エピローグ 白い手袋の少女
放課後の第2実技棟には、昼間のざわめきが残っていなかった。
西日が高い窓から差し込み、石造りの測定室を斜めに照らしている。壁際には属性ごとの測定器が並び、埋め込まれた魔石が、使われる時を待つように沈黙していた。
その中央に、1人の少女が立っている。
灰色を薄く混ぜた淡い亜麻色の髪は、真っ直ぐ肩甲骨まで伸びていた。両脇の髪だけを細く編み、後頭部でまとめていた。煙水晶を思わせる灰紫色の瞳は、机の上に置かれた測定記録だけを見つめていた。
制服は襟元から袖口まで隙なく整えられ、両手は白い手袋で覆われていた。
フィアナ=オルフィス。
オルフィス子爵家の養女であり、皇国学園の新入生である。
フィアナは測定記録へ視線を落とした。
火属性、安定値82。
水属性、安定値79。
どちらも合格基準は超えている。授業で求められた測定回数も、すでに終えていた。
だが、十分ではない。
フィアナは赤い魔石へ右手をかざした。
呼吸を整え、身体の奥にある魔力を細く引き上げる。生まれ持った魔力は、ほとんど属性を持たない。そこへ後から定着させられた火の性質を重ね、手袋越しに測定器へ流し込んだ。
魔石の内側へ、赤い光が灯る。
強すぎず、弱すぎず。揺れを抑え、一定の出力を保つ。
記録針が動き始めた。
82。
83。
細い針が、わずかに震える。
その瞬間、右手首の奥を熱した糸で締め上げられるような痛みが走った。
フィアナの指先が揺れ、魔石の光が一度だけ乱れる。すぐに魔力を絞り、記録針が戻る前に流れを整えた。
84。
前回より2上がった。
フィアナは魔力を止めた。赤い光が消え、測定室に静けさが戻る。
右手を下ろしても、手首の奥では熱が脈打っていた。火と水が体内で触れた時に起きる痛みだ。失敗ではない。定着が不十分なだけである。
ならば、定着させればよい。
フィアナは左手で記録を書き加えようとした。だが、筆記具を握った指に力が入らない。
白い手袋の下で、両手首から前腕へ伸びる術式痕が疼いている。見なくても分かった。皮膚の下に刻まれた線のいくつかが、赤く熱を持っているはずだ。
フィアナは指を開き、もう一度握った。
震えは収まった。
「問題ありません」
誰に聞かれたわけでもない。
声に出して確認してから、測定値を書き込んだ。
火属性、安定値84。
もう一度行えば、85へ届くかもしれない。
手を伸ばしかけた時、測定室の外で終業を告げる鐘が鳴った。
フィアナは動きを止めた。
規則で認められた使用時間はここまでだ。成果を求めるために規則を破れば、それ自体が減点になる。
測定器を初期状態へ戻し、測定記録を所定の場所へ収める。机の上には、授業で配られた共同実習の案内と、封を切ったばかりの手紙が残っていた。
差出人は、オルフィス子爵。
『フィアナへ。
学園での生活に問題がないことは、先日の報告で確認した。必要な器材、書籍、薬品があれば申請しなさい。内容を確認した後、手配する。
授業および実習では、オルフィス家の名を損なわぬ結果を残すこと。優秀であるだけでは足りない。お前に与えたものが、正しく機能していると示しなさい。
共同実習についても報告を欠かさないように。
特に、テンカ=ハヅキを観察しなさい。
ハヅキ家の五行は、皇国の属性魔術とは異なる。異なる理を同一の身体に巡らせながら、互いを損なわず、変化させ、支え合わせるという。
実に興味深い。
火と水がなぜ争わない。
木と金がなぜ同じ器に収まる。
土は何を鎮め、何を隔てている。
巡路か。器の構造か。血統か。あるいは我々がまだ認識していない、別の法則が存在するのか。
確かめなければならない。
必ず記録しなさい。発動前後の魔力変化、呼吸、脈拍、髪色の変化、各行を切り替える際の間隔。可能であれば、異なる行を連続して使用した直後の状態も確認すること。
《万象接脈》は失敗していない。
未完成なだけだ。
あと少しだ。あと一つ、異なる力を一つの器へ収めるための理さえ分かれば、完成する。お前の身体はそこまで耐えた。火を受け入れ、水を受け入れ、それでも壊れなかった。ならば、さらに先へ進める。
進めるはずだ。
お前は、そのためにいる。
成果を期待している。
オルフィス』
叱責はない。失望の言葉もない。
それでも、フィアナはその手紙を読むたび、胸の内側を冷たい指で掴まれたように感じる。
結果を出す限り、必要なものは与えられる。
役に立つ限り、オルフィス家の娘でいられる。
そう書かれていないだけで、そう告げられているのと同じだった。
ならば、失敗する理由はなかった。
フィアナは手紙を丁寧に折り、鞄へ戻した。
測定室を出ると、回廊の窓から中庭が見えた。夕方の光の中を、4人の学生が歩いている。
先頭に近い位置を歩く黒髪の少女を、フィアナは知っていた。
テンカ=ハヅキ。
南方のハヅキ辺境伯家に伝わる五行を扱い、基礎実技では水を輪の形に巡らせたという少女。刀を使う家の令嬢でありながら、魔導工学の書架にも足を運んでいるらしい。
その隣には、銀白の髪を持つフロストレイン侯爵家の令嬢。少し後ろには、紙束を抱えた奨学生と、灰色の髪の男子学生がいる。
何を話しているのかは聞こえない。
ただ、4人の歩調は完全には揃っていなかった。それでも、誰かが遅れれば、残る者がわずかに足を緩めている。
フィアナには、それが不思議に見えた。
異なる者が同じ場所に並ぶには、どちらか一方が合わせ続けなければならない。役割を果たせない者は外れ、足りない部分は別の誰かへ置き換えられる。
少なくとも、これまでのフィアナはそう教えられてきた。
中庭で、テンカが何かを言った。
銀白の髪の少女が返し、紙束を抱えた少女が笑う。男子学生は歩きながら足の置き方を変え、テンカに何かを言われて姿勢を戻した。
夕日に照らされたテンカの黒髪から、フィアナは目を離せなかった。あの少女は、五行を纏うたびに髪の色を変え、異なる五つの理をその身に巡らせるという。
五行は、属性魔術とは異なる術理だと資料には記されていた。それでも、五つの異なる理を一つの身体に巡らせるなど、フィアナの痛みが知る法則ではありえなかった。
その身体の中では、力同士が争わないのだろうか。
火と水が触れ合っても、皮膚の下を焼くことはないのだろうか。
聞いてみたいと思った。
そう考えた自分に気づき、フィアナは目を伏せる。
知識を得るためなら、話しかける理由にはなる。だが、相手は辺境伯家の令嬢であり、生徒会長の妹でもある。興味だけで近づくには、理由が足りない。
共同実習で同じ課題へ取り組む機会があれば、もう少し近くで観察できる。
そこまで考えた時、手袋の下で鋭い痛みが弾けた。
右手首を押さえ、詰まりかけた息を整える。回廊に人影はない。
助けを呼ぶ必要もない。
「……問題ありません」
その言葉を聞く者は、どこにもいなかった。
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