それ以外に、何が要る
身体鍛錬の授業は、演習場の外周を一定の速さで走るところから始まった。
「まずは全員で、指定された速さを保って外周を走ってください。その後、2人一組で運搬訓練を行います」
教師が、学生たちを見渡す。
「共通訓練を終えた後、《武術修習班》と《基礎鍛錬班》に分かれます。見るのは速さではありません。自分の体力を把握し、最後まで動きを維持できるかです。周囲につられて速度を上げないように」
合図とともに、学生たちが走り出した。
テンカはエリシアと並び、指定された速度に合わせて足を運ぶ。身体を温める程度の速さであり、息が乱れるほどではない。
少し後ろでは、ミナとフィアナが並んでいた。
ミナは懸命に足を動かしているものの、走り慣れていないのか、次第に肩が上下し始める。
「アーレンさん。足を前へ伸ばそうとせず、身体の真下へ置いてください」
フィアナが横から声をかけた。
「は、はい……」
「呼吸は足に合わせて。吸うことよりも、吐くことを意識してください」
ミナの歩幅がわずかに狭まり、乱れていた呼吸が少しずつ整っていく。
折り返しで後ろを見たテンカは、感心して眉を上げた。
フィアナ自身の走りにも乱れはない。
呼吸の間隔は一定で、顔にも疲労を見せていなかった。ただ、曲がり角へ差しかかるたび、白い手袋に覆われた右手が一度だけ強く握られていた。
外周走を終え、教師が休憩を告げる。
ミナは演習場の端へ移動し、長椅子へ腰を下ろした。
「つ、疲れました……」
「最初に速度を上げすぎています。最後まで同じ動きを続けるなら、もう少し余力を残すべきです」
フィアナは休憩を告げられても座らず、学生たちが使った水差しへ手を伸ばした。
「オルフィス様も休んだ方が……」
「私は問題ありません」
「休憩中に動いておれば、それは休憩とは言わぬぞ」
テンカが声をかけると、フィアナが振り返った。
「手が空いていましたので」
「休めと言われた時間に、手が空いておるのは当然じゃ」
「片づけておこうと思っただけです」
「教師から頼まれたのか?」
「いいえ」
フィアナは手にしていた水差しへ目を落とした。
返す言葉を探しているようだったが、教師から休憩終了の合図がかかるまで、その場へ座ろうとはしなかった。
共通訓練の最後に運び出されたのは、大きさの異なる砂袋だった。
「次は2人一組になり、各自1つずつ砂袋を抱えて演習場を3往復します」
教師が、軽量、標準、重量の砂袋を順に示す。
「速さは評価しません。相手の姿勢と呼吸を確認しながら進んでください。途中で砂袋を替えても、下ろして休んでも構いません。自分の状態を正しく判断することも訓練です」
近くにいた者同士で組むことになり、テンカとフィアナが向かい合った。
エリシアはミナと組み、ミナには軽量の砂袋を選んだ。
「ミナには、こちらがよさそうですわね」
「ありがとうございます、フロストレイン様」
フィアナは重量の砂袋へ手を伸ばした。
「そなたには、標準の方で十分ではないか」
「重量も規定の範囲内です」
「持てるかどうかを見る課題ではなかろう」
「3往復であれば、問題ありません」
フィアナは重量の砂袋を両腕で抱え上げた。
持ち上げる動作に迷いはなく、姿勢も崩れていない。
「ハヅキ様も、同じものを選ばれるのでしょう?」
「わらわの身体と、そなたの身体は違うぞ」
「承知しています。自分で判断した結果です」
テンカはそれ以上言わず、自分も重量の砂袋を持ち上げた。
開始の合図が鳴る。
最初の往路では、フィアナの動きに問題はなかった。
足を置く位置も、呼吸の間隔も一定に保たれている。折り返しでも砂袋を下ろさず、そのまま復路へ入った。
「まだ余裕がありそうじゃな」
「はい」
2往復目に入ると、フィアナの歩幅が少し狭くなった。
腕の中に抱えた砂袋の位置も、最初よりわずかに下がっている。それでもフィアナは速度を落とさず、前だけを見て歩いていた。
「オルフィス。いったん下ろせ」
「必要ありません」
「そなたの歩幅が変わっておる」
「誤差の範囲です」
「便利な言葉を次々と持っておるのう」
フィアナは答えず、3往復目へ入った。
折り返しまで、あと少し。白い手袋に覆われた指が砂袋の布地へ強く食い込み、呼吸は乱れていないものの、無理に整えているように見えた。
小さな段差へ足を乗せた時、フィアナの膝が揺れ、抱えていた砂袋が傾いた。
テンカは自分の砂袋を地面へ下ろし、横から手を伸ばした。落ちかけた袋の端を支える。
「触れないでください。まだ運べます」
「持てることは分かっておる」
テンカは砂袋から手を離さず、フィアナの前へ回った。
「退いてください」
「運び終えたあとに倒れれば、誰かがそなたまで運ぶことになるぞ」
「倒れません」
「仕事を減らすつもりが、増やしてどうする」
フィアナの灰紫色の瞳が、わずかに揺れた。
「オルフィスさん。そこで終了です」
教師の声が飛んできた。
「まだ規定の回数には達していません」
「自分の状態を把握するところまでが課題です。限界を越えることは、達成ではありません」
「続けられます」
「続けられるかどうかを決めるのは、今のあなたではありません。砂袋を下ろしてください」
フィアナの指が、砂袋の表面を強くつかんだ。
しばらくして、その力が緩む。
「……承知しました」
テンカが片側を支え、2人で砂袋を地面へ下ろした。
教師から休むよう命じられたフィアナは、演習場の端にある長椅子へ腰を下ろした。
背筋は伸びたままだったが、白い手袋に覆われた両手は膝の上で固く重なっている。
テンカは近くに置かれていた水筒を取り、フィアナへ差し出した。
「自分で持てると言うのであろうな」
「……はい」
「ならば、持て。飲むところまでは手伝わぬ」
フィアナは水筒を受け取った。
蓋を開け、一口だけ水を飲む。
「ハヅキ様」
「なんじゃ」
「なぜ、止めたのですか」
「同じ班の者が倒れれば困る」
「それだけですか」
テンカは首を傾げた。
「それ以外に、何が要る」
フィアナは答えなかった。
視線を落とし、水筒を両手で包み込む。
「休むことも、そなたの役目じゃ」
「役目……」
「倒れぬように自分を管理するのも、周りへ余計な仕事を増やさぬために必要であろう」
フィアナは、水筒の中へ視線を落としたまま小さく頷いた。
休憩を終えた後、学生たちは《武術修習班》と《基礎鍛錬班》へ分かれた。
テンカとエリシアが木剣を手に足運びの訓練へ向かう一方、ミナとフィアナは軽い砂袋を使った運搬訓練へ移る。
離れた場所から様子を窺うと、フィアナは教師に命じられた休息のたび、足を止めていた。
座り方はどこかぎこちなかったが、勝手に砂袋を重いものへ替えることもなかった。
身体鍛錬が終わり、4人は講義棟へ戻るため歩き出した。
「次の基礎魔術学は、属性変換と術の停止を繰り返す実技だそうです」
ミナが筆記帳を確認しながら言った。
「出力を上げるより、正確に切り替えることを見るらしいです」
「今度は魔術の持久力を試すのかしら」
エリシアの言葉に、フィアナの足が一瞬だけ止まった。
すぐに歩き出したものの、水筒を持つ白い手袋の指には力が入っている。
テンカは何も尋ねなかった。
フィアナも何も言わず、水筒を持ち直す。
白い手袋に包まれた指は、講義棟へ戻るまで固く強張ったままだった。
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