表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2部 第1章 学び舎に咲く天の華
104/127

紙一枚の問い

 東棟の上級貴族用区画へ戻る頃には、窓の外の空が夕の色へ変わり始めていた。


 皇国学園の石造りの回廊は、ハヅキ家の屋敷とは違う音を返す。靴が床を打つ音。遠くの部屋から漏れる学生たちの話し声。どこかで扉が閉まる音。


 どれも、まだ耳に馴染まない。


 テンカは自室へ入ると、まず腰の《継火》を武具掛けへ置いた。


 寮内での抜刀は禁止。


 寮監に告げられた規則は、すでに頭に入っている。抜くつもりはない。だが、手元から刀の重みが離れると、今日の演習場で起きたことがふと蘇った。


 ハヅキ家の訓練場ではない砂地で、同じ年頃の学生と一手を交えた。勝ち負けではなく、何を見て、どう動いたかを問われた時間が、アリアに出された紙1枚の課題へとつながっていく。


「姫さま、お茶をお持ちします」

「うむ」


 キリカが控えの間へ下がる。


 テンカは机の前に座った。上級貴族用区画の部屋に備えられた机は、質はよいが華美ではない。学園の部屋らしく、勉強に使いやすい幅と高さで整えられている。


 その上に、白い紙を1枚置く。


 何を学びたいのか。何が足りないのか。


 アリアの声がまだ耳に残っていた。テンカは筆記具を手に取った。


 まず、学びたいことはすぐに浮かんだ。刀と五行。皇国のこと。各地の魔術、魔導工学、人の考え方、そしてハヅキ領の外の世界。


 言葉にしようと思えば、いくらでも出てくる。教室で自己紹介をした時にも、似たことを口にした。知らぬものを知りたい。それは今も変わらない。


 テンカは紙の上に、ゆっくりと文字を置いた。


 わらわは、ハヅキ領の外を知りたい。

 皇国にあるさまざまな術や技、土地ごとの考え方、魔導工学の仕組み、人が何を見て何を選ぶのかを、自分の目で見て学びたい。


 そこまでは書けた。


 今の自分に足りないと思うこと。


 その行へ進もうとしたところで、筆先が止まった。


「姫さま」


 扉の向こうから、キリカの声がした。


「入ってよいぞ」


 キリカが茶器を載せた盆を持って入ってくる。静かな足取りで机の脇へ来ると、茶を置き、紙へ視線を向けた。


「進まれていないようですね」

「見て分かるか」

「はい。紙の下半分が、たいへん白くございます」

「正直者め」


 テンカは苦笑した。


 キリカは少しだけ目元を和らげる。だが、茶を置いた後もすぐには下がらなかった。


「足りないもの、ですか」

「うむ。そなたには、どう見える」


 キリカはすぐには答えなかった。


 ハヅキ家で共に育ち、訓練場で数えきれないほど刃を交えた相手だからこそ、軽くは答えられないのだろう。


「姫さまは、斬るべきものを見つけるのがお上手です」

「それは褒めておるのか」

「はい」


 真顔だった。


 テンカは茶を一口飲む。温かさが喉を通り、演習場で張っていたものがわずかにほどけた。


「ですが」


 キリカは続ける。


「斬るべきかを決める前に、見なければならないものが、まだあるのかもしれません」


 テンカは茶器を持つ手を止めた。


 斬る前に、見なければならないもの。

 自分だけでは、測り切れないもの。


 その言葉は、思ったよりも深く沈んだ。


「そなた、ずいぶん難しいことを言うようになったのう」

「姫さまの側におりますので」

「それは答えになっておるのか」

「なっているつもりです」


 キリカは少しだけ胸を張った。


 その仕草が珍しくて、テンカは小さく笑う。


 ハヅキ家では、テンカが刀を抜く前から、周囲はおおよその理由を察してくれた。母も、父も、姉も、キリカも、旅団の者たちも、テンカが何を恐れ、何を斬ろうとしているのかを知ろうとしてくれた。


 皇国学園では違う。


 ここにはテンカを知らない者がいる。


 レオンは剣を見てくれた。ミナは流れを見てくれた。エリシアは、テンカがどこを見ていたかを見抜いた。


 全員が、そう見てくれるわけではない。


 テンカが一歩動けば、そこに家名がついてくる。生徒会長の妹という名がついてくる。南方の五行姫という噂も、きっと勝手について回る。


 自分はまだ、それを測れていないのかもしれない。


 テンカは紙の端へ「斬る前に、見るべきもの」と小さく書きかけた。だが、筆先はそこで止まった。足りないものは、まだその先にある気がした。


 その時、扉が控えめに叩かれた。


「テンカ、このような時間に失礼しますわ」


 エリシアの声だった。


 キリカが扉へ向かい、確認してから開ける。廊下に立っていたエリシアは、淡い色の部屋着に薄い羽織を重ねていた。昼間の演習場とは違い、少しだけ力の抜けた姿だったが、背筋の美しさは変わらない。


「まだ寝る刻でもなかろう。どうした、エリー」

「課題のことです。考え始めたら、思ったより厄介でしたの」


 テンカは思わず笑った。


「そなたもか」

「当然ですわ。足りないものなど、紙に書くには重すぎますもの」


 エリシアは部屋へ入ると、テンカの机の紙を見て、目元をわずかに和らげた。


「安心しましたわ。テンカも止まっていましたのね」

「安心するところか、そこは」

「ええ。あなたがすぐに書き終えていたら、少し悔しいですもの」

「正直じゃな」

「友人ですから」


 さらりと言われて、テンカは一瞬だけ言葉に詰まった。


 友人。


 エリシアは何でもないことのように言ったが、その響きは、思ったよりも温かかった。


「……そうじゃな」


 テンカは小さく頷いた。


「友人ならば、悔しがってもよかろう」

「ええ。ですから、わたくしも少し悔しがりに来ました」

「妙な訪問理由じゃな」

「テンカほどではありませんわ」

「わらわは普通じゃ」

「それを本気で言っているところが、あなたの面白いところですわね」


 キリカが横で小さく息を漏らした。笑ったのだろう。


 テンカは少しだけ眉を上げたが、悪い気はしなかった。


「エリーは、何が足りないと思う」


 テンカが尋ねると、エリシアはすぐには答えなかった。


 窓の外へ視線を向ける。夕の色は薄れ、学園の魔導灯が中庭を淡く照らし始めていた。


「わたくしは、ずっとフロストレインの氷を基準にしてきました」


 静かな声だった。


「北方では、それでよかったのです。氷術を磨き、冷静であることを求められ、侯爵家の娘として恥じぬように立つ。それがわたくしの形でした」

「うむ」

「ですが、この学園では、それだけでは足りないようです。テンカの五行も、ミナの魔導工学も、レオンの剣も、わたくしの氷だけでは測れません」


 エリシアはテンカを見る。


「だから、足りないものは、外を測るための物差しなのかもしれませんわ」

「物差し」

「ええ。自分の家で通じていた物差しだけでは、ここにいる者たちは測れませんもの」


 テンカは黙ってその言葉を受け取った。


 外を測るための物差し。

 自分にない目を知ること。

 斬る前に、見るべきもの。


 違う言葉なのに、どこか同じ場所へ向かっているような気がした。


「ならば、明日は図書館へ行く」


 テンカは言った。


「ミナに魔導工学の本を聞く。エリー、そなたも来るか」

「もちろんですわ」


 即答だった。


「わたくしも、異なる物差しを探す必要がありますもの」

「では、キリカ」

「はい、姫さま」

「明日の授業後の予定に、図書館を入れておいてくれ」

「承知しました」


 紙の下半分に広がる白さは、もうただの空白ではなかった。


 問いがある。


 そこへ向かう道も、少しだけ見えた。

評価やブックマークで応援いただけると、執筆の励みになりますのでよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ