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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2部第2章 白い手袋と迷宮の灯
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それ以外に、何が要る

 身体鍛錬の授業は、演習場の外周を一定の速さで走るところから始まった。


「まずは全員で、指定された速さを保って外周を走ってください。その後、2人一組で運搬訓練を行います」


 教師が、学生たちを見渡す。


「共通訓練を終えた後、《武術修習班》と《基礎鍛錬班》に分かれます。見るのは速さではありません。自分の体力を把握し、最後まで動きを維持できるかです。周囲につられて速度を上げないように」


 合図とともに、学生たちが走り出した。


 テンカはエリシアと並び、指定された速度に合わせて足を運ぶ。身体を温める程度の速さであり、息が乱れるほどではない。


 少し後ろでは、ミナとフィアナが並んでいた。


 ミナは懸命に足を動かしているものの、走り慣れていないのか、次第に肩が上下し始める。


「アーレンさん。足を前へ伸ばそうとせず、身体の真下へ置いてください」


 フィアナが横から声をかけた。


「は、はい……」

「呼吸は足に合わせて。吸うことよりも、吐くことを意識してください」


 ミナの歩幅がわずかに狭まり、乱れていた呼吸が少しずつ整っていく。


 折り返しで後ろを見たテンカは、感心して眉を上げた。


 フィアナ自身の走りにも乱れはない。


 呼吸の間隔は一定で、顔にも疲労を見せていなかった。ただ、曲がり角へ差しかかるたび、白い手袋に覆われた右手が一度だけ強く握られていた。


 外周走を終え、教師が休憩を告げる。


 ミナは演習場の端へ移動し、長椅子へ腰を下ろした。


「つ、疲れました……」

「最初に速度を上げすぎています。最後まで同じ動きを続けるなら、もう少し余力を残すべきです」


 フィアナは休憩を告げられても座らず、学生たちが使った水差しへ手を伸ばした。


「オルフィス様も休んだ方が……」

「私は問題ありません」

「休憩中に動いておれば、それは休憩とは言わぬぞ」


 テンカが声をかけると、フィアナが振り返った。


「手が空いていましたので」

「休めと言われた時間に、手が空いておるのは当然じゃ」

「片づけておこうと思っただけです」

「教師から頼まれたのか?」

「いいえ」


 フィアナは手にしていた水差しへ目を落とした。


 返す言葉を探しているようだったが、教師から休憩終了の合図がかかるまで、その場へ座ろうとはしなかった。


 共通訓練の最後に運び出されたのは、大きさの異なる砂袋だった。


「次は2人一組になり、各自1つずつ砂袋を抱えて演習場を3往復します」


 教師が、軽量、標準、重量の砂袋を順に示す。


「速さは評価しません。相手の姿勢と呼吸を確認しながら進んでください。途中で砂袋を替えても、下ろして休んでも構いません。自分の状態を正しく判断することも訓練です」


 近くにいた者同士で組むことになり、テンカとフィアナが向かい合った。


 エリシアはミナと組み、ミナには軽量の砂袋を選んだ。


「ミナには、こちらがよさそうですわね」

「ありがとうございます、フロストレイン様」


 フィアナは重量の砂袋へ手を伸ばした。


「そなたには、標準の方で十分ではないか」

「重量も規定の範囲内です」

「持てるかどうかを見る課題ではなかろう」

「3往復であれば、問題ありません」


 フィアナは重量の砂袋を両腕で抱え上げた。


 持ち上げる動作に迷いはなく、姿勢も崩れていない。


「ハヅキ様も、同じものを選ばれるのでしょう?」

「わらわの身体と、そなたの身体は違うぞ」

「承知しています。自分で判断した結果です」


 テンカはそれ以上言わず、自分も重量の砂袋を持ち上げた。


 開始の合図が鳴る。


 最初の往路では、フィアナの動きに問題はなかった。

 足を置く位置も、呼吸の間隔も一定に保たれている。折り返しでも砂袋を下ろさず、そのまま復路へ入った。


「まだ余裕がありそうじゃな」

「はい」


 2往復目に入ると、フィアナの歩幅が少し狭くなった。


 腕の中に抱えた砂袋の位置も、最初よりわずかに下がっている。それでもフィアナは速度を落とさず、前だけを見て歩いていた。


「オルフィス。いったん下ろせ」

「必要ありません」

「そなたの歩幅が変わっておる」

「誤差の範囲です」

「便利な言葉を次々と持っておるのう」


 フィアナは答えず、3往復目へ入った。


 折り返しまで、あと少し。白い手袋に覆われた指が砂袋の布地へ強く食い込み、呼吸は乱れていないものの、無理に整えているように見えた。


 小さな段差へ足を乗せた時、フィアナの膝が揺れ、抱えていた砂袋が傾いた。


 テンカは自分の砂袋を地面へ下ろし、横から手を伸ばした。落ちかけた袋の端を支える。


「触れないでください。まだ運べます」

「持てることは分かっておる」


 テンカは砂袋から手を離さず、フィアナの前へ回った。


「退いてください」

「運び終えたあとに倒れれば、誰かがそなたまで運ぶことになるぞ」

「倒れません」

「仕事を減らすつもりが、増やしてどうする」


 フィアナの灰紫色の瞳が、わずかに揺れた。


「オルフィスさん。そこで終了です」


 教師の声が飛んできた。


「まだ規定の回数には達していません」

「自分の状態を把握するところまでが課題です。限界を越えることは、達成ではありません」

「続けられます」

「続けられるかどうかを決めるのは、今のあなたではありません。砂袋を下ろしてください」


 フィアナの指が、砂袋の表面を強くつかんだ。


 しばらくして、その力が緩む。


「……承知しました」


 テンカが片側を支え、2人で砂袋を地面へ下ろした。


 教師から休むよう命じられたフィアナは、演習場の端にある長椅子へ腰を下ろした。

 背筋は伸びたままだったが、白い手袋に覆われた両手は膝の上で固く重なっている。


 テンカは近くに置かれていた水筒を取り、フィアナへ差し出した。


「自分で持てると言うのであろうな」

「……はい」

「ならば、持て。飲むところまでは手伝わぬ」


 フィアナは水筒を受け取った。


 蓋を開け、一口だけ水を飲む。


「ハヅキ様」

「なんじゃ」

「なぜ、止めたのですか」

「同じ班の者が倒れれば困る」

「それだけですか」


 テンカは首を傾げた。


「それ以外に、何が要る」


 フィアナは答えなかった。


 視線を落とし、水筒を両手で包み込む。


「休むことも、そなたの役目じゃ」

「役目……」

「倒れぬように自分を管理するのも、周りへ余計な仕事を増やさぬために必要であろう」


 フィアナは、水筒の中へ視線を落としたまま小さく頷いた。


 休憩を終えた後、学生たちは《武術修習班》と《基礎鍛錬班》へ分かれた。


 テンカとエリシアが木剣を手に足運びの訓練へ向かう一方、ミナとフィアナは軽い砂袋を使った運搬訓練へ移る。


 離れた場所から様子を窺うと、フィアナは教師に命じられた休息のたび、足を止めていた。

 座り方はどこかぎこちなかったが、勝手に砂袋を重いものへ替えることもなかった。


 身体鍛錬が終わり、4人は講義棟へ戻るため歩き出した。


「次の基礎魔術学は、属性変換と術の停止を繰り返す実技だそうです」


 ミナが筆記帳を確認しながら言った。


「出力を上げるより、正確に切り替えることを見るらしいです」

「今度は魔術の持久力を試すのかしら」


 エリシアの言葉に、フィアナの足が一瞬だけ止まった。


 すぐに歩き出したものの、水筒を持つ白い手袋の指には力が入っている。


 テンカは何も尋ねなかった。

 フィアナも何も言わず、水筒を持ち直す。


 白い手袋に包まれた指は、講義棟へ戻るまで固く強張ったままだった。

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