名の重さ②
授業を終えた後、テンカたちは昨日と同じ図書館へ向かった。
キリカは入口近くの席に残り、テンカたちが書架の奥へ進むのを見送っていた。
魔導工学の書架では、昨日使った魔導灯回路が同じ閲覧机に置かれていた。
「今日は出力を抑えてみせますわ」
エリシアが板を前にして、静かに袖を整える。
「壊さぬ程度にな」
「昨日も壊してはいませんわ」
「ミナが止めなければ、どうなっておったかのう」
「想定より明るく光っただけです」
「霜も浮いておったぞ」
「あれは氷術師としての個性ですわ」
「回路に個性を押しつけてどうする」
ミナが2人の間で困ったように笑った。
昨日よりも、ずいぶん自然な笑みだった。
「今日は、補助刻印の一つ手前で魔力を細くしてみてください。フロストレイン様なら、出力そのものは整っていますから」
「分かりましたわ」
エリシアが板の端に指を置いた。
その時、少し離れた机から小さな音がした。
かちり、と。
何かが外れたような音だった。
振り向くと、リリアとノエルが閲覧机の前で固まっていた。
2人の机には、別の魔導灯回路が置かれている。中央の魔石は光っておらず、板の端にある小さな金属片が溝から外れていた。
「だから、そこを直接つないでは駄目だと言ったでしょう」
「でも、説明図ではこの線が中央へ向かっているのよ」
「向かっているけれど、直接ではないのではなくて?」
2人は声を抑えているが、困っていることは遠目にも分かった。
ミナはすでに、そちらを見ていた。
視線は外れた金属片と、板の上の回路を往復している。
「原因が分かるのか」
テンカが小さく尋ねる。
「たぶんです」
ミナは頷いた。
「補助刻印の向きが逆です。あのまま魔力を流すと、中央へ届く前に外側へ逃げます」
「教えてやりたいか」
「……はい」
ミナの指が、紙束の端に触れた。
朝と同じ迷いが、その手に現れていた。
テンカはリリアたちへ目を向けた。
自分が声をかければ、2人はすぐにこちらを見るだろう。
あるいは、自分がミナを連れていけば、話を聞かせることもできる。
だが、それではまた、ミナより先にハヅキの名が歩く。
「ならば、行ってくるがよい」
テンカは言った。
ミナがこちらを見る。
「テンカ様は?」
「わらわはここにおる」
「でも」
「助け方を知っておるのは、そなたであろう」
ミナは唇を結んだ。
それから、小さく息を吸う。
「行ってきます」
「うむ」
ミナは紙束を机へ置き、リリアたちのいる閲覧机へ歩いていった。
「あの」
声をかけられ、リリアとノエルが顔を上げる。
2人の視線がミナへ向き、その後ろにいるテンカとエリシアへ移った。
「アーレンさん」
リリアが少し驚いたように目を見開いた。
「その回路、補助刻印が逆向きになっています」
ミナは板の端を指した。
「外れた金属片を反対向きにはめて、こちらの線を一つ空けてください。そうすれば、中央の魔石まで流れます」
「ここを空けるの?」
ノエルが尋ねる。
「はい。全部つなげた方が流れやすそうに見えますけど、逃がすための隙間も必要なんです」
ミナは机の脇へ回り、回路へ手を伸ばしかけた。
だが、途中で止める。
「触ってもいいですか?」
「ええ。お願いするわ」
リリアが答えた。
ミナは外れていた金属片を拾い、向きを変えて溝へはめ込んだ。それから、細い術式線の一部を指で示す。
「ここへ少しだけ魔力を流してください」
「私が?」
「はい。これはリリアさんの教材ですから」
リリアは戸惑いながらも、板の端へ指を添えた。
魔力が細い溝を進む。
途中で一度、光が弱くなった。
「もう少しだけです。強くするのではなく、細く長く流してください」
ミナの声が、先ほどより少し早くなる。
魔導工学について話す時の声だ。
リリアが呼吸を整え、魔力を流し直す。
淡い光が回路を巡り、中央の魔石が小さく灯った。
「光った……」
ノエルが顔を明るくする。
「本当だわ」
リリアも魔石を見つめていた。
その顔に浮かんだものは、少なくとも不快ではなさそうだった。
「アーレンさん、ありがとう」
「いえ。私も、最初は同じところで間違えましたから」
ミナが笑った。
だが、リリアはすぐに何かを思い出したように姿勢を正した。
その視線がテンカへ向く。
「ハヅキ様。アーレンさんをお借りしてしまい、申し訳ありません」
テンカは小さく首を傾げた。
「なぜ、わらわに謝る」
「それは……アーレンさんは、ハヅキ様方と図書館へ来ているのでしょう? ご予定のお邪魔をしてしまったかと」
「答えたのはミナじゃ。わらわではない」
リリアの目がわずかに揺れた。
「ミナがそなたたちを助けたいと思い、そなたたちがそれを受け入れた。それだけのことであろう」
「ですが」
「ミナの時間は、ミナのものじゃ。わらわが貸しておるわけではない」
ミナが目を丸くしてこちらを見た。
テンカはその視線に気づいたが、言葉を止めなかった。
「わらわと共におるからといって、ミナがわらわの後ろへ隠れるわけではない。そなたたちも、わらわを通してミナを見る必要はないぞ」
図書館の静けさの中で、声が少し強く響いた。
周囲の学生がこちらを見るほどではない。
けれど、リリアとノエルには届いた。
リリアはしばらく黙っていたが、やがてミナへ向き直った。
「ごめんなさい、アーレンさん」
「え?」
「避けていたつもりはなかったの。でも、ハヅキ様やフロストレイン様と親しくなったのなら、私たちが気軽に話しかけてよいのか分からなくて」
「私も」
ノエルが続ける。
「邪魔をしたら、アーレンさんにも迷惑がかかると思っていたの」
「私は、嫌われたのかと思っていました」
ミナが正直に言うと、今度は2人が目を丸くした。
「どうして?」
「図書館でも見られていましたし、さっきも、話の途中で離れてしまいましたし」
「昨日は、声をかける機会を見ていただけなの」
リリアが困ったように眉を下げる。
「ハヅキ様へいきなり話しかけるのも失礼かと思って、迷っている間に終わってしまって」
「わらわは魔導灯ではないぞ。話しかけた程度で壊れはせぬ」
「テンカ。そこではありませんわ」
エリシアが静かに訂正する。
「そうか?」
「ええ。ですが、ヴァンデルさんが緊張する理由は分かりましたでしょう?」
「……少しな」
テンカは小さく息を吐いた。
同じ学生であっても、同じようには振る舞えない。
その距離を作っていたのは、誰かの悪意ではなかった。
家名。
立場。
どう接すればよいか分からないという、ほんのわずかな迷い。
それらが積み重なり、ミナと2人の間に見えない線を引いていた。
「アーレンさん」
リリアが机の上の術式図を広げる。
「よかったら、この続きを一緒に見ていただけない?」
「私でよければ」
ミナはすぐに頷いた。
「ここの回路は、さっきの補助刻印と同じ考え方で――」
言葉を続けるうちに、声が少しずつ速くなる。
リリアとノエルは顔を見合わせ、それから術式図へ身を寄せた。
術式図の細かな線の上を、3人の指が行き来する。
テンカは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「行かなくてよろしいのですか?」
エリシアが尋ねる。
「わらわが入れば、また机が狭くなろう」
「物理的な意味だけではありませんわね」
「分かっておるなら聞くでない」
テンカは腕を組んだ。
ミナの声が聞こえる。
魔力をどこで細くするか。
どこへ逃がすか。
どうすれば、弱い光を消さずに中央へ届けられるか。
昨日と同じ話だった。
だが、今度整えられているのは、魔導回路だけではないように思えた。
◇ ◇ ◇
その夜、テンカは自室の机に向かい、書きかけの課題を広げていた。紙の下半分はまだ白く、その端には「斬る前に、見るべきもの」と小さく書き残されている。
テンカは筆を取り、その下に新しい一文を加えた。
己の名が、誰かの名より先に立つことがある。
書き終えた文字を見つめる。テンカ=ハヅキという名を捨てるつもりはない。母から受け継ぎ、父や姉、キリカ、旅団の者たちと共に背負ってきた名だ。
だが、その名が大きいからこそ、隣に立つ者の姿を隠すこともある。守るつもりで前へ出れば、誰かが自分で立つ場所まで奪ってしまうのかもしれない。
テンカは筆先を紙の上へ置いた。まだ答えにはならない。それでも、昨日まで白かった場所には、新しい言葉が増えている。
己の名を背負いながら、他者の名を隠さずに立つこと。
そのために何が必要なのかを考えながら、テンカはやがて筆を置いた。
答えを書くには、もう一つだけ言葉が足りなかった。
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