最初の一手
砂地の上に、静かな緊張が落ちていた。
灰色の髪をした男子学生は、テンカへ向けてまっすぐに礼をしていた。
その所作には、騎士家の子息らしい硬さと、剣を学ぶ者の誠実さがあった。
「ただし、アリア先生の許可があるならば、じゃ」
テンカがそう告げると、周囲の視線が一斉にアリアへ集まった。
アリア=ベルンハルトは筆記帳を手にしたまま、テンカと男子学生を順に見た。表情は変わらない。だが、その目は2人の立ち方、手の位置、周囲の学生たちの反応まで見ているようだった。
「確認します」
アリアの声が演習場に通った。
「自由手合わせは、勝敗を決めるためのものではありません。互いの構え、間合い、判断を見るためのものです」
ざわめきが、少しだけ静まる。
「使用するのは学園の訓練武器のみ。術式の使用は禁止。相手への実打も禁止です。必ず寸止めとし、制御を失った時点で中止します」
「承知しました」
男子学生が答える。
「うむ」
テンカも頷いた。
アリアは2人の返答を確認してから、男子学生へ視線を向けた。
「名を」
「レオン=グランツと申します。グランツ騎士家の次男です」
レオンはもう一度、丁寧に頭を下げた。
グランツ騎士家。
テンカはその家名を頭の中で拾った。
皇国中央に仕える騎士家の一つだったはずだ。南方にいる頃、詳しく調べたことはない。だが、軍務に関わる家の名として、どこかで耳にした覚えはあった。
家名よりも、今見るべきは本人だ。
礼の角度に乱れはない。肩に余計な力も入っていない。剣の柄に置かれた手も、急いてはいなかった。
悪くない。
ただ名のある相手に挑みたいだけの者ではないようだった。
「テンカ=ハヅキじゃ」
テンカも短く名乗った。
周囲が再びざわめく。
ハヅキ辺境伯家の次女。
生徒会長レイナ=ハヅキの妹。
先ほど、五行の基礎制御を見せたばかりの少女。
そこへ、騎士家の男子学生が一手願った。
話題にならないはずがない。
エリシアは淡い青の瞳を細め、レオンの立ち姿を見ていた。ミナは紙束を胸の前で抱え、息を呑んでいる。見学区画では、キリカが静かにこちらを見ていた。
キリカは動かない。
けれど、いつでも動ける姿勢だった。
「では、訓練剣を」
実技担当の教師が、武器掛けから2本の訓練剣を取った。
レオンが先に受け取り、重さを確かめるように軽く握り直す。テンカも差し出された1本を受け取った。
木を芯に、刃に当たる部分を丸く整えた訓練剣だった。重さも長さも《継火》とは違う。鞘もなければ、抜刀の間合いもない。
テンカは腰の《継火》へ手を伸ばさなかった。
ここは皇国学園の演習場だ。
この場で使うべきものは、学園が用意した訓練剣である。
テンカは訓練剣を軽く振り、手の内を確かめた。
刀とは違う。
だが、刃筋を意識することはできる。
「双方、開始位置へ」
アリアの指示で、テンカとレオンは砂地の中央へ進んだ。
向かい合う。
レオンは訓練剣を正面に構えた。奇をてらった構えではない。足幅も、剣先の高さも、基礎に忠実だった。
テンカは半身に近い姿勢で構える。
いつもの刀とは違う。だが、身体に染み込んだ間合いは消えない。
「始め」
アリアの声が落ちた。
先に動いたのは、レオンだった。
一歩。
踏み込みはまっすぐだった。
速さで押し潰そうとする動きではない。剣先も泳いでいない。相手の反応を見るための、丁寧な初手。
テンカは軽く息を吐いた。
悪くない。
レオンの訓練剣が、正面から振り下ろされる。
テンカは受け止めなかった。
剣の腹を添え、角度を変える。打ち込まれた力が、正面ではなく斜めへ流れた。
乾いた音が鳴る。
レオンの剣が逸れた。
だが、レオンは崩れなかった。踏み込みの勢いを無理に止めず、足を引いて間合いを取り直す。
周囲から、小さな息が漏れた。
「今の、流したのか?」
「受けていないな」
「グランツも崩れていないぞ」
テンカは聞こえていないふりをした。
視線はレオンから外さない。
レオンもこちらを見ていた。初手を流された悔しさはあるだろう。だが、その目に焦りはない。
「もう一手、参ります」
「来い」
レオンが再び踏み込んだ。
今度は同じ打ち込みではなかった。
一歩目は浅い。
二歩目で間合いを詰める。
剣の軌道も、先ほどよりわずかに内側へ入っている。テンカが同じように流そうとすれば、踏み込みの位置をずらして追えるようにしているのだろう。
―学ぶ気がある剣じゃな。
テンカの口元が、わずかに緩んだ。
レオンの剣が迫る。
テンカは半歩だけ下がった。
逃げたのではない。
レオンの二歩目が乗る位置を、砂地の上から消すためだった。
「っ」
レオンの足が、ほんのわずかに迷う。
その瞬間に、テンカは前へ出た。
訓練剣を強く打ち払うのではない。刃に当たる部分を添え、レオンの剣が進むはずだった道を、半歩だけ外へずらす。
体勢を崩すには、それで十分だった。
レオンの肩がわずかに開く。
テンカはそこへ踏み込んだ。
砂を踏む音は小さい。
次の瞬間、テンカの訓練剣は、レオンの右肩口に触れる寸前で止まっていた。
演習場が静まり返る。
レオンは動かなかった。
自分の剣が外へ流され、踏み込むべき場所を失い、その直後に肩口を取られた。その一連の流れを、頭の中で追っているようだった。
やがて、彼は剣を下ろした。
「……参りました」
声には悔しさがあった。
だが、濁りはなかった。
テンカも訓練剣を下ろす。
「今のは」
レオンは自分の足元を見た。
「受けられたのではなく、進む場所を消されたのですね」
テンカは目を細めた。
よく見ている。
「うむ。剣そのものは悪くなかった。じゃが、二歩目で間合いを詰めると決めた時点で、そなたの進む場所も決まっておった」
「そこを、先に取られた」
「そうじゃ」
レオンは唇を結んだ。
悔しいのだろう。
けれど、悔しさをこちらへぶつけるのではなく、自分の中へ刻もうとしている。
テンカはその姿を見て、少しだけ声を柔らかくした。
「そなたの剣は、悪くない」
レオンが顔を上げる。
「初手で崩れず、二手目で変えてきた。わらわは、そういう剣は嫌いではない」
「……ありがとうございます」
レオンは深く頭を下げた。
その礼に、先ほどよりもわずかに力がこもっている。
アリアが一歩前へ出た。
「そこまで」
その声で、張り詰めていた空気がほどける。
「グランツ君」
「はい」
「初手の踏み込み、剣先の安定は良好です。一度流された後、同じ攻めを繰り返さなかった点も評価できます」
レオンの背筋が伸びた。
「ですが、二手目では自分の踏み込む位置を先に決めすぎました。相手が下がった時、足を置く場所が狭くなっています」
「はい」
アリアは次にテンカを見た。
「ハヅキさん」
「はい」
今度はすぐに返事が出た。
周囲の何人かが、小さく笑いを堪えた気配がした。
アリアの表情は変わらない。
「相手の力を正面から受けず、流れを変えました。剣で勝ったというより、足場と間合いを先に取った形ですね」
「そのつもりでした」
「よい判断です。ただし、訓練剣と実戦用の刀では、重さも間合いも異なります。学園の演習では、今後も武器ごとの差を意識してください」
「うむ」
「はい、ですね」
「……はい」
今度こそ、周囲から笑いが漏れた。
悪意のあるものではない。
張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなる。
アリアは筆記帳へ何かを書き込みながら、学生たちへ向き直った。
「今の手合わせで大切なのは、勝敗ではありません。グランツ君が何を見て、ハヅキさんが何を判断したかです」
学生たちの視線が、アリアへ集まる。
「力が強い。速い。魔力が大きい。それらは確かに武器になります。ですが、実技で必要なのは、それだけではありません」
アリアは砂地を示した。
「相手の足を見ること。剣先を見ること。自分がどこへ立ち、相手をどこへ進ませるかを考えること。それもまた、実技です」
テンカは静かに聞いていた。
よい教師だと思った。
褒めるだけでも、叱るだけでもない。何が起きたのかを、見ていた者たちへ言葉として渡している。
それは、ハヅキ領の訓練場とは少し違う形の教えだった。
「自由手合わせはここまでとします」
アリアが告げた。
「全員、使用した訓練武器を戻してください。怪我や体調不良がある者は、すぐに申し出ること」
学生たちが動き始める。
レオンは訓練剣を戻す前に、もう一度テンカへ向き直った。
「ハヅキ様」
「テンカでよい」
レオンは一瞬だけ目を丸くした。
「では、テンカ様」
「様は取れぬか」
「すぐには難しいです」
「そうか」
テンカは小さく笑った。
レオンは真面目な顔で続ける。
「また、機会があればご指導いただけますか」
「わらわも学びに来ておる身じゃ。指導というほど偉くはない」
「では、また一手、お願いします」
「うむ。それならばよい」
レオンはどこか安心したように頷き、訓練剣を武器掛けへ戻しに向かった。
その背中を見ながら、テンカは息を吐く。
「早速、知り合いが増えましたわね」
隣へ来たエリシアが言った。
「手合わせしただけじゃ」
「剣を交えた相手は、ただ挨拶をした相手よりも覚えやすいものですわ」
「そなたが言うと、妙に説得力があるのう」
エリシアは涼しい顔で答えない。
その代わり、淡い青の瞳がわずかに楽しげだった。
「テンカ様」
今度はミナが近づいてきた。
紙束を抱えたまま、少しだけ前のめりになっている。
「今の、剣の流れを変えたんですよね。魔力の流れを乱さないようにするのと、少し似ている気がしました」
「また魔導工学につなげたのか」
「あっ、すみません。でも、力を正面から止めるのではなく、道を変えるというか。標的柱の刻印に沿わせた時の水の流れとも似ていて」
ミナは途中で、自分が早口になっていることに気づいたらしい。
慌てて口を閉じる。
テンカは笑った。
「謝るな。そなたの見方は面白い」
「面白い、ですか」
「うむ。わらわが剣として見ておるものを、そなたは流れとして見る。それは、わらわにはない目じゃ」
ミナの頬が、じわりと赤くなった。
エリシアが小さく頷く。
「ミナの観察は、確かに興味深いですわ」
「フロストレイン様まで……」
ミナは完全に困った顔になった。
だが、その目は嬉しそうだった。
見学区画の方を見ると、キリカが静かに立っていた。
目が合う。
キリカはほんのわずかに頭を下げた。
心配していたのだろう。
だが、それだけではない。キリカは、テンカがハヅキ家の訓練場ではなく、皇国学園の砂地でどう剣を取るのかを見ていた。
テンカは訓練剣を武器掛けへ戻した。
手の中から重みが消える。
腰には《継火》がある。けれど今日は、それを抜かなかった。五行も纏わず、ただ学園の訓練剣で、同じ年の学生と一手を交えた。
それだけのことだった。
だが、砂地の上に残った足跡は、テンカにとって思った以上に新鮮だった。
皇国学園には、剣を学ぶ者がいる。魔術を磨く者がいる。魔導工学に目を輝かせる者がいる。
ハヅキ領にはなかった風が、ここには吹いている。
「悪くない」
テンカは小さく呟いた。
エリシアが横目で見る。
「何がですの?」
「この学園じゃ」
テンカは砂地に残る足跡を見た。
「思っていたよりも、ずっと面白い」
その言葉を聞いて、エリシアはわずかに口元を緩めた。
ミナは不思議そうに首を傾げる。
少し離れた場所では、レオンが騎士家の学生たちに囲まれながら、何かを真面目に説明していた。彼をからかう声はない。むしろ、今の一手をどう見たのか、皆が聞きたがっているようだった。
テンカはその様子を眺める。
学園での最初の実技演習。
測られるだけの時間は、いつの間にか、互いを見る時間へ変わっていた。
そして、テンカ=ハヅキという名もまた、この砂地の上で、ほんの少しだけ形を変えて歩き始めていた。
その少し離れた場所で、アリアは筆記帳に視線を落としていた。
先ほど書き込んだ名の横に、短く一言を添える。
――要観察。
筆記帳を閉じる直前、アリアの視線がもう一度テンカへ向けられた。
その目にあったものが注意なのか、期待なのか。
テンカには、まだ分からなかった。
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