表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2部第1章 幕間
112/127

幕間 姫さまと大浴場

 その日の夕食後、テンカはエリシアとミナを連れ、皇国学園寮区の中央棟へ向かった。


 目的地は大浴場。


 東棟の上級貴族用区画には専用の洗面室があるものの、身体を流す程度の設備しかない。広い湯船へ浸かりたければ、中央棟の浴場を使うことになる。


「本当に、私もご一緒してよいのでしょうか」


 大浴場の入口を前にして、ミナが足を止めた。


「ここまで来て何を言っておる」


 テンカが振り返る。


「ですが、テンカ様とフロストレイン様は上級貴族用区画で、私は一般学生の部屋ですし……」

「浴場に部屋の等級を持ち込む者がおるか」

「そういう意味ではありませんけど」

「では、何も問題はなかろう」


 テンカは迷いなく浴場の扉へ手をかけた。


「食堂と同じじゃ。寮の者が使ってよい場所ならば、そなたも使えばよい」

「テンカの言う通りですわ」


 エリシアも涼やかに続ける。


「それとも、わたくしたちと入るのは嫌ですの?」

「そんなことはありません!」


 ミナは勢いよく答えた。


 浴場の中から出てきた学生たちが驚いたようにこちらを見る。ミナは声の大きさに気づき、耳まで赤くした。


「では決まりじゃな」

「最初から、断らせる気はありませんでしたわね」

「当然じゃ」


 テンカは満足げに頷き、3人で脱衣所へ入った。


 学園の大浴場は、ハヅキ家の浴場よりも広かった。


 石造りの壁には湿気を逃がすための細い窓が並び、天井近くには淡い光を放つ魔導灯が据えられている。奥には大きな湯船があり、白い湯気が浴場いっぱいに漂っていた。


 テンカは長い黒髪をまとめながら、胸の内で小さく息を吐いた。


 前世の記憶を取り戻したばかりの頃は、自分の身体を見るだけでも戸惑ったものだ。


 鏡の前に立てば、見慣れない少女が映る。

 湯浴みをすれば、視線をどこへ置けばよいのか分からない。

 男として生きてきた記憶があるのだから、無理もなかった。


 あれから5年。


 今のテンカに、かつての動揺はない。

 この身体は自分のものだ。髪を洗うのも、肌を手入れするのも、日々の暮らしの一部に過ぎない。


 今や、心は静かな水面のごとく澄み渡っている。


 いわば、仏の境地であった。


「テンカ。先ほどから、何を悟ったような顔をしていますの?」


 エリシアの声に、テンカは振り向いた。


「何でもない。少し己の成長を振り返っていただけじゃ」

「脱衣所でする顔ではありませんわね」

「場所は関係なかろう」


 そう答えながら、テンカはエリシアを見る。


 背丈は、自分の方がわずかに高い。皇国学園へ入学してから並んで歩く機会が増え、その事実はすでに何度も確認していた。


 ほんの少しではあるが、確実にテンカの方が高い。そこには満足している。


 問題は、その下だった。


「……エリー」

「何ですの?」


 エリシアが髪をまとめながら振り返る。


「そなた、わらわより背が低いであろう」

「わずかに、ですわね」

「なぜ、そのように勝ち誇った顔をしておる」

「していませんわ」

「しておる」


 エリシアの目元には、かすかな余裕があった。


 視線の先に気づいたのだろう。


「人の成長には、それぞれ順番というものがありますの」

「まだ何も言っておらぬぞ」

「顔に書いてありますわ」

「むう……」


 納得がいかない。


 背丈では自分が上で、日々の鍛錬量でもまず負けていない。食事もきちんと取っている。

 それなのに、どうして胸元ではエリシアの方が明確に先を進んでいるのか。


 五行の巡りにも、これほど理不尽な偏りはない。


「鍛錬では、どうにもならぬものなのか」

「何を鍛えるつもりですの?」

「分からぬから聞いておる」

「少なくとも、刀を振っても変わらないと思いますわ」

「断言するでない」


 仏の境地は、早くも揺らぎ始めていた。


「あの、お二人とも」


 遠慮がちな声がした。


 テンカとエリシアが同時に振り向く。


 そこには、浴場へ入る準備を終えたミナが立っていた。


 白い湯気が、開いた扉の向こうから流れ込んでくる。


 テンカとエリシアは、揃って黙り込んだ。


「どうかしましたか?」


 ミナが不安そうに自分の身体を見下ろす。


「何か、おかしいでしょうか」

「ミナ」

「はい」

「そなた、隠し事をしておったな」

「隠し事ですか?」


 ミナは目を瞬かせた。


 エリシアが静かにミナの右側へ回る。テンカも左側へ立った。


「制服を着ている時には分かりませんでしたわ」

「何がですか?」

「しらを切るでない」

「何の話ですか!?」


 左右から顔を寄せられ、ミナが一歩下がる。


「お二人とも、目が怖いです!」

「失礼ですわね。わたくしは冷静に確認しているだけです」

「エリー、そなたも十分に気にしておるではないか」


 エリシアは小さく首を傾げた。


「……それとこれとは別ですわ」


 普段と変わらぬ涼やかな声なのに、なぜか今ばかりは妙な迫力があった。


 ミナはテンカとエリシアの視線を順に追い、ようやく何を見られているのか理解したらしい。


 瞬く間に顔が赤くなった。


「こ、これは秘密ではありません!」

「ならば何じゃ」

「ただの身体です!」

「なぜ、そなたが一番なのじゃ」

「私に聞かないでください!」


 ミナの声が脱衣所に響いた。


 近くにいた女子学生たちが、何事かと振り返る。


 ミナは慌てて両手で口を押さえた。


「お二人とも、ひどいです……」

「わらわは、ただ事実を確認しておるだけじゃ」

「それを世間では、絡んでいると言いますわ」

「エリーも同じであろう」

「わたくしは観察しているだけです」

「卑怯な言い方をするでない」


 テンカが抗議すると、エリシアは涼しい顔のまま浴場へ向かった。


「いつまでもここに立っていては、身体が冷えますわ」

「言うだけ言って逃げおったな」

「テンカ様も同じです!」


 ミナに叱られ、テンカは口を閉じた。


 反論はできなかった。


 3人は身体を洗い、湯気の満ちた浴場を進んだ。


 大きな湯船には、すでに何人かの学生が浸かっている。テンカたちは少し端の空いている場所を選び、並んで湯へ入った。


「ふう……」


 肩まで湯に浸かると、身体から力が抜けていく。


 授業と鍛錬で疲れた筋肉へ、温かさが染み込んだ。


「よい湯じゃな」

「先ほどまで騒いでいた方とは思えませんわね」

「湯船でまで争う気はない」

「私とは争っていましたけど……」


 ミナが湯の中で小さくなっている。


「悪かった、ミナ」

「本当にそう思っていますか?」

「うむ。少しだけ」

「少しだけなのですね」

「正直でよかろう」


 ミナが頬を膨らませた。


 その仕草を見て、テンカは目を細めた。入学したばかりの頃のミナは、いつも周囲を気にしていた。


 貴族の前で失礼がないか、自分が同じ場所にいてよいのか、何か言えば誰かの気分を害さないかと、常に様子を窺っていた。


 今も呼び方や言葉遣いは変わらない。それでも、こうして遠慮なく頬を膨らませられるほどには、2人の前で力を抜けるようになっていた。


「ミナ」

「何ですか」

「そなた、少し変わったのう」

「また身体の話ですか?」

「違うわ!」


 思わず声を上げると、エリシアが口元を押さえた。


 笑っている。


「エリー、そなた」

「失礼。あまりに間がよかったものですから」

「フロストレイン様まで……」


 ミナは困ったような顔をした後、堪えきれなくなったのか、小さく笑った。エリシアも声を漏らし、テンカもつられて笑う。湯気の向こうで、3人の笑い声が重なった。


 3人で入る湯は、1人で静かに浸かるよりもずいぶん騒がしい。それでも、悪くない。


 テンカは湯船の縁へ背を預けた。


「それにしても、納得がいかぬ」

「まだ言いますの?」

「何がですか?」

「ミナは知らずともよい」

「ここまで言われて、知らずにいられると思いますか!」

「ならば答えよ。何を食べれば、そのように育つ」

「知りません!」


 大浴場に、再びミナの声が響いた。


 以前なら、これほど遠慮なく声を上げることもなかっただろう。


 テンカは叱られながら、少しだけ口元を緩めた。

評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ