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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2部第1章 幕間
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幕間 ルルの観光案内「旅の始まりは甘いものから」

 昼の賑わいが一段落した甘味処「フクキタル」で、ルルは空いた卓を拭いていた。


 ルルの猫耳が、店先を行き交う人々の声を拾って動く。


 商談を終えたらしい商人たち。荷車を引く職人。買い物籠を提げた主婦。領都へ着いたばかりなのか、大きな鞄を背負って物珍しそうに辺りを見回す旅人もいる。


 白壁や石造りの建物の間に、反りのある瓦屋根が並んでいる。

 洋装の商人の横を、袴に似た装束を纏った武官が通り過ぎる。


 ルルにとっては見慣れた光景だが、初めて訪れた者には、ずいぶん珍しく映るらしい。


「ルル。少しいいか」


 店の奥から、店主のコリンズが呼んだ。


「はーい。今行くにゃ」


 卓を拭き終えたルルは、布巾を片づけて奥へ向かう。


 コリンズの前には、見慣れない女性が座っていた。


 年齢は30歳前後だろうか。焦げ茶色の髪を後ろでまとめ、深緑の上着を隙なく着こなしている。卓の上には革鞄と、紙の束が置かれていた。


 一見すると商人のようだ。けれど、品物を売り込みに来た者とは少し雰囲気が違った。


「この人が、先ほどお話ししたルルです」


 コリンズに紹介され、ルルは女性の向かいへ座った。


「初めまして。彩宮さいぐう書店で旅案内書の制作を担当している、シエナと申します」

「ルルにゃ。フクキタルで給仕をしてるにゃ」


 差し出された手を握る。


 シエナの目が、ルルの猫耳から尻尾へ一度だけ動いた。


 珍しがられることには慣れている。露骨に見つめられなかっただけで、ルルからすれば好印象だった。


「彩宮書店といえば、大通りにある大きな本屋さんにゃ?」

「ええ。領都に本店を置き、書籍の販売だけでなく、地図や実用書の出版も行っています」

「それで、ルルに何の用にゃ?」


 尋ねると、シエナは卓上の冊子を差し出した。


 表紙には、ハヅキ辺境伯領の地図と、刀を腰に差した旅人の姿が描かれている。


『初めて巡るハヅキ辺境伯領』


 ルルは冊子を開いた。


 領都へ入るための街道。宿の選び方。市場で扱われる品々。領内で守るべき決まり。


 役に立ちそうな情報は多い。


 ところが、読み進めるうちに、ルルの耳が少しずつ横へ倒れていった。


「ずいぶん硬い本にゃ」

「やはり、そう思いますか」

「間違ったことは書いてないにゃ。でも、これを読んでハヅキ領へ行きたいと思うかは、ちょっと分からないにゃ」


 領都の建物は、皇国式と武蔵ノ原式の意匠が混ざっている。


 市場には東西の品々が集まり、味噌や醤油に似た調味料を使った料理もあれば、皇国式の焼き菓子や煮込み料理も並ぶ。


 季節ごとに祭りがあり、街道を行けば田畑や森の風景が変わっていく。


 この冊子に書かれているのは、それらの名前と場所ばかりだった。


 匂いも、味も、人の声も載っていない。


「この案内書が作られたのは、かなり前です」


 シエナが冊子の表紙を指で撫でる。


「領内の道や店も変わり、旅人から寄せられる質問も増えました。そこで、内容を一から見直すことになったのです」

「ふむふむ。それは大仕事にゃ」

「その手伝いを、あなたにお願いしたいと思っています」


 ルルは瞬きをした。


 遅れて意味を理解し、猫耳がぴんと立つ。


「あたしが、本を書くのかにゃ?」

「完成原稿を書いていただくわけではありません。領都や領内の名所を巡り、そこで見聞きしたことを、あなたの言葉で草稿にしてほしいのです。文章はこちらで整えます」

「でも、どうしてルルにゃ?」


 ルルは本屋で働いたことも、案内書を書いたこともない。


 文字の読み書きはできる。店の注文や仕入れを書き留めることもある。


 だからといって、本に載せる文章を書くとなれば話は別だ。


「この店には、領外から来た方も多く訪れますね」

「そうだにゃ。商人さんも、旅人さんも、探索者さんも来るにゃ」

「あなたは、その方々からよく質問を受けていると聞きました。宿はどこがよいか。市場では何を買うべきか。初めて食べるなら、どの菓子を選べばよいか」


 シエナの視線が、店の中を巡る。


「そして、あなた自身も、生まれた時からハヅキ領で暮らしていたわけではない」


 ルルの尻尾が、ゆっくりと止まった。


 幼い頃、母や兄弟姉妹とともに故郷を離れた。


 長い旅の末、ファールン皇国へ流れ着き、その後にハヅキ領で暮らすようになった。


 初めて見た領都のことを、ルルは今も覚えている。


 反りのある屋根。

 炊きたての米の匂い。

 聞き慣れない言葉を使う人々。


 獣人の自分たちを見て驚きながらも、領民たちは道を空け、役所の場所を教えてくれた。


「外から来た方が何に驚き、何に困り、何を好きになるのか。あなたなら、その両方が分かるのではありませんか」

「……なるほどにゃ」


 生まれた時から住んでいる者には当たり前でも、外から来た者には珍しいものがある。


 反対に、領民が自慢したくなる立派な建物より、旅人には小さな茶屋や道端の景色の方が忘れがたいこともある。


 店で客の話を聞いてきたルルには、その感覚が少し分かった。


「まずは試しに、1か所だけ草稿をお願いしたいと思っています」


 シエナは新しい紙と、短い鉛筆を卓へ置いた。


「最初の課題は、領都へ初めて来た方へ紹介したい場所です。有名な場所でなくても構いません。あなたが、最初に連れていきたい場所を選んでください」

「店のことはこちらに任せて、見てきなさい」


 コリンズに送り出され、ルルは紙を持ってシエナとともに店の外へ出た。


 大通りには、午後の陽射しが降り注いでいる。


 石畳の両側には商店が連なり、店先から威勢のよい呼び声が飛んでいた。干した魚、色鮮やかな布、農村から届いた野菜、魔物の素材を加工した道具が所狭しと並んでいる。


 道の向こうには、武蔵ノ原風の楼門を思わせる屋根が見えた。その隣には、皇国式の石造建築が立っている。


「観光なら、まずは市場かにゃ」


 ルルは市場を見回しながら、紙へ言葉を書き留めた。


 市場。

 賑やか。

 いろいろな匂いがする。


 書いてから、首を傾げた。


「いろいろな匂いでは、何も分かりませんね」


 横から覗き込んだシエナが言った。


「分かってるにゃ。今から考えるところにゃ」


 魚を焼く香り。

 出汁の利いた汁物。

 香辛料を振った肉。

 蒸し上げた米。


 書き始めると、今度は紙が食べ物の名前ばかりになった。


「市場というより、食事の案内になっています」

「旅先で何を食べるかは大事にゃ」

「否定はしません」


 シエナの口元が、ほんの少し緩んだ。


 市場を抜けた先の水路沿いの景色も、旅人向けの宿も、天巡神社へ続く道も悪くない。


 紹介したい場所は、いくらでもあった。

 それなのに、最初の一つが決まらない。


「難しい顔をしていますね」

「最初に紹介する場所だからにゃ。ハヅキ領へ来てよかったと思える場所がいいにゃ」

「では、あなたが初めてこの街で、来てよかったと思ったのはどこですか」


 シエナに問われ、ルルは足を止めた。


 遠い記憶を探す必要はなかった。腹を空かせた弟妹たちと、慣れない土地で周囲を警戒していた母の姿が浮かぶ。


 そんな家族へ、近所の者が湯気の立つ食べ物を差し入れてくれた。両手で割ると、白い生地の中から甘い餡が現れた。


 温かくて、柔らかくて、甘かった。


「決めたにゃ」


 ルルは来た道を振り返った。


「戻るにゃ」

「どこへですか?」

「最初に紹介する場所へにゃ」


 ルルが向かったのは、彩宮書店でも、市場でも、立派な楼門でもなかった。


 「福来」と染め抜かれたのれんが下がる、いつもの店。


 甘味処「フクキタル」。


 店へ戻ると、コリンズが厨房から顔を出した。


「ずいぶん早かったですね。もう場所は決まったのですか?」

「決まったにゃ。最初は、ここにするにゃ」


 コリンズは目を瞬かせた。


「当店を?」

「身内びいきでしょうか」


 シエナが尋ねる。


「違うにゃ」


 ルルは即座に答えたものの、少し考えてから耳を伏せた。


「ちょっとは、そうかもしれないにゃ。でも、旅の最初は難しい話より、温かいお茶と甘いものの方がいいにゃ」


 知らない街へ来れば、誰だって緊張する。


 どこへ行けばよいのか分からず、周囲の声や視線が怖くなることもある。


 そんな時に、椅子へ座り、温かいものを口にすれば、ようやく息をつける。


「ここなら、お茶を飲みながら、この後どこへ行くか考えられるにゃ。分からないことがあれば、あたしが教えるにゃ」

「なるほど」


 シエナは頷いた。


「では、最初の記事はフクキタルにしましょう」

「本当に、よろしいのですか?」


 コリンズの声音が、わずかに硬くなった。


 その目は、すでに菓子職人のものへ変わっている。


「案内書に載るのであれば、中途半端な品は出せません。饅頭の生地から見直す必要がありますね」

「いつものでも十分おいしいにゃ!」

「十分では困ります。初めて食べる方にとって、それが当店の基準になるのですよ」

「また始まったにゃ……」


 ルルは肩を落とした。


 コリンズは厨房へ戻り、早くも蒸し器の状態を確認し始めている。


 シエナはその様子を眺めてから、ルルへ鉛筆を差し出した。


「まずは、あなたがこの店を勧める理由を書いてみてください」


 ルルは店の隅の卓へ座り、真新しい紙を前にした。


 書き出しを考える。


 領都の歴史から始めるべきか。

 フクキタルの場所を説明するべきか。

 饅頭の作り方を書いた方がよいだろうか。


 しばらく悩んだ末、ルルは鉛筆を走らせた。


 ――ハヅキ辺境伯領へようこそ。


 ――旅の始まりには、まず温かいお茶と、蒸したての饅頭をどうぞ。


 そこまで書いて、ルルは満足げに頷く。


「うん。これなら、ハヅキ領へ来たくなるにゃ」


 シエナが草稿を覗き込み、静かに微笑んだ。


「よい書き出しです。次は、実際に饅頭を食べた感想も入れましょう」

「任せるにゃ。味見なら得意にゃ」


 厨房から、コリンズの声が飛んできた。


「味見は一つまでです」

「観光案内のためにゃ。たくさん食べないと、正しく紹介できないにゃ!」

「一つで十分です」


 譲る気配のない返事に、ルルの耳がしょんぼりと倒れる。


 店内には、蒸し上がる饅頭の甘い香りが漂い始めていた。

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