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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2部第2章 白い手袋と迷宮の灯
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エピローグ 蠢動する悪意

 オルフィス子爵家の本邸。その執務室で、ヴァルター=オルフィスはフィアナから届いた報告書を読んでいた。


 火属性は、医務室の指示によって使用していない。


 水属性は2度使用し、どちらも術そのものは正常に発動した。2度目の使用後、属性を切り替えていないにもかかわらず、右手の指に強張りが生じている。


 テンカ=ハヅキは五行を発動せず、新たな観察結果も得られていない。


「火は使わず、水だけで異常が出た。テンカ=ハヅキの観察にも進展はない」


 ヴァルターの指に力が入り、報告書の端が歪んだ。


 指定訓練区画の終点へ到達したこと。自ら休息を申告し、症状が消えてから探索を再開したこと。術を使わずとも、魔力感知と後方警戒で役割を果たしたこと。


 そこに並ぶ言葉のどれも、ヴァルターが求めた成果ではなかった。


「何の成果も得られていないではないか」


 報告書が、音を立てて握り潰された。


「ずいぶんと、ご機嫌がよろしくないようですね」


 扉を叩く音はなかった。


 部屋の隅に落ちていた影の中から、黒いローブを纏った男が姿を現す。顔の上半分は頭巾に隠れ、口元にだけ薄い笑みが浮かんでいた。


 ヴァルターは驚く様子もなく、握り潰した報告書を机へ放った。


「例の物ができたそうだな」

「ええ」


 ローブの男は机へ歩み寄り、懐から細長い木箱を取り出した。


 留め具を外して蓋を開く。黒い布の上には、暗い紫色の液体が入った小さな薬瓶が並んでいた。


「『澱み』由来成分の濃度を高め、接脈部をより強く定着させるよう調整されていますよ。ただ、人体での検証はまだ十分ではありませんね」


 男の指が、薬瓶の1つを軽く弾いた。


「特に、()()には火と水、2つの魔脈がすでに定着しているというのに、危険を冒してまで投与するのですか?」

「……研究室の方はどうなっている」

「院長との取り決めどおり、例の孤児院から新たな子供たちが送られています。投与は始めていますが、十分な結果が出るまでには時間が必要でしょう」


 ヴァルターの視線が、紫色の薬瓶へ落ちる。


「待ってはいられん」

「子供たちの結果を待たずに、彼女へ投与すると?」

()()()も、フィアナも、研究を進めるために役立てる」


 ローブの男は何も答えず、口元の笑みだけをわずかに深くした。


 ヴァルターが卓上の呼び鈴を鳴らす。


 ほどなくして従僕が入室し、扉の近くで頭を下げた。


「家令を呼べ。この薬を学園都市のフィアナへ届けさせろ」


 ヴァルターは木箱の蓋を閉じ、従僕の前へ押し出した。


「定期薬としてな」

「かしこまりました」


 従僕は木箱を両手で受け取り、一礼して部屋を出ると、扉を静かに閉じた。


 ヴァルターは机の上で潰れた報告書を見下ろし、低く告げた。


「次の報告では、成果を示してもらう」


 ◇  ◇  ◇


 オルフィス子爵邸を離れたローブの男は、人気のない林の中を歩いていた。


 木々の隙間から落ちる月明かりが、黒いローブの輪郭を淡く浮かび上がらせる。


 ヴァルターがフィアナの報告を握り潰したことも、検証の済んでいない薬を迷わず送らせたことも、男にとっては驚くほどのことではなかった。


「……そろそろ、子爵の研究も露見する頃合いでしょうか」


 男は足を止め、振り返る。


 木々の向こうに、オルフィス子爵邸の灯りが小さく見えていた。


「定命の者は、どうしてこうも先を急ぐのでしょうね」


 男が一歩、月明かりの届かない場所へ踏み込む。


 黒いローブの輪郭が闇へ溶け、その姿は足音一つ残さず消え去った。

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