エピローグ 蠢動する悪意
オルフィス子爵家の本邸。その執務室で、ヴァルター=オルフィスはフィアナから届いた報告書を読んでいた。
火属性は、医務室の指示によって使用していない。
水属性は2度使用し、どちらも術そのものは正常に発動した。2度目の使用後、属性を切り替えていないにもかかわらず、右手の指に強張りが生じている。
テンカ=ハヅキは五行を発動せず、新たな観察結果も得られていない。
「火は使わず、水だけで異常が出た。テンカ=ハヅキの観察にも進展はない」
ヴァルターの指に力が入り、報告書の端が歪んだ。
指定訓練区画の終点へ到達したこと。自ら休息を申告し、症状が消えてから探索を再開したこと。術を使わずとも、魔力感知と後方警戒で役割を果たしたこと。
そこに並ぶ言葉のどれも、ヴァルターが求めた成果ではなかった。
「何の成果も得られていないではないか」
報告書が、音を立てて握り潰された。
「ずいぶんと、ご機嫌がよろしくないようですね」
扉を叩く音はなかった。
部屋の隅に落ちていた影の中から、黒いローブを纏った男が姿を現す。顔の上半分は頭巾に隠れ、口元にだけ薄い笑みが浮かんでいた。
ヴァルターは驚く様子もなく、握り潰した報告書を机へ放った。
「例の物ができたそうだな」
「ええ」
ローブの男は机へ歩み寄り、懐から細長い木箱を取り出した。
留め具を外して蓋を開く。黒い布の上には、暗い紫色の液体が入った小さな薬瓶が並んでいた。
「『澱み』由来成分の濃度を高め、接脈部をより強く定着させるよう調整されていますよ。ただ、人体での検証はまだ十分ではありませんね」
男の指が、薬瓶の1つを軽く弾いた。
「特に、彼女には火と水、2つの魔脈がすでに定着しているというのに、危険を冒してまで投与するのですか?」
「……研究室の方はどうなっている」
「院長との取り決めどおり、例の孤児院から新たな子供たちが送られています。投与は始めていますが、十分な結果が出るまでには時間が必要でしょう」
ヴァルターの視線が、紫色の薬瓶へ落ちる。
「待ってはいられん」
「子供たちの結果を待たずに、彼女へ投与すると?」
「あれらも、フィアナも、研究を進めるために役立てる」
ローブの男は何も答えず、口元の笑みだけをわずかに深くした。
ヴァルターが卓上の呼び鈴を鳴らす。
ほどなくして従僕が入室し、扉の近くで頭を下げた。
「家令を呼べ。この薬を学園都市のフィアナへ届けさせろ」
ヴァルターは木箱の蓋を閉じ、従僕の前へ押し出した。
「定期薬としてな」
「かしこまりました」
従僕は木箱を両手で受け取り、一礼して部屋を出ると、扉を静かに閉じた。
ヴァルターは机の上で潰れた報告書を見下ろし、低く告げた。
「次の報告では、成果を示してもらう」
◇ ◇ ◇
オルフィス子爵邸を離れたローブの男は、人気のない林の中を歩いていた。
木々の隙間から落ちる月明かりが、黒いローブの輪郭を淡く浮かび上がらせる。
ヴァルターがフィアナの報告を握り潰したことも、検証の済んでいない薬を迷わず送らせたことも、男にとっては驚くほどのことではなかった。
「……そろそろ、子爵の研究も露見する頃合いでしょうか」
男は足を止め、振り返る。
木々の向こうに、オルフィス子爵邸の灯りが小さく見えていた。
「定命の者は、どうしてこうも先を急ぐのでしょうね」
男が一歩、月明かりの届かない場所へ踏み込む。
黒いローブの輪郭が闇へ溶け、その姿は足音一つ残さず消え去った。
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