水が示す道
洞窟狼との戦闘を終えたテンカたちは、魔石を回収して隊列を組み直した。
石床へ吸収された死体の痕跡は、すでにほとんど残っていない。エリシアが生み出した氷も端から溶け始め、迷宮の通路には水滴の落ちる音が戻っていた。
「進めるか?」
テンカが尋ねると、フィアナが真っ先に答えた。
「問題ありません」
「そなたにだけ聞いておるのではない。3人ともじゃ」
フィアナの唇が閉じる。
「わたくしは問題ありませんわ」
「私も大丈夫です。帰り道も記録できています」
エリシアとミナの返事を受け、テンカは最後にフィアナへ目を向けた。
「私も続行できます」
「うむ。ならば進もう」
4人は決めていた位置へ戻り、通路の奥へ歩き始めた。
先頭はテンカ。その後ろでミナが地図と標識を確認し、エリシアが周囲を警戒する。フィアナは最後尾から後方を見張っていた。
しばらく進むと、石床の傾斜が緩やかな下りへ変わった。
足元には浅く水が溜まり、踏み出すたびに小さな波紋が広がる。天井から落ちる水滴だけでは、この量にはならない。壁際には細い排水溝が設けられていたが、泥と小石で半ば埋もれていた。
「地図では、この先が2つに分かれています」
ミナが足を止め、筆記帳に挟んだ地図を開いた。
通路の先には、左右へ分かれる道が見える。左は水が深く、右側の石床は比較的乾いていた。
「指定された確認地点へ向かうなら、右の通路です」
フィアナが地図を覗き込む。
「待ってください」
ミナはしゃがみ込み、壁際の排水溝へ顔を近づけた。
「この水、右から流れてきたものではありません。左の通路から流れ込んでいます」
「地図には、左側に水場の記載はありません」
「排水溝も途中で詰まっています。泥がまだ水の中へ沈み切っていません。流れ込み始めてから、あまり時間は経っていないと思います」
テンカも浅い水面へ目を向けた。
足元の水は静止しているように見えるが、浮かんだ砂粒はわずかに左から右へ流れている。ミナの指摘どおり、左の通路から少しずつ水が入り込んでいるらしい。
「管理標識は見つかるか?」
「泥に埋まっているのかもしれません。少し待ってください」
ミナが水へ手を伸ばしかけると、フィアナが左手を上げた。
「水属性を使います」
「うむ。頼む」
フィアナは白い手袋に覆われた左手を、石床へ向けた。
指先に青い光が灯る。
薄い水の膜が足元へ広がり、泥の表面を静かに撫でていく。水は力任せに押し流すのではなく、小石と泥の隙間を縫うように進み、床に刻まれていた溝へ集まった。
泥の下から、青く光る細い線が現れる。
「管理標識です」
ミナが表面へ残った泥を拭った。
青い線は右へ向かって伸びている。その途中には、黄色い三角形の注意標識が刻まれていた。
「右が指定経路で間違いありません。ただ、この先に足場の悪い区画があるようです」
「左の水は?」
「排水が詰まったことで、隣の区画から流れ込んでいるのだと思います。通行禁止を示す印はありません」
フィアナは水術を収め、地図へ視線を落とした。
「右へ進むのが最短です」
「最短であることだけでは決めぬぞ」
テンカは3人を見渡した。
「エリー」
「標識が残っているなら、管理区画から外れてはいませんわ。足場に注意すれば進めます」
「ミナは?」
「帰路の標識も確認しました。今の場所も記録しています」
「オルフィス」
「続行を希望します」
全員の答えを聞き、テンカは右の通路へ身体を向けた。
「ならば進む。戻る道も忘れるでないぞ」
「はい」
右側の通路は、先ほどまでより狭かった。
濡れた石床には細かな砂が積もり、壁面の一部は人の手が届かない高さまで滑らかに削れている。魔導灯の光も岩の凹凸に遮られ、天井付近には黒い影が重なっていた。
ミナが頭上を見ながら、歩みを緩める。
「テンカ様。止まってください」
その声に、テンカはすぐ足を止めた。
「何か見つけたか?」
「砂が落ちています」
ミナが指した先で、天井から細かな粒が降っている。
水滴によって削れたものではない。一定の間隔で途切れながら落ち、少しずつ位置を変えていた。
テンカが目を凝らす。
岩肌だと思っていた黒い影が動いた。
節のある脚が壁から離れ、硬い甲殻が魔導灯の光を鈍く反射する。岩に似た外殻を持つ甲虫が、天井と壁へ張りついていた。
見える範囲だけでも5体。
「岩甲虫です」
フィアナが声を落とす。
「甲殻が硬く、刃や矢を正面から弾きます」
「数は5つでよいか?」
「魔力反応は5つです。奥にはありません」
岩甲虫の1体が身体の向きを変えた。
顎のように発達した口器が開き、硬い脚が天井を引っかく。
「水属性を使います」
フィアナが左手を上げる。
「壁面を濡らします。落下に注意してください」
「承知した。ミナは下がれ。エリー、左右へ散らさぬよう頼む」
「お任せくださいませ」
ミナが後方へ下がり、筆記帳を鞄へ収める。
フィアナの指先から水が細い帯となって伸びた。
水の帯は天井へ届くと、岩肌に沿って左右へ分かれる。岩甲虫の脚元へ水が入り込み、乾いた石へ食い込んでいた爪が滑った。
2体が天井から落ちる。
エリシアが手をかざした。
床の左右から氷が伸び、通路の端を塞ぐ。逃げ道を失った岩甲虫は中央へ落下し、硬い甲殻を下にして石床を転がった。
残る3体も壁へ移ろうとしたが、濡れた岩肌に脚を取られる。
テンカはすでに《継火》を抜いていた。
大魔境で相対した魔物と比べれば、動きも殺気も軽い。油断する理由にはならないが、テンカの剣を脅かす相手ではなかった。
最初の1体が体勢を戻すより早く、踏み込む。
甲殻を斬る必要はない。
継ぎ目へ刃を滑り込ませ、頭部と胴を一息に断つ。そのまま刃を返し、横から迫った2体目の脚を根元から斬り落とした。
身体を沈める。
岩甲虫の口器が頭上を通り過ぎた。
立ち上がる動きに合わせ、《継火》を下から振り抜く。露出した腹部へ刃が走り、2体目も石床へ崩れ落ちた。
壁から落ちてきた3体目を、鞘で弾く。
仰向けになったところへ刃を落とし、柔らかな腹を貫いた。
残る2体が通路の奥へ逃れようとする。
「逃がしませんわ」
エリシアが指を動かした。
奥の石床から氷壁が立ち上がり、1体の進路を塞ぐ。岩甲虫が壁へぶつかって身体を反転させたところへ、テンカが間合いを詰めた。
一閃。
脚の継ぎ目をまとめて断たれた岩甲虫が、勢いを失って倒れる。テンカは止まらず、首元へ刃を走らせた。
最後の1体は、壁際にある細い岩の隙間へ潜り込んだ。
甲殻を閉じ、外からは脚も腹も見えない。
「火属性へ切り替えます」
フィアナが告げた。
左手を下ろし、水術を完全に停止する。
右手を上げた瞬間、白い手袋に覆われた両手の指が同時に強張った。
フィアナの呼吸が一拍だけ止まる。
「オルフィス」
テンカが呼ぶより早く、右手の指先へ赤い光が灯った。
「出力を抑えます。岩の隙間から追い出すだけです」
細い炎が、岩甲虫の潜り込んだ隙間へ伸びる。
岩を焼くほどの熱ではない。狭い隙間の温度だけを上げるように、炎は岩壁の奥へ入り込んだ。
岩甲虫が飛び出す。
テンカは半歩だけ身体をずらし、その軌道へ《継火》を置いた。
硬い脚が石床へ届く前に、刃が腹部を通り抜ける。
岩甲虫の身体はテンカの横を抜け、背後へ落ちた。
「終わりじゃ」
刀を振り、刃についた体液を払う。
戦闘が終わると、フィアナは右手の炎を消した。赤い光はすぐに消えたものの、握り込まれた指はしばらく開かなかった。
「属性を切り替えた直後、両手に一時的な強張りがありました」
テンカは《継火》を鞘へ収めながら振り返った。
「痛みは?」
「わずかにあります。現在は指を動かせます」
「うむ。それでよい」
「報告するという条件でしたので」
フィアナは右手を開いた。
親指から順に伸びていくが、小指だけがわずかに遅れた。
倒れた岩甲虫の輪郭が淡い光へほどけ、硬い甲殻も斬り落とされた脚も石床へ吸い込まれていく。やがて5体の死体が消えると、その場には大豆ほどの魔石が5つ残った。
「魔石を回収します」
ミナが前へ出て、落ちている魔石を拾った。
「全部で5つです。洞窟狼のものより、小さいですね」
「岩甲虫は甲殻に魔力を使うため、魔石自体は大きくならないと聞いています」
フィアナが答えた。その右手は身体の横へ下ろされていたが、白い手袋の指先はまだわずかに曲がっていた。
テンカはフィアナの手と、その顔を見比べる。表情はいつもと変わらず、呼吸にも乱れはない。それでも、完全に問題がないとは思えなかった。
「ここで少し休むぞ」
「予定より遅れます」
「わらわたちの目的は、予定を守ることではない」
「しかし、次の確認地点まで進めば」
「休んでから考える」
テンカはフィアナを見据えた。
「進む時は、4人で決める。今はまだ、進むと決める時ではない」
「……承知しました」
4人は通路の広がった場所へ移り、壁際で短い休憩を取った。
ミナは地図へ戦闘地点と経過時間を書き込み、エリシアは周囲の氷を溶かして足場を整えている。フィアナは座らずに地図を確認しようとしたが、テンカに見つめられると、何も言わず石壁へ背を預けた。
しばらくして、テンカは3人へ尋ねた。
「先へ進めると思うか?」
「わたくしは進めますわ。ただし、オルフィスさんがもう一度属性を切り替える場合は、その前に状態を確認します」
「私も進めます。次の分岐までなら、帰還に必要な時間も十分残っています」
ミナが記録を示す。
最後に、フィアナが地図から顔を上げた。
「続行できます。次の確認地点まで、あと10分です」
「無理をしておらぬな?」
「はい」
テンカはすぐには答えなかった。
フィアナの右手は地図の端を押さえている。白い手袋の指は先ほどより開いていたが、紙から離れるまでに、ほんのわずかな間があった。
「よかろう。ただし、次に異常が出れば戻るぞ」
「承知しました」
4人は再び立ち上がった。
浅い水の流れが、魔導灯の光を受けて通路の奥へ続いている。
水が示した道の先へ、テンカたちは歩き出した。
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