幕間 ルルの観光案内「旅の始まりは甘いものから」
昼の賑わいが一段落した甘味処「フクキタル」で、ルルは空いた卓を拭いていた。
ルルの猫耳が、店先を行き交う人々の声を拾って動く。
商談を終えたらしい商人たち。荷車を引く職人。買い物籠を提げた主婦。領都へ着いたばかりなのか、大きな鞄を背負って物珍しそうに辺りを見回す旅人もいる。
白壁や石造りの建物の間に、反りのある瓦屋根が並んでいる。
洋装の商人の横を、袴に似た装束を纏った武官が通り過ぎる。
ルルにとっては見慣れた光景だが、初めて訪れた者には、ずいぶん珍しく映るらしい。
「ルル。少しいいか」
店の奥から、店主のコリンズが呼んだ。
「はーい。今行くにゃ」
卓を拭き終えたルルは、布巾を片づけて奥へ向かう。
コリンズの前には、見慣れない女性が座っていた。
年齢は30歳前後だろうか。焦げ茶色の髪を後ろでまとめ、深緑の上着を隙なく着こなしている。卓の上には革鞄と、紙の束が置かれていた。
一見すると商人のようだ。けれど、品物を売り込みに来た者とは少し雰囲気が違った。
「この人が、先ほどお話ししたルルです」
コリンズに紹介され、ルルは女性の向かいへ座った。
「初めまして。彩宮書店で旅案内書の制作を担当している、シエナと申します」
「ルルにゃ。フクキタルで給仕をしてるにゃ」
差し出された手を握る。
シエナの目が、ルルの猫耳から尻尾へ一度だけ動いた。
珍しがられることには慣れている。露骨に見つめられなかっただけで、ルルからすれば好印象だった。
「彩宮書店といえば、大通りにある大きな本屋さんにゃ?」
「ええ。領都に本店を置き、書籍の販売だけでなく、地図や実用書の出版も行っています」
「それで、ルルに何の用にゃ?」
尋ねると、シエナは卓上の冊子を差し出した。
表紙には、ハヅキ辺境伯領の地図と、刀を腰に差した旅人の姿が描かれている。
『初めて巡るハヅキ辺境伯領』
ルルは冊子を開いた。
領都へ入るための街道。宿の選び方。市場で扱われる品々。領内で守るべき決まり。
役に立ちそうな情報は多い。
ところが、読み進めるうちに、ルルの耳が少しずつ横へ倒れていった。
「ずいぶん硬い本にゃ」
「やはり、そう思いますか」
「間違ったことは書いてないにゃ。でも、これを読んでハヅキ領へ行きたいと思うかは、ちょっと分からないにゃ」
領都の建物は、皇国式と武蔵ノ原式の意匠が混ざっている。
市場には東西の品々が集まり、味噌や醤油に似た調味料を使った料理もあれば、皇国式の焼き菓子や煮込み料理も並ぶ。
季節ごとに祭りがあり、街道を行けば田畑や森の風景が変わっていく。
この冊子に書かれているのは、それらの名前と場所ばかりだった。
匂いも、味も、人の声も載っていない。
「この案内書が作られたのは、かなり前です」
シエナが冊子の表紙を指で撫でる。
「領内の道や店も変わり、旅人から寄せられる質問も増えました。そこで、内容を一から見直すことになったのです」
「ふむふむ。それは大仕事にゃ」
「その手伝いを、あなたにお願いしたいと思っています」
ルルは瞬きをした。
遅れて意味を理解し、猫耳がぴんと立つ。
「あたしが、本を書くのかにゃ?」
「完成原稿を書いていただくわけではありません。領都や領内の名所を巡り、そこで見聞きしたことを、あなたの言葉で草稿にしてほしいのです。文章はこちらで整えます」
「でも、どうしてルルにゃ?」
ルルは本屋で働いたことも、案内書を書いたこともない。
文字の読み書きはできる。店の注文や仕入れを書き留めることもある。
だからといって、本に載せる文章を書くとなれば話は別だ。
「この店には、領外から来た方も多く訪れますね」
「そうだにゃ。商人さんも、旅人さんも、探索者さんも来るにゃ」
「あなたは、その方々からよく質問を受けていると聞きました。宿はどこがよいか。市場では何を買うべきか。初めて食べるなら、どの菓子を選べばよいか」
シエナの視線が、店の中を巡る。
「そして、あなた自身も、生まれた時からハヅキ領で暮らしていたわけではない」
ルルの尻尾が、ゆっくりと止まった。
幼い頃、母や兄弟姉妹とともに故郷を離れた。
長い旅の末、ファールン皇国へ流れ着き、その後にハヅキ領で暮らすようになった。
初めて見た領都のことを、ルルは今も覚えている。
反りのある屋根。
炊きたての米の匂い。
聞き慣れない言葉を使う人々。
獣人の自分たちを見て驚きながらも、領民たちは道を空け、役所の場所を教えてくれた。
「外から来た方が何に驚き、何に困り、何を好きになるのか。あなたなら、その両方が分かるのではありませんか」
「……なるほどにゃ」
生まれた時から住んでいる者には当たり前でも、外から来た者には珍しいものがある。
反対に、領民が自慢したくなる立派な建物より、旅人には小さな茶屋や道端の景色の方が忘れがたいこともある。
店で客の話を聞いてきたルルには、その感覚が少し分かった。
「まずは試しに、1か所だけ草稿をお願いしたいと思っています」
シエナは新しい紙と、短い鉛筆を卓へ置いた。
「最初の課題は、領都へ初めて来た方へ紹介したい場所です。有名な場所でなくても構いません。あなたが、最初に連れていきたい場所を選んでください」
「店のことはこちらに任せて、見てきなさい」
コリンズに送り出され、ルルは紙を持ってシエナとともに店の外へ出た。
大通りには、午後の陽射しが降り注いでいる。
石畳の両側には商店が連なり、店先から威勢のよい呼び声が飛んでいた。干した魚、色鮮やかな布、農村から届いた野菜、魔物の素材を加工した道具が所狭しと並んでいる。
道の向こうには、武蔵ノ原風の楼門を思わせる屋根が見えた。その隣には、皇国式の石造建築が立っている。
「観光なら、まずは市場かにゃ」
ルルは市場を見回しながら、紙へ言葉を書き留めた。
市場。
賑やか。
いろいろな匂いがする。
書いてから、首を傾げた。
「いろいろな匂いでは、何も分かりませんね」
横から覗き込んだシエナが言った。
「分かってるにゃ。今から考えるところにゃ」
魚を焼く香り。
出汁の利いた汁物。
香辛料を振った肉。
蒸し上げた米。
書き始めると、今度は紙が食べ物の名前ばかりになった。
「市場というより、食事の案内になっています」
「旅先で何を食べるかは大事にゃ」
「否定はしません」
シエナの口元が、ほんの少し緩んだ。
市場を抜けた先の水路沿いの景色も、旅人向けの宿も、天巡神社へ続く道も悪くない。
紹介したい場所は、いくらでもあった。
それなのに、最初の一つが決まらない。
「難しい顔をしていますね」
「最初に紹介する場所だからにゃ。ハヅキ領へ来てよかったと思える場所がいいにゃ」
「では、あなたが初めてこの街で、来てよかったと思ったのはどこですか」
シエナに問われ、ルルは足を止めた。
遠い記憶を探す必要はなかった。腹を空かせた弟妹たちと、慣れない土地で周囲を警戒していた母の姿が浮かぶ。
そんな家族へ、近所の者が湯気の立つ食べ物を差し入れてくれた。両手で割ると、白い生地の中から甘い餡が現れた。
温かくて、柔らかくて、甘かった。
「決めたにゃ」
ルルは来た道を振り返った。
「戻るにゃ」
「どこへですか?」
「最初に紹介する場所へにゃ」
ルルが向かったのは、彩宮書店でも、市場でも、立派な楼門でもなかった。
「福来」と染め抜かれたのれんが下がる、いつもの店。
甘味処「フクキタル」。
店へ戻ると、コリンズが厨房から顔を出した。
「ずいぶん早かったですね。もう場所は決まったのですか?」
「決まったにゃ。最初は、ここにするにゃ」
コリンズは目を瞬かせた。
「当店を?」
「身内びいきでしょうか」
シエナが尋ねる。
「違うにゃ」
ルルは即座に答えたものの、少し考えてから耳を伏せた。
「ちょっとは、そうかもしれないにゃ。でも、旅の最初は難しい話より、温かいお茶と甘いものの方がいいにゃ」
知らない街へ来れば、誰だって緊張する。
どこへ行けばよいのか分からず、周囲の声や視線が怖くなることもある。
そんな時に、椅子へ座り、温かいものを口にすれば、ようやく息をつける。
「ここなら、お茶を飲みながら、この後どこへ行くか考えられるにゃ。分からないことがあれば、あたしが教えるにゃ」
「なるほど」
シエナは頷いた。
「では、最初の記事はフクキタルにしましょう」
「本当に、よろしいのですか?」
コリンズの声音が、わずかに硬くなった。
その目は、すでに菓子職人のものへ変わっている。
「案内書に載るのであれば、中途半端な品は出せません。饅頭の生地から見直す必要がありますね」
「いつものでも十分おいしいにゃ!」
「十分では困ります。初めて食べる方にとって、それが当店の基準になるのですよ」
「また始まったにゃ……」
ルルは肩を落とした。
コリンズは厨房へ戻り、早くも蒸し器の状態を確認し始めている。
シエナはその様子を眺めてから、ルルへ鉛筆を差し出した。
「まずは、あなたがこの店を勧める理由を書いてみてください」
ルルは店の隅の卓へ座り、真新しい紙を前にした。
書き出しを考える。
領都の歴史から始めるべきか。
フクキタルの場所を説明するべきか。
饅頭の作り方を書いた方がよいだろうか。
しばらく悩んだ末、ルルは鉛筆を走らせた。
――ハヅキ辺境伯領へようこそ。
――旅の始まりには、まず温かいお茶と、蒸したての饅頭をどうぞ。
そこまで書いて、ルルは満足げに頷く。
「うん。これなら、ハヅキ領へ来たくなるにゃ」
シエナが草稿を覗き込み、静かに微笑んだ。
「よい書き出しです。次は、実際に饅頭を食べた感想も入れましょう」
「任せるにゃ。味見なら得意にゃ」
厨房から、コリンズの声が飛んできた。
「味見は一つまでです」
「観光案内のためにゃ。たくさん食べないと、正しく紹介できないにゃ!」
「一つで十分です」
譲る気配のない返事に、ルルの耳がしょんぼりと倒れる。
店内には、蒸し上がる饅頭の甘い香りが漂い始めていた。
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