紙一枚の問い
東棟の上級貴族用区画へ戻る頃には、窓の外の空が夕の色へ変わり始めていた。
皇国学園の石造りの回廊は、ハヅキ家の屋敷とは違う音を返す。靴が床を打つ音。遠くの部屋から漏れる学生たちの話し声。どこかで扉が閉まる音。
どれも、まだ耳に馴染まない。
テンカは自室へ入ると、まず腰の《継火》を武具掛けへ置いた。
寮内での抜刀は禁止。
寮監に告げられた規則は、すでに頭に入っている。抜くつもりはない。だが、手元から刀の重みが離れると、今日の演習場で起きたことがふと蘇った。
ハヅキ家の訓練場ではない砂地で、同じ年頃の学生と一手を交えた。勝ち負けではなく、何を見て、どう動いたかを問われた時間が、アリアに出された紙1枚の課題へとつながっていく。
「姫さま、お茶をお持ちします」
「うむ」
キリカが控えの間へ下がる。
テンカは机の前に座った。上級貴族用区画の部屋に備えられた机は、質はよいが華美ではない。学園の部屋らしく、勉強に使いやすい幅と高さで整えられている。
その上に、白い紙を1枚置く。
何を学びたいのか。何が足りないのか。
アリアの声がまだ耳に残っていた。テンカは筆記具を手に取った。
まず、学びたいことはすぐに浮かんだ。刀と五行。皇国のこと。各地の魔術、魔導工学、人の考え方、そしてハヅキ領の外の世界。
言葉にしようと思えば、いくらでも出てくる。教室で自己紹介をした時にも、似たことを口にした。知らぬものを知りたい。それは今も変わらない。
テンカは紙の上に、ゆっくりと文字を置いた。
わらわは、ハヅキ領の外を知りたい。
皇国にあるさまざまな術や技、土地ごとの考え方、魔導工学の仕組み、人が何を見て何を選ぶのかを、自分の目で見て学びたい。
そこまでは書けた。
今の自分に足りないと思うこと。
その行へ進もうとしたところで、筆先が止まった。
「姫さま」
扉の向こうから、キリカの声がした。
「入ってよいぞ」
キリカが茶器を載せた盆を持って入ってくる。静かな足取りで机の脇へ来ると、茶を置き、紙へ視線を向けた。
「進まれていないようですね」
「見て分かるか」
「はい。紙の下半分が、たいへん白くございます」
「正直者め」
テンカは苦笑した。
キリカは少しだけ目元を和らげる。だが、茶を置いた後もすぐには下がらなかった。
「足りないもの、ですか」
「うむ。そなたには、どう見える」
キリカはすぐには答えなかった。
ハヅキ家で共に育ち、訓練場で数えきれないほど刃を交えた相手だからこそ、軽くは答えられないのだろう。
「姫さまは、斬るべきものを見つけるのがお上手です」
「それは褒めておるのか」
「はい」
真顔だった。
テンカは茶を一口飲む。温かさが喉を通り、演習場で張っていたものがわずかにほどけた。
「ですが」
キリカは続ける。
「斬るべきかを決める前に、見なければならないものが、まだあるのかもしれません」
テンカは茶器を持つ手を止めた。
斬る前に、見なければならないもの。
自分だけでは、測り切れないもの。
その言葉は、思ったよりも深く沈んだ。
「そなた、ずいぶん難しいことを言うようになったのう」
「姫さまの側におりますので」
「それは答えになっておるのか」
「なっているつもりです」
キリカは少しだけ胸を張った。
その仕草が珍しくて、テンカは小さく笑う。
ハヅキ家では、テンカが刀を抜く前から、周囲はおおよその理由を察してくれた。母も、父も、姉も、キリカも、旅団の者たちも、テンカが何を恐れ、何を斬ろうとしているのかを知ろうとしてくれた。
皇国学園では違う。
ここにはテンカを知らない者がいる。
レオンは剣を見てくれた。ミナは流れを見てくれた。エリシアは、テンカがどこを見ていたかを見抜いた。
全員が、そう見てくれるわけではない。
テンカが一歩動けば、そこに家名がついてくる。生徒会長の妹という名がついてくる。南方の五行姫という噂も、きっと勝手について回る。
自分はまだ、それを測れていないのかもしれない。
テンカは紙の端へ「斬る前に、見るべきもの」と小さく書きかけた。だが、筆先はそこで止まった。足りないものは、まだその先にある気がした。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「テンカ、このような時間に失礼しますわ」
エリシアの声だった。
キリカが扉へ向かい、確認してから開ける。廊下に立っていたエリシアは、淡い色の部屋着に薄い羽織を重ねていた。昼間の演習場とは違い、少しだけ力の抜けた姿だったが、背筋の美しさは変わらない。
「まだ寝る刻でもなかろう。どうした、エリー」
「課題のことです。考え始めたら、思ったより厄介でしたの」
テンカは思わず笑った。
「そなたもか」
「当然ですわ。足りないものなど、紙に書くには重すぎますもの」
エリシアは部屋へ入ると、テンカの机の紙を見て、目元をわずかに和らげた。
「安心しましたわ。テンカも止まっていましたのね」
「安心するところか、そこは」
「ええ。あなたがすぐに書き終えていたら、少し悔しいですもの」
「正直じゃな」
「友人ですから」
さらりと言われて、テンカは一瞬だけ言葉に詰まった。
友人。
エリシアは何でもないことのように言ったが、その響きは、思ったよりも温かかった。
「……そうじゃな」
テンカは小さく頷いた。
「友人ならば、悔しがってもよかろう」
「ええ。ですから、わたくしも少し悔しがりに来ました」
「妙な訪問理由じゃな」
「テンカほどではありませんわ」
「わらわは普通じゃ」
「それを本気で言っているところが、あなたの面白いところですわね」
キリカが横で小さく息を漏らした。笑ったのだろう。
テンカは少しだけ眉を上げたが、悪い気はしなかった。
「エリーは、何が足りないと思う」
テンカが尋ねると、エリシアはすぐには答えなかった。
窓の外へ視線を向ける。夕の色は薄れ、学園の魔導灯が中庭を淡く照らし始めていた。
「わたくしは、ずっとフロストレインの氷を基準にしてきました」
静かな声だった。
「北方では、それでよかったのです。氷術を磨き、冷静であることを求められ、侯爵家の娘として恥じぬように立つ。それがわたくしの形でした」
「うむ」
「ですが、この学園では、それだけでは足りないようです。テンカの五行も、ミナの魔導工学も、レオンの剣も、わたくしの氷だけでは測れません」
エリシアはテンカを見る。
「だから、足りないものは、外を測るための物差しなのかもしれませんわ」
「物差し」
「ええ。自分の家で通じていた物差しだけでは、ここにいる者たちは測れませんもの」
テンカは黙ってその言葉を受け取った。
外を測るための物差し。
自分にない目を知ること。
斬る前に、見るべきもの。
違う言葉なのに、どこか同じ場所へ向かっているような気がした。
「ならば、明日は図書館へ行く」
テンカは言った。
「ミナに魔導工学の本を聞く。エリー、そなたも来るか」
「もちろんですわ」
即答だった。
「わたくしも、異なる物差しを探す必要がありますもの」
「では、キリカ」
「はい、姫さま」
「明日の授業後の予定に、図書館を入れておいてくれ」
「承知しました」
紙の下半分に広がる白さは、もうただの空白ではなかった。
問いがある。
そこへ向かう道も、少しだけ見えた。
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