木曜日の怪異
週中も過ぎた、木曜日。ちょっと退屈な日常を紛らわすスパイス程度に聞いた噂話に、今の状況と同じことがあったとぼんやり思い出す。
ふと気付いた時には、周囲は建物の影に入って暗く、自然と立ち止まった足が、明るい場所を求めて、一歩、二歩と前へ進む。人気のない場所なので、先程から聞こえるのは自分の足音ばかり。いや、しばらく聞き耳を立てていると、変な音が混じっているなと思った。何と言うか、軽い棒状のビスケットを齧る様な、ポキポキという音だ。
視線が足元に落ちる。周囲の影に混じって自分の足元にも影。あぁ、月が出ていたのだったっけ。
もう一度前を見据えて、上がる視線。目の前には、覗き穴が空いた壁がある。壁は硬いコンクリの筈なのに、綺麗な円を描いた直径5-6cmの穴が、向こう側を見渡せるよう貫通しているのだ。そこから光でも漏れていたのか、音に誘われるまま、覗き込む。
ポキポキ、ポキポキ。
片目を細めて様子を探ると、向こう側はこちらと同じく建物の影、それも建物と建物の間の狭い場所だった。なんでここを覗こうと思ったのだったっけと、改めて思う。それに、こんな場所にこんな綺麗な覗き穴なんてあったかしら。
ポキポキ、ポキポキ。
そのまま眺めていると闇に目が慣れて、向こう側の狭い通路に誰かいる事に気がついた。蹲る二つの影。その一方は、一人の上に覆いかぶさっていたのだと、立ち上がった事でわかる。そして人影は、周囲から漏れる光を反射させながら、こちらを振り返った。その時はっきり見えたのだが、相手の顔立ちは、人の顔にしては、やけに鼻先が尖っている。キツネや狼に似た骨格の顔で、口元から顎にかけては、冗談みたいに真っ赤だ。
――あぁ、駄目だ。今すぐ逃げなければ。
噂話では、誘いこまれて目が合っただけでは、まだ大丈夫。けれどそこからがゲームの始まりで、狼怪人は追い駆けてくる。すぐに逃げ出さないと、追って来る影に捕まったら、もう帰れない。そこまで思い出した時には、自分は回れ右して、走っていた。
――狼さん、狼さん、手の鳴る方へ――
走って逃げている最中、パンパンと手を叩く音と、そんな少女の声が聞こえた気がした。
☆★☆
人間にとって幸いなことに、魔族もまた、生物である。しかし、長命種な為か、はたまた動植物やら自然環境から魔力というエネルギーを摂取する構造を持つ為か、高位と呼ばれる存在になればなるほど、人に比べて代謝は無いに等しい。その頂点となる魔王も、魔族と同様の構造と考えれば生物と仮定出来るだろうが、彼らに代謝は無いと考えた方が自然だろう。だが、封印された影響か、間借りする宿主の精神エネルギーに影響するのか、顕現するトラストの体は人間に近く、腹も減れば、眠気も湧く、大変不便な状態となっていた。
眠気のせいか、朝日の眩しさのせいか、何度か目を閉じて深く息を吐きだしたトラストは、そう自分の状態を推察し、日課となっているインスタントコーヒーをお湯で溶いて口に含む。過去、火口に降り立っても何ともなかった体表が熱さを感じて、「あちっ」と、彼は唇を人差し指の甲で拭った。そして、ちらりと壁掛け時計を見た。そろそろ宿主である万里の悲鳴が上がる時間である。ずずずと音を立ててコーヒーを啜ると、案の定、「寝過した!」との悲鳴が聞こえて来た。
スヌーズで繰り返される目覚ましにも負けず、このギリギリの時間まで眠ることが出来るのは彼女の特殊能力だろうかと呆れながら、彼はせめてもの情けと、パンをトーストしてやる。きっかり二分半、パンが焼けて皿に乗せると同時に万里が走り込んで来、今置いたばかりのパンを奪い取って、玄関へ身を翻した。ドタドタと婦女子にあるまじき粗雑さで靴を履くと、不満を言おうと顔を出したトラストを振り返り、見送りに来たとでも思ったのか、満面の笑みで「いってきます!」と出ていく。
「お主の為にしたわけではないぞー…」
トラストは無駄と知りつつそう呟き、やれやれとリビングへ引っ込んだ。彼が兄の演技を止めた後は、家事は分担制と話しあったはずなのに、事、朝食に関しては約束が守られた試しがない。トラストが言わない事を良い事に、万里は妹の時の様に、彼の協力を“当たり前”に受け取っていた。それに付き合う自分も自分だと、トラストは小さく息を吐くが、それだけ彼女が彼に信を置いていると考え、神殿に寝返る事はないとの判断材料にもしている。信頼とは程遠い不確定な状況に、彼は軽く頭を掻いた。
そしてリビングに戻ると、マグカップは持ったまま、もう一方の手でリモコンを操る。そうして思案した。過去の宿主の中には、自滅だと教えても、神殿に駆けこむ信心深い者も居た。代わって魔王の能力を行使し、神殿に追われた者も居る。今回の宿主は心に幼いままの自分を飼っている、人恋しい、寂しがり屋の小娘で、このまま家族ごっこをしている限り、トラストの顕現期間は続くだろうと予測出来た。それでなくとも、今の時代の人間達は、≪魔術≫という奇跡の術を使わなくとも豊な生活を送っており、現に万里も魔王の力を当てにする素振りは全くない。封印中は狭い箱に閉じ込められた状態に似ていて、だからこそ、この顕現出来た状態を彼は愛し、なるべく長い期間――宿主の寿命が尽きるその時まで――を維持したいと考えていた。人間相手に媚を売るなどと憤慨する、矜持の高い方ではないので、これで良いのだ。
ピッとテレビの電源を入れると、女子アナが「いってらっしゃい」と手を振るシーンで、トラストは微妙な顔をする。そのまま次のリモコンを押して、お硬いニュース番組をやっているチャンネルにすると、リモコンを置いた。ソファに背をもたれさせて楽な姿勢にすると、彼はちびちびコーヒーを啜りながらそれを眺める。
『市場の移転問題で――』
シティ=ロマージュは田舎の方なので、主だったニュースの舞台はシティ=アースに近い大都市であったり、シティ=アース自体の問題についてである。正直、余所の市場がどうなろうか、こちらに影響のない限り、全く興味を引かれない事柄であるが、それが重要とニュースで流れているのは不思議であった。まぁ、後々国の税金として後始末を付けるのだろうと大半の人間が思っているのではないだろうか。それぐらいの気持ちで眺めていると、「ん?」と彼の目が細まった。
『昨日深夜、東地区エイター駅にて、「人が死んでいるようだ」と、同地区に住む男性が都市警護隊へと届け出ました。遺体は一部白骨化しており、同署は身元確認を急いでいます』
この田舎で珍しい事と思ったからだが、次に事件現場周辺の光景が画面上に流され、最近、買い物途中に見た記憶があるそれに、彼は無言でマグカップを机に置いた。
『都市警護隊によると、死後数日であり、体に無数の切り傷や野犬による噛み傷が多数みられるとの事です。同署は、身元の確認を急ぐと共に――…』
トラストが黙って凝視する画面に、ぱっとブルーシートの一部が映る。その、ほんの僅かな時間、トラストの左目が淡く輝いた。彼の視界は、ブルーシートに隠れた見えない部分を飛び越え、その時間に記憶されたであろう内部の様子を捉えていた。
赤茶、そして黒の、粉末を水に粗く溶いたペンキを用い、周囲に撒いた様な壁。その壁に背を預けるようにして、座り込んだ姿勢の遺体。慌ただしく遺体の周囲を行き来する都市警護隊の足と、その靴音。
遺体の胴体部全面の主だった肉は引きちぎられ、内臓も半分以上欠損して、残りが肋骨に引っ掛かったり、遺体の周囲に散っている。顔は伏せてあるので見えない。
「ふぅむ」
唸ってそれを眺めていれば、彼の≪眼≫が捉える光景は、景色としての情報から、画面の端から細く崩れ、解けた糸の様になって宙へ漂う、ふわふわした波紋様へ変化する。それが≪魔族≫が見る世界の≪情報≫であり、それらは自然と彼の体表を撫でると、その内部に溶け込んだ。そうして一度目を閉じた彼は、次には眉根を寄せて、続けた言葉を噛み砕く。
「愚かな事よ」
険しく細められた両目は、軽い苛立ちを示した。こういった被害を受けた人間の状態を、彼は良く良く知っている。それはもうずっと昔、人がシティ・アースで暮らしていた頃、それも、まだ歯車のある機械を生み出す前の時代――≪魔族≫が幅を利かせていた頃――にあった事。高位の魔族であれば、死体は綺麗なままか、さっぱり消失してしまうだろうが、この状態から見て考えると、低位のそれだろう。それか、≪魔力≫の薄い人間界の事、余程、飢えていたか。折角、魔王の≪魔力≫も行使せず、ただ人に紛れて大人しくしているのに厄介事が増えたと、彼は眉間を押さえた。
「早ぅ、余所へ行けば良いが」
――この現場の惨状を知れば、神殿が動く。
その懸念を抱え、彼は再び思案気に頬杖をつき、切り替わる画面が見えないかの様に、じっと画面の一点だけを凝視し続けた。




