けられる袋も便利にゃ」

「ほかには?」

「早起きする気合いにゃ」

「そこは前日に早く寝る、と書いてください」

「旅の前の日は、楽しみで眠れないものにゃ」

「ルルは昨夜、何をしていたのですか?」

「明日の取材が楽しみで、少し夜更かししたにゃ」

「だから眠そうだったのですね」


 シエナが小さく息を吐いた。


 それから2人は、朝市を端から端まで歩いた。


 ルルの布袋には、店で使えそうな果物と干した木の実、家族への土産に買った固焼きパンが入っている。予定になかった燻製肉と香辛料まで増え、袋は来た時の倍ほどに膨らんでいた。


「取材で使う物だけを買うのではありませんでしたか?」

「全部、朝市を紹介するために必要にゃ」

「燻製肉も?」

「味を確かめるにゃ」

「香辛料も?」

「料理へ使ってみないと、正しく書けないにゃ」

「その固焼きパンは?」

「弟たちへのお土産にゃ」

「それは取材ではありませんね」

「家族の感想も集めるにゃ」

「便利な言葉になっていませんか、取材」


 ルルは聞こえなかったふりをして、重くなった袋を抱え直した。


 ◇  ◇  ◇


 フクキタルへ戻ると、開店の支度を終えたコリンズが店先に立っていた。


 ルルの膨らんだ布袋を見て、眉を上げる。


「随分と買いましたね」

「取材の成果にゃ」

「食材の仕入れを頼んだ覚えはありませんが」

「これはルルの分にゃ」

「給金を使い切っていませんか?」

「まだ少し残ってるにゃ」

「少しですか」


 コリンズとシエナが、揃って布袋へ視線を落とした。


 ルルは荷物を卓の下へ置き、紙を広げる。


 市場で書き留めた言葉は、食べ物の名前や値段、店主から聞いた調理法で埋まっていた。汁の染みがついた場所もあれば、炙ったたれの跡が残った紙もある。


「草稿として提出する前に、清書してくださいね」


 シエナから新しい紙を渡され、ルルは鉛筆を握った。


 何から書くべきかは、もう決まっている。


 まだ人の少ない早朝に出かけること。

 買った物を入れる袋と、細かい硬貨を用意すること。

 見慣れない品は、店の者へ食べ方を尋ねること。


 そして、最初の店だけで満腹にならないこと。


 ルルは紙の一番上へ、大きな字で書き始めた。


 ――朝市へ行く日は、お腹を空かせて早起きするにゃ。


 ――海と畑と山のおいしいものが、領都の朝へ集まってくるにゃ。


 そこまで書くと、シエナが横から草稿を覗き込んだ。


「今回は、ずいぶん早く書き出しが決まりましたね」

「実際に歩いて、食べて、聞いてきたからにゃ」

「食べることが最初に来そうな取材でしたが」

「どれも大事にゃ」


 ルルは尻尾を揺らし、次の一文を書き足す。


 ――知らない食べ物を見つけたら、怖がらずに聞いてみるにゃ。きっと一番おいしい食べ方を教えてくれるにゃ。


 シエナは文章を読み、静かに頷いた。


「朝市へ行ってみたくなる草稿です」

「本当かにゃ?」

「ええ。ただし、食べ歩きの品数は減らした方がよいでしょう」

「どうしてにゃ?」

「ルルと同じように回れば、朝市の半分で動けなくなります」

「そこまで食べてないにゃ」


 反論したところで、ルルのお腹が満足そうに鳴った。


 今度は空腹の音ではない。


 シエナの視線を受け、ルルの耳がゆっくりと横へ倒れていく。


 厨房から様子を見ていたコリンズが、わずかに口元を緩めた。


「昼の賄いは、軽いものにしておきましょう」

「それは困るにゃ!」

「朝市で十分に取材したのでしょう?」

「朝ごはんとお昼ごはんは別腹にゃ!」


 開店前のフクキタルに、ルルの声が響く。


 店の外では、朝市で買い物を終えた人々が、膨らんだ籠を抱えて家路を急いでいた。

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