立ち止まるための言葉
円形の空間を越えると、通路は緩やかな下り坂へ変わった。
壁に埋め込まれた魔導灯の間隔も広がり、足元へ届く光が薄くなっている。青い管理標識は続いているものの、その先に何があるのかは地図にも記されていない。
テンカは先頭を進みながら、石床と通路の奥を交互に確かめた。
右斜め後ろを歩くレオンも、正面だけを見てはいない。壁の亀裂や天井の陰へ視線を向け、時折、後方の様子も確認していた。
「右の壁に、奥へ続いていそうな隙間があります」
レオンが足を緩める。
人が通れるほどの幅はないものの、黒い亀裂が壁の奥まで伸びていた。石床には小さな爪痕も残っている。
「オルフィス。反応はあるか?」
「確認します」
最後尾に立つフィアナが目を閉じた。
しばらくして、灰紫色の瞳が開く。
「壁の奥に小さな魔力反応が3つあります。こちらへ近づいてはいません」
「魔物でしょうか」
ミナが筆記帳へ亀裂の位置を書き加える。
「大きさから考えれば、小型の魔物だと思います。通路につながっているかは分かりません」
「ならば、背後へ回られぬよう気に留めておこう。レオン、よく見つけた」
「はい」
レオンは短く答え、再び前方と左右へ視線を巡らせた。
先へ進むにつれて、下り坂は少しずつ急になった。
細かな砂と小石が石床を覆い、靴底の下で乾いた音を立てる。通路の左端には細い排水溝が走っていたが、流れ込んだ土砂によって半ば埋まっていた。
「止まってください」
ミナの声に、テンカは足を止めた。
「どうした?」
「この先の床に、管理標識がありません」
ミナがしゃがみ込み、砂の積もった石床へ手を近づける。
左右の壁には青い標識が残っている。足元だけが、坂の途中から途切れていた。
「削れたのではありませんの?」
エリシアが尋ねる。
「その可能性もあります。でも、ここだけ砂の色が違います」
ミナが指した先では、乾いた灰色の砂へ、黒く湿った筋が交じっていた。
「排水溝が詰まり、あふれた水が砂を運んできたのだと思います。標識が下に隠れているのかもしれません」
「砂を退ければ分かるか?」
「はい。ただ、手で動かすと足元まで崩れるかもしれません」
テンカは坂の下へ目を向けた。
光の届かない先から、細く水の流れる音が聞こえる。大きな段差は見えないものの、砂に覆われた床の状態までは分からない。
「水で少しずつ流せます」
フィアナが言った。
「強い流れを作る必要はありません。排水溝へ向けて砂の表面だけを動かせば、下の標識を確認できます」
「手の状態は?」
「痛み、痺れ、強張りはありません」
「無理に広く流すでないぞ」
「承知しています」
フィアナが左手を前へ向けた。
「ウォーターカレント!」
青い光が指先へ集まり、細い水流となって石床を走る。
水流は砂の表面を薄く削りながら、排水溝を塞いでいた土砂を少しずつ脇へ押し分けていく。隠れていた石床が少しずつ現れ、その中央から青い線が姿を見せた。
「標識です」
ミナが水流の先を見つめる。
青い線は坂をまっすぐには下らず、途中で右へ曲がっていた。その先には砂に覆われた浅い段差がある。
「このまま直進すると、段差へ足を取られていました」
「右側を通るのが正しい経路ということですわね」
「はい。壁際に手すりを固定していた穴もあります」
フィアナが術を止めた。
青い光が消え、水流も排水溝へ吸い込まれていく。
「オルフィス。状態を報告せよ」
「左手に異常はありません」
フィアナは左手を一度開閉したあと、身体の前に置いていた右手へ目を落とした。
「右手の人差し指と中指に、わずかな強張りがあります。痛みと痺れはありません」
「水術はここまでじゃ」
「承知しました」
フィアナは反論せず、右手の指をゆっくりと伸ばした。
「歩くことはできるか?」
「はい。指以外に異常はありません」
「ならば、休める場所を探す。ミナ、坂の先はどうなっておる?」
「地図にはありません。標識は右側へ続いています」
テンカは砂の下から現れた青い線をたどった。
「わらわが先に下りる。レオンは足元を見ながら続け。ミナとエリーは間を空けすぎぬようにせよ。オルフィスは最後尾のままでよいが、水術は使うな」
「はい」
「承知しましたわ」
「承知しています」
テンカは右側の壁へ手を添え、砂の薄い場所を選んで坂を下った。
足を置く前に石床を確かめ、後ろの4人へ位置を伝える。レオンも自分が通った場所を振り返り、ミナへ手を差し出していた。
砂に埋もれた段差を避けて坂を下り切ると、通路は左右へ広がった。
左側は浅い水が流れる細い道へ続き、右側には乾いた石床が伸びている。壁際には人が腰を下ろせるほどの平らな石が並び、天井の魔導灯も安定した光を放っていた。
「周囲に魔力反応はありません」
フィアナが報告した。
「レオン、右の奥を確認せよ。エリーは左を頼む」
「はい」
「任せてくださいませ」
レオンは剣の柄へ手を添えて右の通路を確かめ、エリシアは水際へ近づいて左の奥を見通した。
「右側は少し先で曲がっています。魔物の姿はありません」
「こちらにも何もいませんわ。水の流れも穏やかです」
ミナは壁の標識と地図を見比べた。
「ここなら休めると思います。帰還までの時間にも、まだ余裕があります」
テンカがフィアナへ振り返るより先に、白い手袋に覆われた右手がゆっくりと握られた。
指は、最後まで握り込めなかった。
「ハヅキ様」
フィアナは伸び切らない指を見たあと、顔を上げた。
「少し、休ませてください」
誰もすぐには口を開かなかった。
フィアナが自分から休みたいと言うのを、テンカは初めて聞いた。
「うむ。ここで休もう」
テンカが答えると、ミナは筆記帳を開いた。
「休憩開始の時刻を記録します。オルフィス様、症状が変わったら教えてください」
「分かりました」
レオンは右側の曲がり角が見える位置へ移動し、剣を抜かずに周囲を警戒する。エリシアも左の通路を見渡せる場所へ立った。
フィアナは壁際の平らな石へ腰を下ろした。
背筋は伸びたままだったが、右手だけは膝の上へ置かれている。
テンカは向かいの壁へ寄り、《継火》を抱くようにして立った。
「水をどうぞ」
ミナが鞄から水筒を取り出す。
「自分のものがあります」
「取り出せますか?」
フィアナの視線が右手へ落ちた。
左手だけでも鞄は開けられるだろう。ただし、留め具を外し、水筒を取り出すには時間がかかる。
「……お借りします」
フィアナはミナの水筒を左手で受け取った。
急いで飲むことはなく、少量を口に含んでから静かに返す。
「ありがとうございます」
「はい」
それだけ言うと、ミナはフィアナの隣へ腰を下ろし、地図へ新しい経路を書き始めた。
誰も、休息を求めたことについて触れなかった。
レオンは通路を見張り、エリシアは時折フィアナの右手へ視線を向ける。テンカも何も言わず、魔導灯の光が白い手袋の上を滑るのを見ていた。
しばらくすると、フィアナが右手を開いた。
「人差し指は動きます。中指には、まだ少し強張りが残っています」
「では、もう少し休むぞ」
「承知しました」
今度の返事には、間がなかった。
ミナが筆記帳へ症状を書き加え、再び地図へ視線を戻す。
水の流れる音と、筆記具が紙を擦る音が、小さな空間に続いた。
やがてフィアナは右手をもう一度開閉した。先ほど動かなかった中指も、今度はほかの指と同じように曲がっている。
「強張りは消えました。痛みと痺れもありません」
「歩けるか?」
「はい」
「術は使わぬままじゃぞ」
「承知しています」
テンカはレオンとエリシアへ目を向けた。
「周囲は?」
「異常ありません」
「こちらも問題ありませんわ」
ミナも地図と筆記帳を閉じる。
「帰還時間まで余裕があります。進むことができます」
「よし。では、進もう」
フィアナは立ち上がり、自分の水筒を鞄から取り出した。右手で留め具を外し、指の動きを確かめてから元へ戻す。
それから、いつものように隊列の最後尾へ立った。
「後方に魔力反応はありません」
先ほどまでと変わらない声だった。
5人は右側の通路へ入り、再び地図の空白を進み始めた。
曲がり角の向こうで、これまでの魔導灯とは異なる青い光が、かすかに揺れていた。
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