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ハヅキ辺境伯家の五行姫  作者: あの夏と勇者
第2部 第1章 学び舎に咲く天の華
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最初の一手

 砂地の上に、静かな緊張が落ちていた。


 灰色の髪をした男子学生は、テンカへ向けてまっすぐに礼をしていた。


 その所作には、騎士家の子息らしい硬さと、剣を学ぶ者の誠実さがあった。


「ただし、アリア先生の許可があるならば、じゃ」


 テンカがそう告げると、周囲の視線が一斉にアリアへ集まった。


 アリア=ベルンハルトは筆記帳を手にしたまま、テンカと男子学生を順に見た。表情は変わらない。だが、その目は2人の立ち方、手の位置、周囲の学生たちの反応まで見ているようだった。


「確認します」


 アリアの声が演習場に通った。


「自由手合わせは、勝敗を決めるためのものではありません。互いの構え、間合い、判断を見るためのものです」


 ざわめきが、少しだけ静まる。


「使用するのは学園の訓練武器のみ。術式の使用は禁止。相手への実打も禁止です。必ず寸止めとし、制御を失った時点で中止します」

「承知しました」


 男子学生が答える。


「うむ」


 テンカも頷いた。


 アリアは2人の返答を確認してから、男子学生へ視線を向けた。


「名を」

「レオン=グランツと申します。グランツ騎士家の次男です」


 レオンはもう一度、丁寧に頭を下げた。


 グランツ騎士家。


 テンカはその家名を頭の中で拾った。


 皇国中央に仕える騎士家の一つだったはずだ。南方にいる頃、詳しく調べたことはない。だが、軍務に関わる家の名として、どこかで耳にした覚えはあった。


 家名よりも、今見るべきは本人だ。

 礼の角度に乱れはない。肩に余計な力も入っていない。剣の柄に置かれた手も、急いてはいなかった。


 悪くない。


 ただ名のある相手に挑みたいだけの者ではないようだった。


「テンカ=ハヅキじゃ」


 テンカも短く名乗った。


 周囲が再びざわめく。


 ハヅキ辺境伯家の次女。

 生徒会長レイナ=ハヅキの妹。

 先ほど、五行の基礎制御を見せたばかりの少女。


 そこへ、騎士家の男子学生が一手願った。


 話題にならないはずがない。


 エリシアは淡い青の瞳を細め、レオンの立ち姿を見ていた。ミナは紙束を胸の前で抱え、息を呑んでいる。見学区画では、キリカが静かにこちらを見ていた。


 キリカは動かない。


 けれど、いつでも動ける姿勢だった。


「では、訓練剣を」


 実技担当の教師が、武器掛けから2本の訓練剣を取った。


 レオンが先に受け取り、重さを確かめるように軽く握り直す。テンカも差し出された1本を受け取った。


 木を芯に、刃に当たる部分を丸く整えた訓練剣だった。重さも長さも《継火》とは違う。鞘もなければ、抜刀の間合いもない。


 テンカは腰の《継火》へ手を伸ばさなかった。


 ここは皇国学園の演習場だ。

 この場で使うべきものは、学園が用意した訓練剣である。


 テンカは訓練剣を軽く振り、手の内を確かめた。


 刀とは違う。

 だが、刃筋を意識することはできる。


「双方、開始位置へ」


 アリアの指示で、テンカとレオンは砂地の中央へ進んだ。


 向かい合う。


 レオンは訓練剣を正面に構えた。奇をてらった構えではない。足幅も、剣先の高さも、基礎に忠実だった。


 テンカは半身に近い姿勢で構える。


 いつもの刀とは違う。だが、身体に染み込んだ間合いは消えない。


「始め」


 アリアの声が落ちた。


 先に動いたのは、レオンだった。


 一歩。


 踏み込みはまっすぐだった。


 速さで押し潰そうとする動きではない。剣先も泳いでいない。相手の反応を見るための、丁寧な初手。


 テンカは軽く息を吐いた。


 悪くない。


 レオンの訓練剣が、正面から振り下ろされる。


 テンカは受け止めなかった。


 剣の腹を添え、角度を変える。打ち込まれた力が、正面ではなく斜めへ流れた。


 乾いた音が鳴る。


 レオンの剣が逸れた。


 だが、レオンは崩れなかった。踏み込みの勢いを無理に止めず、足を引いて間合いを取り直す。


 周囲から、小さな息が漏れた。


「今の、流したのか?」

「受けていないな」

「グランツも崩れていないぞ」


 テンカは聞こえていないふりをした。


 視線はレオンから外さない。


 レオンもこちらを見ていた。初手を流された悔しさはあるだろう。だが、その目に焦りはない。


「もう一手、参ります」

「来い」


 レオンが再び踏み込んだ。


 今度は同じ打ち込みではなかった。


 一歩目は浅い。

 二歩目で間合いを詰める。


 剣の軌道も、先ほどよりわずかに内側へ入っている。テンカが同じように流そうとすれば、踏み込みの位置をずらして追えるようにしているのだろう。


 ―学ぶ気がある剣じゃな。


 テンカの口元が、わずかに緩んだ。


 レオンの剣が迫る。


 テンカは半歩だけ下がった。


 逃げたのではない。


 レオンの二歩目が乗る位置を、砂地の上から消すためだった。


「っ」


 レオンの足が、ほんのわずかに迷う。


 その瞬間に、テンカは前へ出た。


 訓練剣を強く打ち払うのではない。刃に当たる部分を添え、レオンの剣が進むはずだった道を、半歩だけ外へずらす。


 体勢を崩すには、それで十分だった。


 レオンの肩がわずかに開く。


 テンカはそこへ踏み込んだ。


 砂を踏む音は小さい。


 次の瞬間、テンカの訓練剣は、レオンの右肩口に触れる寸前で止まっていた。


 演習場が静まり返る。


 レオンは動かなかった。


 自分の剣が外へ流され、踏み込むべき場所を失い、その直後に肩口を取られた。その一連の流れを、頭の中で追っているようだった。


 やがて、彼は剣を下ろした。


「……参りました」


 声には悔しさがあった。


 だが、濁りはなかった。


 テンカも訓練剣を下ろす。


「今のは」


 レオンは自分の足元を見た。


「受けられたのではなく、進む場所を消されたのですね」


 テンカは目を細めた。


 よく見ている。


「うむ。剣そのものは悪くなかった。じゃが、二歩目で間合いを詰めると決めた時点で、そなたの進む場所も決まっておった」

「そこを、先に取られた」

「そうじゃ」


 レオンは唇を結んだ。


 悔しいのだろう。

 けれど、悔しさをこちらへぶつけるのではなく、自分の中へ刻もうとしている。


 テンカはその姿を見て、少しだけ声を柔らかくした。


「そなたの剣は、悪くない」


 レオンが顔を上げる。


「初手で崩れず、二手目で変えてきた。わらわは、そういう剣は嫌いではない」

「……ありがとうございます」


 レオンは深く頭を下げた。


 その礼に、先ほどよりもわずかに力がこもっている。


 アリアが一歩前へ出た。


「そこまで」


 その声で、張り詰めていた空気がほどける。


「グランツ君」

「はい」

「初手の踏み込み、剣先の安定は良好です。一度流された後、同じ攻めを繰り返さなかった点も評価できます」


 レオンの背筋が伸びた。


「ですが、二手目では自分の踏み込む位置を先に決めすぎました。相手が下がった時、足を置く場所が狭くなっています」

「はい」


 アリアは次にテンカを見た。


「ハヅキさん」

「はい」


 今度はすぐに返事が出た。


 周囲の何人かが、小さく笑いを堪えた気配がした。


 アリアの表情は変わらない。


「相手の力を正面から受けず、流れを変えました。剣で勝ったというより、足場と間合いを先に取った形ですね」

「そのつもりでした」

「よい判断です。ただし、訓練剣と実戦用の刀では、重さも間合いも異なります。学園の演習では、今後も武器ごとの差を意識してください」

「うむ」

「はい、ですね」

「……はい」


 今度こそ、周囲から笑いが漏れた。


 悪意のあるものではない。


 張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなる。


 アリアは筆記帳へ何かを書き込みながら、学生たちへ向き直った。


「今の手合わせで大切なのは、勝敗ではありません。グランツ君が何を見て、ハヅキさんが何を判断したかです」


 学生たちの視線が、アリアへ集まる。


「力が強い。速い。魔力が大きい。それらは確かに武器になります。ですが、実技で必要なのは、それだけではありません」


 アリアは砂地を示した。


「相手の足を見ること。剣先を見ること。自分がどこへ立ち、相手をどこへ進ませるかを考えること。それもまた、実技です」


 テンカは静かに聞いていた。


 よい教師だと思った。

 褒めるだけでも、叱るだけでもない。何が起きたのかを、見ていた者たちへ言葉として渡している。


 それは、ハヅキ領の訓練場とは少し違う形の教えだった。


「自由手合わせはここまでとします」


 アリアが告げた。


「全員、使用した訓練武器を戻してください。怪我や体調不良がある者は、すぐに申し出ること」


 学生たちが動き始める。


 レオンは訓練剣を戻す前に、もう一度テンカへ向き直った。


「ハヅキ様」

「テンカでよい」


 レオンは一瞬だけ目を丸くした。


「では、テンカ様」

「様は取れぬか」

「すぐには難しいです」

「そうか」


 テンカは小さく笑った。


 レオンは真面目な顔で続ける。


「また、機会があればご指導いただけますか」

「わらわも学びに来ておる身じゃ。指導というほど偉くはない」

「では、また一手、お願いします」

「うむ。それならばよい」


 レオンはどこか安心したように頷き、訓練剣を武器掛けへ戻しに向かった。


 その背中を見ながら、テンカは息を吐く。


「早速、知り合いが増えましたわね」


 隣へ来たエリシアが言った。


「手合わせしただけじゃ」

「剣を交えた相手は、ただ挨拶をした相手よりも覚えやすいものですわ」

「そなたが言うと、妙に説得力があるのう」


 エリシアは涼しい顔で答えない。


 その代わり、淡い青の瞳がわずかに楽しげだった。


「テンカ様」


 今度はミナが近づいてきた。


 紙束を抱えたまま、少しだけ前のめりになっている。


「今の、剣の流れを変えたんですよね。魔力の流れを乱さないようにするのと、少し似ている気がしました」

「また魔導工学につなげたのか」

「あっ、すみません。でも、力を正面から止めるのではなく、道を変えるというか。標的柱の刻印に沿わせた時の水の流れとも似ていて」


 ミナは途中で、自分が早口になっていることに気づいたらしい。


 慌てて口を閉じる。


 テンカは笑った。


「謝るな。そなたの見方は面白い」

「面白い、ですか」

「うむ。わらわが剣として見ておるものを、そなたは流れとして見る。それは、わらわにはない目じゃ」


 ミナの頬が、じわりと赤くなった。


 エリシアが小さく頷く。


「ミナの観察は、確かに興味深いですわ」

「フロストレイン様まで……」


 ミナは完全に困った顔になった。


 だが、その目は嬉しそうだった。


 見学区画の方を見ると、キリカが静かに立っていた。


 目が合う。

 キリカはほんのわずかに頭を下げた。


 心配していたのだろう。


 だが、それだけではない。キリカは、テンカがハヅキ家の訓練場ではなく、皇国学園の砂地でどう剣を取るのかを見ていた。


 テンカは訓練剣を武器掛けへ戻した。


 手の中から重みが消える。


 腰には《継火》がある。けれど今日は、それを抜かなかった。五行も纏わず、ただ学園の訓練剣で、同じ年の学生と一手を交えた。


 それだけのことだった。


 だが、砂地の上に残った足跡は、テンカにとって思った以上に新鮮だった。

 皇国学園には、剣を学ぶ者がいる。魔術を磨く者がいる。魔導工学に目を輝かせる者がいる。


 ハヅキ領にはなかった風が、ここには吹いている。


「悪くない」


 テンカは小さく呟いた。


 エリシアが横目で見る。


「何がですの?」

「この学園じゃ」


 テンカは砂地に残る足跡を見た。


「思っていたよりも、ずっと面白い」


 その言葉を聞いて、エリシアはわずかに口元を緩めた。


 ミナは不思議そうに首を傾げる。


 少し離れた場所では、レオンが騎士家の学生たちに囲まれながら、何かを真面目に説明していた。彼をからかう声はない。むしろ、今の一手をどう見たのか、皆が聞きたがっているようだった。


 テンカはその様子を眺める。


 学園での最初の実技演習。

 測られるだけの時間は、いつの間にか、互いを見る時間へ変わっていた。


 そして、テンカ=ハヅキという名もまた、この砂地の上で、ほんの少しだけ形を変えて歩き始めていた。


 その少し離れた場所で、アリアは筆記帳に視線を落としていた。


 先ほど書き込んだ名の横に、短く一言を添える。


 ――要観察。


 筆記帳を閉じる直前、アリアの視線がもう一度テンカへ向けられた。


 その目にあったものが注意なのか、期待なのか。


 テンカには、まだ分からなかった。

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