第十四話
ざあざあと音を立てて雨が降る。匂うほどの湿気が鼻腔を撫で、天井を雨が叩く音で家が振動する。月を覆い隠す雲によって夜の闇はさらに深まり、地面を覆う水面はその境界を曖昧にする。風はない。虫の声もしない。
そんなある日の夜、寝台で寝ていた僕はベルンに頬を叩かれた。
「んー? まだ、寝かせて、あと……少しで……」
「旦那様、起きろ。なにかが近づいて来る。血の匂いだ」
「え? へ? ほんと?」
僕は慌てて起き上がって小さな火を起こし、周囲を警戒した。しかし、僕の横にベルンが寝転がっているだけで妙なものは見当たらず、臭いを嗅いでみても血の匂いなんてしない。
「どこ?」
「そっちだ」
ベルンが指差したのは、森側にある雨戸だった。
火を一度消し、魔力を多めに起こす。野生の獣ならこれだけでも威嚇になるはずだ。
「っ」
「あ、ごめん」
「いや、いい。ただ、やる前は一言ほしいな」
ベルンも最近は慣れてきたようだが、まだまだ魔術師としてはひよっこ。波動を飛ばすにも気を付けないと無駄な負担をかけてしまう。
「どう?」
「近づいてきてる。気がする。気を付けて」
念のために魔力を練っておこう。
僕はベルンを抱えて雨戸とは反対の壁側に移動し、入り口側に背を向けて立つ。仮に窓の向こうから攻撃されても何とか対応できそうな距離。実際に対応できるかはわからないけど。
僕たちが息を潜めて様子を見ていると、コツコツと雨戸が叩かれた。
「ワニト、我じゃ」
緊張がとけた。この声は間違いなくムツだ。
ベルンを雨戸横の壁にもたれるように座らせ、雨戸を開けて問いかける。ついでに、灯り用の火を宙に浮かせておく。
「ひさしぶりだね、どうしたのさ。こんな夜中に」
「何を童のようなことを言っておる。寝るにはまだ早い」
ひさしぶりに見たムツは、やや痩せている気がした。雨に濡れて毛が張り付いてるからだろうか。いや、心なしか毛の艶も悪いし、これは僕の予想が当たって本当に旅行でもしてきたのかもしれない。疲労感がにじみ出ている。
ムツがポトリと口から何かを落とした。
「なにこれ? 果物?」
外見は柿に近かった。しかし、色は明るい乳白色であり、緑色のぶちが入っている。大きさは一口で食べようと思えば頑張れば行けるくらい。中身はしっかりと詰まっているのか、ずっしりとした重さがあった。皮は薄そうで、つるつるとした手触り。
ベルンも横で不思議そうに眺めていたが、何かに気づいてその表情が強ばる。それを見たムツは満足そうに頷いた。
「そ、そんな、まさか。いや、でも……これは!」
「そうじゃ、柱樹の実じゃ」
二人は驚愕しているが、僕にはなんのことかさっぱりわからない。
「あれはホルユハ大陸に生え、しかも樹の実は厳重に管理されていて、採取は禁止されているはず! 火の森の主よ、どうやってこれを手にいれたのですか?」
「ふむ。やはり知っておったか」
「え、何? ホルユハ大陸? え、ムツ海渡ってたの?」
ムツが海を泳いでる姿を想像して、僕は思わず吹いてしまった。
ホルユハ大陸は、僕たちが住む大陸とは別の大陸だ。西の凪海を渡るか、東の真央洋を渡るか、どちらにしても海をわたらないといけない。島伝いに行くにしても島と島を泳いで渡るのは無理なので、船が必要だ。一体どうやったんだろう。
「というか、柱樹ってなに? これ貴重なの?」
ムツはベルンを見た。ベルンは気まずそうに目を逸らしたが、やがて訥々と話始めた。
「柱樹は母樹とも呼び、特級友好指定されている。四畏という言葉は聞いたことがないか? その一種だ」
「ああ、あるある。なんか仲良くしなきゃいけない種族だっけ。そのすごい奴」
「そうだ、母樹、通称柱樹の特徴は生命。平たく言うと治癒の能力をその身に宿す。その葉を噛めば体力が付き、その樹液を舐めればたちどころに傷が塞がり、その実を食べれば――失った手足さえ生えてくると言われている」
「ええ! なにそれすごい!」
と驚いて、僕は冷静になる。
「待って。それならなんでその事を教えてくれなかったの? そんなにいいものがあるなら僕が取りに行ったのに」
うつむくベルンを、僕は見つめた。なんだろう、純粋に疑問に思っただけなのに、まるでベルンは叱られるのを嫌がっている子供の様な反応をしている。
答えないベルンの代わりにムツが口を開いた。
「さっき言っておっただろう。採取は禁止されておるのだ。柱樹を擁する国によってな」
「ええ、あ、あれか。権利の独占ってやつ? けど、一個くらいならばれないでしょ」
「捕まれば厳罰だ。最悪死刑もありうる」
嘘でしょ。たかが樹の実で。
驚く僕に対して、ムツは苦笑した。そして、ベルンの頭に顎を乗せ、ふん、と鼻を鳴らした。
「ベルンは主が無茶をしないかと気を使ったのじゃ。それくらい察せ」
「え? 本当?」
ベルンは顔を上げなかった。それは僕の自惚れでなければ肯定を意味していて、つまりベルンは僕のことを心配してくれていたのだ。
……照れる。顔が熱い。
と、そこまで説明されて再び最初の疑問に戻る。そんなものをムツはどうやって手に入れたのだろうか。
「あれ? じゃあどうやったの? というか海を渡るために船を乗っ取ったりしてないよね?」
「馬鹿が、柱樹なんぞこの大陸にも生えておる。我も幼少期に住んでいた森の中に生えているのを思い出してな、ちょっくら採ってきただけよ」
「あー、北の」
「か、開拓地に生えているというのですか? あの母樹が?」
その言葉にベルンが食いついた。急に顔をあげたことによってムツの歯がカチンと噛み合わさるが、舌を出してはいなかったので被害はない。
僕らの住むスセヨ大陸はまだまだ開拓が進んでおらず、大陸の端に人が住んでいるだけだ。だから、北には広大な開拓地があるわけだが、環境の厳しさからこれ以上開拓が進むことはないとされている。ムツの言葉が真実ならば、その開拓地にお宝が大量に生えているということだ。
「ふふふ。納得いったかの? というわけで、食え、ベルンよ。一つしか手に入れることはできなかったが、恐らく両足と片腕くらいならばそれでも十分なはずじゃ」
「……ですが」
「遠慮することはない。友への贈り物じゃ」
何故か遠慮するベルン。なんでだろう。本当なら手も足も戻ってきて万々歳。こんなに嬉しいことはない気がするのに。
と、そこで僕は寒気がした。本当に僅かだが、嫌な魔力の波動を感じた。
「……ムツ、なんか感じない? 遠くの方から」
「いや、感じないが」
何気なく聞いてみて、さらなる悪寒が走った。それは先程のものとはまた別で、あることに気づき、思い出したからだ。
血の匂いがする。
「ムツ、どこか怪我してない?」
僕の言葉にベルンがはっとした顔をする。同時に、ムツは苦々しげに顔を歪めた。
「長居しすぎたの。ここら辺で帰るとしよう」
「ちょっと待って!」
素早く雨戸から飛び出してムツの全身を見る。そこで、僕は言葉を失った。
違和感はあった。いつもなら玄関から入り込んできておしゃべりするムツが、雨戸から顔だけを突き出していたからだ。そんな気分なのかもしれないと流していたが、こんなにめでたいことがあったなら、たとえ深夜であろうと酒盛りをしようとするはずだ。なのに、まるでこの後用事でもあるかのように早々と用事を済ませようとしている。
その理由はこれだ。
ムツの腹は大きく抉られ、そこから腸がこぼれ、おびただしい量の血が流れている。ムツが歩いてきた後はまるで赤い川の様だ。怪我は一カ所ではない。尾も根元から一本ちぎれ、断面には鮮やかな白い骨がのぞかせている。後ろ脚を片方引きずっているところを見ると、そこも骨か何かをやられたみたいだ。
「ムツ、これ……!」
「騒ぐでない。痛みはもうない」
「そんな、なんでこんな傷を! あ、そうだ、ベルン! 樹の実を」
「ならん!!」
ムツが叫んだ。
僕は怯んだ。僕だけじゃない、窓から顔を出していたベルンも尻餅をついている。
「少し失敗しただけじゃ。樹を占有していた奴が思ったより手強くての。まあ、大丈夫。我がこれからきっちり止めを刺してくる」
「そんな、無茶だよ! この血の量じゃ! 樹の実を食べて、治してからにしよう。僕も一緒に行くから!」
「ならんと言ったじゃろう。我だけで十分じゃ、主は寝て、おれ」
ムツは立っているのに耐えられなくなったのか、がくりとひざを折って伏せる。そして、一度立つことをやめたせいで気力が尽きてしまったのか、そのまま横に倒れた。血の勢いはさらに増し、雨によってできた水面はムツを中心に血で染まっていく。
僕は慌てて駆け寄るけど、なにもできない。ムツの息はどんどん荒くなる。
「奴は罪竜。主では、敵わん」
「ムツ、まず治療をしよう。それから話そう」
「我を、森に、おいて、ゆけ」
「嫌だよ!」
再び、あの妙な波動を感じた。まるで自身のやり場のない怒りを、波動に乗せて飛ばしているようだ。お前を絶対に殺す。探し出して殺す。隠れていないで出てこい。自分はここにいる。そう言っているみたいに。そして、確信する。この波動の主がムツをこんな目にあわせた敵だと。
「まだ、奴は、こちらの、場所を気づいて、おらん」
「ムツ、ちょっと痛いかもしれないけど、運ぶよ」
「だから、我を、森に」
ムツはそして、目を閉じた。
大丈夫、息はある。そんな簡単にムツは死なない。
僕はムツを家に運び込んだ。あの妙な波動をその背に感じながら。
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