幕間 姫さまと大浴場
その日の夕食後、テンカはエリシアとミナを連れ、皇国学園寮区の中央棟へ向かった。
目的地は大浴場。
東棟の上級貴族用区画には専用の洗面室があるものの、身体を流す程度の設備しかない。広い湯船へ浸かりたければ、中央棟の浴場を使うことになる。
「本当に、私もご一緒してよいのでしょうか」
大浴場の入口を前にして、ミナが足を止めた。
「ここまで来て何を言っておる」
テンカが振り返る。
「ですが、テンカ様とフロストレイン様は上級貴族用区画で、私は一般学生の部屋ですし……」
「浴場に部屋の等級を持ち込む者がおるか」
「そういう意味ではありませんけど」
「では、何も問題はなかろう」
テンカは迷いなく浴場の扉へ手をかけた。
「食堂と同じじゃ。寮の者が使ってよい場所ならば、そなたも使えばよい」
「テンカの言う通りですわ」
エリシアも涼やかに続ける。
「それとも、わたくしたちと入るのは嫌ですの?」
「そんなことはありません!」
ミナは勢いよく答えた。
浴場の中から出てきた学生たちが驚いたようにこちらを見る。ミナは声の大きさに気づき、耳まで赤くした。
「では決まりじゃな」
「最初から、断らせる気はありませんでしたわね」
「当然じゃ」
テンカは満足げに頷き、3人で脱衣所へ入った。
学園の大浴場は、ハヅキ家の浴場よりも広かった。
石造りの壁には湿気を逃がすための細い窓が並び、天井近くには淡い光を放つ魔導灯が据えられている。奥には大きな湯船があり、白い湯気が浴場いっぱいに漂っていた。
テンカは長い黒髪をまとめながら、胸の内で小さく息を吐いた。
前世の記憶を取り戻したばかりの頃は、自分の身体を見るだけでも戸惑ったものだ。
鏡の前に立てば、見慣れない少女が映る。
湯浴みをすれば、視線をどこへ置けばよいのか分からない。
男として生きてきた記憶があるのだから、無理もなかった。
あれから5年。
今のテンカに、かつての動揺はない。
この身体は自分のものだ。髪を洗うのも、肌を手入れするのも、日々の暮らしの一部に過ぎない。
今や、心は静かな水面のごとく澄み渡っている。
いわば、仏の境地であった。
「テンカ。先ほどから、何を悟ったような顔をしていますの?」
エリシアの声に、テンカは振り向いた。
「何でもない。少し己の成長を振り返っていただけじゃ」
「脱衣所でする顔ではありませんわね」
「場所は関係なかろう」
そう答えながら、テンカはエリシアを見る。
背丈は、自分の方がわずかに高い。皇国学園へ入学してから並んで歩く機会が増え、その事実はすでに何度も確認していた。
ほんの少しではあるが、確実にテンカの方が高い。そこには満足している。
問題は、その下だった。
「……エリー」
「何ですの?」
エリシアが髪をまとめながら振り返る。
「そなた、わらわより背が低いであろう」
「わずかに、ですわね」
「なぜ、そのように勝ち誇った顔をしておる」
「していませんわ」
「しておる」
エリシアの目元には、かすかな余裕があった。
視線の先に気づいたのだろう。
「人の成長には、それぞれ順番というものがありますの」
「まだ何も言っておらぬぞ」
「顔に書いてありますわ」
「むう……」
納得がいかない。
背丈では自分が上で、日々の鍛錬量でもまず負けていない。食事もきちんと取っている。
それなのに、どうして胸元ではエリシアの方が明確に先を進んでいるのか。
五行の巡りにも、これほど理不尽な偏りはない。
「鍛錬では、どうにもならぬものなのか」
「何を鍛えるつもりですの?」
「分からぬから聞いておる」
「少なくとも、刀を振っても変わらないと思いますわ」
「断言するでない」
仏の境地は、早くも揺らぎ始めていた。
「あの、お二人とも」
遠慮がちな声がした。
テンカとエリシアが同時に振り向く。
そこには、浴場へ入る準備を終えたミナが立っていた。
白い湯気が、開いた扉の向こうから流れ込んでくる。
テンカとエリシアは、揃って黙り込んだ。
「どうかしましたか?」
ミナが不安そうに自分の身体を見下ろす。
「何か、おかしいでしょうか」
「ミナ」
「はい」
「そなた、隠し事をしておったな」
「隠し事ですか?」
ミナは目を瞬かせた。
エリシアが静かにミナの右側へ回る。テンカも左側へ立った。
「制服を着ている時には分かりませんでしたわ」
「何がですか?」
「しらを切るでない」
「何の話ですか!?」
左右から顔を寄せられ、ミナが一歩下がる。
「お二人とも、目が怖いです!」
「失礼ですわね。わたくしは冷静に確認しているだけです」
「エリー、そなたも十分に気にしておるではないか」
エリシアは小さく首を傾げた。
「……それとこれとは別ですわ」
普段と変わらぬ涼やかな声なのに、なぜか今ばかりは妙な迫力があった。
ミナはテンカとエリシアの視線を順に追い、ようやく何を見られているのか理解したらしい。
瞬く間に顔が赤くなった。
「こ、これは秘密ではありません!」
「ならば何じゃ」
「ただの身体です!」
「なぜ、そなたが一番なのじゃ」
「私に聞かないでください!」
ミナの声が脱衣所に響いた。
近くにいた女子学生たちが、何事かと振り返る。
ミナは慌てて両手で口を押さえた。
「お二人とも、ひどいです……」
「わらわは、ただ事実を確認しておるだけじゃ」
「それを世間では、絡んでいると言いますわ」
「エリーも同じであろう」
「わたくしは観察しているだけです」
「卑怯な言い方をするでない」
テンカが抗議すると、エリシアは涼しい顔のまま浴場へ向かった。
「いつまでもここに立っていては、身体が冷えますわ」
「言うだけ言って逃げおったな」
「テンカ様も同じです!」
ミナに叱られ、テンカは口を閉じた。
反論はできなかった。
3人は身体を洗い、湯気の満ちた浴場を進んだ。
大きな湯船には、すでに何人かの学生が浸かっている。テンカたちは少し端の空いている場所を選び、並んで湯へ入った。
「ふう……」
肩まで湯に浸かると、身体から力が抜けていく。
授業と鍛錬で疲れた筋肉へ、温かさが染み込んだ。
「よい湯じゃな」
「先ほどまで騒いでいた方とは思えませんわね」
「湯船でまで争う気はない」
「私とは争っていましたけど……」
ミナが湯の中で小さくなっている。
「悪かった、ミナ」
「本当にそう思っていますか?」
「うむ。少しだけ」
「少しだけなのですね」
「正直でよかろう」
ミナが頬を膨らませた。
その仕草を見て、テンカは目を細めた。入学したばかりの頃のミナは、いつも周囲を気にしていた。
貴族の前で失礼がないか、自分が同じ場所にいてよいのか、何か言えば誰かの気分を害さないかと、常に様子を窺っていた。
今も呼び方や言葉遣いは変わらない。それでも、こうして遠慮なく頬を膨らませられるほどには、2人の前で力を抜けるようになっていた。
「ミナ」
「何ですか」
「そなた、少し変わったのう」
「また身体の話ですか?」
「違うわ!」
思わず声を上げると、エリシアが口元を押さえた。
笑っている。
「エリー、そなた」
「失礼。あまりに間がよかったものですから」
「フロストレイン様まで……」
ミナは困ったような顔をした後、堪えきれなくなったのか、小さく笑った。エリシアも声を漏らし、テンカもつられて笑う。湯気の向こうで、3人の笑い声が重なった。
3人で入る湯は、1人で静かに浸かるよりもずいぶん騒がしい。それでも、悪くない。
テンカは湯船の縁へ背を預けた。
「それにしても、納得がいかぬ」
「まだ言いますの?」
「何がですか?」
「ミナは知らずともよい」
「ここまで言われて、知らずにいられると思いますか!」
「ならば答えよ。何を食べれば、そのように育つ」
「知りません!」
大浴場に、再びミナの声が響いた。
以前なら、これほど遠慮なく声を上げることもなかっただろう。
テンカは叱られながら、少しだけ口元を緩めた。
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