一人の声で
浅い水の流れに沿って進むと、やがて通路の先が円形に広がった。
中央には腰ほどの高さの石台があり、その表面へ指定訓練区画の地図が刻まれている。壁には現在地を示す青い標識と、入口へ戻る方向を示す矢印が並んでいた。
「ここが、次の確認地点です」
ミナが地図と壁の標識を見比べる。
「最奥へ向かう通路は、この奥です。あと1つ分岐を越えれば、指定区画の終点に着きます」
「帰還に必要な時間は?」
「今の経過時間なら、まだ余裕があります」
フィアナは石台の前へ立つと、筆記帳を開いた。
「休憩による遅れを含めても、予定していた範囲内です。ここから最奥まで進み、その後に帰還できます」
到達時刻を書き込もうと、筆記具を右手に取る。
その指から、筆記具が滑り落ちた。
硬い音が円形の空間へ響く。
フィアナは石床へ落ちた筆記具と、自分の右手を交互に見た。
「オルフィス」
テンカが呼ぶ。
フィアナは右手の指を一度閉じ、ゆっくりと開いた。
「右手の指先に、軽い痺れがあります」
「先ほどより強いか?」
「痛みは弱まっています。ただ、指先の感覚が少し鈍くなっています」
「左手は?」
「動かせます。強張りもありません」
「歩くことに支障はありません。属性を切り替えなければ、探索も続けられます」
フィアナは左手で筆記具を拾おうとする。
「待ってください」
ミナの声が、それを止めた。
フィアナだけでなく、テンカとエリシアもミナを見る。
ミナは地図を胸元へ抱え、フィアナの右手へ視線を向けていた。
「私は、ここで戻った方がよいと思います」
「帰還に必要な時間は確保できています」
フィアナがすぐに答える。
「最奥まで進んでも、受付時間には間に合います」
「時間の問題ではありません」
ミナはフィアナの前へ一歩出た。
「オルフィス様の手は、休む前より動かなくなっています。今は筆記具を落としただけですけど、もう一度術を使ったら、もっと悪くなるかもしれません」
「属性を使う必要がなければ、問題はありません」
「必要になるかどうかは、今の私たちには分かりません」
ミナの声は震えていなかった。
「魔物に出会うかもしれません。帰り道で何か起きるかもしれません。その時に術を使えない人がいることより、使おうとして手が動かなくなることの方が怖いです」
フィアナの灰紫色の瞳が、わずかに細くなる。
「私は後方警戒だけでも担当できます」
「オルフィス様が何もできないと言っているのではありません」
ミナは一度言葉を切り、抱えていた地図へ指を添えた。
「私は、今は戻るべきだと言っています」
円形の空間に、水滴の落ちる音が響く。
「決まりじゃ。戻るぞ」
テンカが告げた。
フィアナがこちらを向く。
「まだ、フロストレイン様とハヅキ様の判断を聞いていません」
「戻る時は、1人の声でよいと決めたであろう」
「ですが」
「全員が危険だと気づいてからでは、決めた意味がありませんわ」
エリシアが静かに言葉を重ねた。
「ミナが戻るべきだと判断しました。ならば、わたくしたちは戻ります」
「私は歩けます」
「歩けるかどうかを試すために、さらに奥へ進む必要はなかろう」
テンカは壁に刻まれた帰還方向の矢印を指した。
「最奥は逃げぬ。次に来ればよい」
「次も、同じ症状が出る可能性があります」
「その時は、その時に考える。今ここで無理をして、次に来られなくなる方が困るであろう」
フィアナは右手を見つめた。
指を動かそうとしたのか、小指だけがわずかに曲がる。しばらくして、身体の横へ下ろされた。
「……承知しました」
4人は来た道を戻り始めた。
隊列の先頭にはテンカが立ち、その後ろでミナが分岐と標識を確かめる。フィアナはミナの後ろを歩き、エリシアが最後尾から後方を警戒した。
「後ろは私が見ます」
フィアナが立ち止まりかける。
「今は、わたくしに任せてくださいませ」
「後方警戒であれば、手は使いません」
「あなたの役割を取り上げるつもりではありませんわ」
エリシアはフィアナの隣へ並んだ。
「帰り道くらい、交代してもよいでしょう?」
「……分かりました」
フィアナは前を向き直った。
岩甲虫と戦った場所には、すでに魔物の痕跡も氷も残っていない。浅い水だけが石床を流れ、魔導灯の光を揺らしていた。
最初の分岐では、ミナが足を止めることなく左を示す。
「こちらです。右側には閉鎖標識があります」
「うむ」
来た時には地図と標識を何度も見比べていたミナも、帰路では迷わなかった。
フィアナは時折、右手を握って指の感覚を確かめていたが、足取りに乱れはない。テンカは速度を上げず、後ろから聞こえる3人分の足音が離れないことを確かめながら進んだ。
やがて、迷宮の入口を閉ざす鉄扉が見えてきた。
4人は認証札を順に認証盤へ触れさせた。
盤面へ4つの青い光が並び、少し遅れて重い鉄扉が左右へ開いた。管理棟の明るい魔導灯と、人の話し声が扉の向こうから流れ込んでくる。
「お帰りなさい。ずいぶん早い帰還ですね」
待機していた職員が、4人の姿を確認する。
「何か異常がありましたか?」
「班員の手に痺れが出たため、探索を中止した」
テンカが答えると、フィアナが一歩前へ出た。
「私です。水属性から火属性へ切り替えた後、両手に強張りが出ました。現在は右手の指先に痺れがあります」
「簡易医務室へ。ほかの3人も、受付を済ませてから一緒に来てください」
職員に案内され、4人は管理棟の簡易医務室へ入った。
治療担当の女性がフィアナを椅子へ座らせ、右手首へ細い測定具を当てる。埋め込まれた小さな魔石が淡く光り、フィアナが指を1本ずつ動かすたびに明るさを変えた。
「魔力の巡りが少し乱れています。複数の属性を続けて使ったことで、魔脈へ負担がかかった可能性があります」
女性は測定具を外した。
「今日はもう属性変換を行わないこと。寮へ戻った後も手を休ませてください。痺れが残るようなら、学園の医務室で改めて診察を受けるように」
「明日の授業は受けられますか?」
「座学なら構いません。実技は、朝の状態を見て判断してください」
「承知しました」
フィアナの返事に不満そうな響きはない。それでも、白い手袋に覆われた右手は、制服の膝の上で強く握られていた。
「帰還の判断は適切です」
治療担当の女性が4人を見渡す。
「指先の痺れは、続行できる理由にはなりません。自分で歩けるうちに戻ったから、軽い症状で済んでいます」
「ありがとうございます」
エリシアが代表して頭を下げた。
簡易医務室を出た後、4人は買い取り窓口へ向かった。
ミナが鞄から、洞窟狼と岩甲虫の魔石を取り出す。窓口の職員は種類ごとに分けて大きさを確認し、買い取り額を記録した。
「すまぬが、4人分に分けてくれるか?」
テンカが頼むと、職員は硬貨を4つの小袋へ均等に分けた。
「4人分、すべて同額です」
ミナとエリシアがそれぞれ受け取り、テンカも自分の分を取った。最後に残った1袋を、フィアナへ差し出した。
フィアナは小袋を見つめたまま、手を伸ばさなかった。
「私は受け取れません」
「なぜじゃ」
「探索を中断した原因は、私です。最奥へ到達できなかった以上、成果を同じように受け取るべきではありません」
「管理標識を見つけたのは、そなたの水術であろう。岩甲虫を壁から落としたのも同じじゃ」
「それでも、最後まで役割を果たせませんでした」
フィアナは白い手袋に覆われた手を、身体の前で重ねた。
「次の探索では、別の者を班へ入れる方が効率的です」
「誰がそのようなことを決めた」
「決めてはいません。ですが、当然の判断だと思います」
フィアナの視線が、差し出された小袋からテンカの顔へ上がる。
「……私は、もう必要ありませんか」
その声は、これまでと同じ静かなものだった。
ただ、重ねられた両手の指だけが強く握り込まれていた。
「途中で術を使えなくなり、皆さんを引き返させました。私は、足手まといになりました」
「オルフィス」
テンカは小袋を下ろさず、フィアナをまっすぐ見た。
「そなたが今まで、どのような境遇にあったのか、わらわは知らぬ。なぜ、役に立てぬ者は置いていかれると思うようになったのかもな」
フィアナの灰紫色の瞳が、わずかに揺れる。
「されど、わらわたちは友であり、仲間じゃ。同じ札を持って迷宮へ入り、4人で帰ると決めた」
「友……」
「誰かができぬことを、別の誰かが補う。そのための4人であろう」
テンカは小袋をフィアナの前へ差し出し直した。
「ゆえに、自分を足手まといなどと呼ぶでない」
「ですが、戻ることになったのは、私の手が」
「戻った方がよいと言ったのは私です」
ミナが口を挟んだ。
「でも、オルフィス様に班から抜けてほしいなんて言っていません」
「アーレンさんは、私の状態を見て判断しただけです」
「はい。だから、次もおかしいと思ったら言います」
ミナは少しだけ肩へ力を入れた。
「その代わり、私が道を間違えそうになったら、オルフィス様も止めてください」
「私が?」
「同じ班ですから」
フィアナは答えられず、ミナを見つめた。
「あなたが足手まといだというのなら、その水術に助けられたわたくしたちは何なのです?」
エリシアが涼やかに続ける。
「そもそも、最奥まで到達しなければ価値がないという考えが間違っていますの。4人で入り、魔物を倒し、全員で戻ってきました。それ以上、初めての探索に何を求めますの?」
「予定していた成果です」
「欲張りですわね」
「エリーに言われておるぞ、オルフィス」
「どういう意味ですの?」
エリシアがテンカへ視線を向ける。
「そなたも大概、負けず嫌いであろう」
「今は関係ありませんわ」
「似た者同士ということじゃ」
「似ていません」
「否定が早いのう」
張りつめていた空気が、わずかに緩んだ。
フィアナは3人を順に見た。
やがて、重ねていた両手をほどいた。右手はまだ動かしにくいのか、左手を先に差し出し、その下へ右手を添える。
「受け取れ。そなたが、わらわたちと得た分じゃ」
「……はい」
白い手袋に包まれた両手が、小袋を受け取った。
硬貨の重みを確かめるように、フィアナの指がゆっくりと袋を包む。
今度は、その手が小袋を押し返すことはなかった。
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