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第5話:跡形なき惨劇の噂と、忍び寄る陰謀の影

「あああぁぁぁぁッ!!」


「気をつけろ! その黒い雪に触れるなッ!」


ヒステリックな絶叫、完全に統制を失い崩壊していく重装陣形、そして魂まで凍りつくような極寒が、ヴァレリウスの頭の中で狂ったように渦巻いていた。


「黄金、古代のアーティファクト、領地……何でもあなたに差し上げよう! イグラシア帝国の弱点も教える! あなたを帝国の支配者にすることだってできる! 生かしてさえくれるなら、あなたの奴隷にだってなる!」


他の記憶もまたヴァレリウスの脳裏で駆け巡り、すべてが壊れたカセットテープのように反復していた。その絶対的な恐怖は、終わりのない悪夢のように彼の首を締め上げ続けていた。


――不意に、温かい涙の雫が彼の頬に落ちてくるまでは。


ヴァレリウスはビクッと身を震わせ、まるで水底から引き上げられたかのように激しく喘ぎながら、ゆっくりと重い瞼をこじ開けた。その視界は冷や汗でひどく滲んでいた。


彼の五感が最初に捉えたのは、血の悪臭が漂うヴェルメイユ平原の曇り空ではなく、どこまでも馴染み深いラベンダーの香りだった。


「セリーナ……」

喉に砂を飲み込んだかのように、極めて掠れた声がヴァレリウスの口から漏れた。


自分の名前を呼ばれた瞬間、セリーナの張り詰めていた糸が完全に切れ、彼女の防御壁は崩れ去った。彼女は即座に顔を伏せ、自身のお腹を圧迫しないよう極めて慎重に、ヴァレリウスの首元にすがりついた。ヴァレリウスの首を抱きしめる彼女の口からくぐもった嗚咽が漏れ、その華奢な肩は激しく震えていた。


「あなた……お願い……目を覚まして……私よ、ここにいるわ」

震えるその優しい声。ヴァレリウスは強張った首をゆっくりと巡らせた。彼の傍らには、漆黒の髪を持つ一人の女性が、身を乗り出すようにして座っていた。


ヘーゼル色の彼女の瞳は赤く腫れ上がっていた。ここ数日、まともに眠ることもできず、その時間の大半を泣いて過ごしていたことを如実に物語っている。そして、純白のドレスの下にある彼女のお腹は、大きく膨らんでいた。


その瞬間、ヴァレリウスの中にあったすべての戦闘本能が溶け去った。戦線の総監であり、臨時司令官であり、そしてイグラシア帝国における第六位の実力者、皇帝の第六の指《インペリアル・フィンガー》である男は、今やただの一人の脆い夫でしかなかった。


ヴァレリウスは、剣ダコに覆われた荒い両手をゆっくりと持ち上げ、妻の背中をしっかりと撫でた。あの黒い雪の悪夢がもたらす極寒と、白髪の化け物の姿がゆっくりと蒸発していく。代わりに、彼が最も愛する女性の、確かな体温がそこにあった。


「俺はここだ……家に、帰ってきたぞ」

ヴァレリウスは掠れた声で囁いた。彼は妻の芳しい髪に顔を埋め、募った郷愁を癒すようにその香りを深く吸い込んだ。


セリーナの嗚咽が収まるまで、数分の時間を要した。彼女はゆっくりと顔を上げ、夫が意識を取り戻したという純粋な喜びに満ちた眼差しでヴァレリウスを見つめた。セリーナの柔らかい親指が、夫のこめかみに残る冷や汗をそっと拭い取る。


「二日間よ……」

セリーナはまだ掠れている声で囁いた。


「あなた、ひどい高熱を出して、丸二日間も眠っていたの。空っぽの鎧の海の中で倒れているところを発見されたそうよ。何十万もの兵士のうち……生き残ったのはほんのひと握りで、ほとんど誰も生還できなかったって……」


ヴァレリウスは妻の顔を両手で包み込み、セリーナの頬に残る涙の痕を拭った。


「しっ……もう大丈夫だ。泣かないでくれ。お前の泣く顔を見るのが、俺にとって一番辛いんだからな」


セリーナは無理に微笑みを作り、ヴァレリウスの温かい掌に頬を擦り寄せた。ヴァレリウスの視線は、ごく自然に妻の大きなお腹へと向けられた。ゆっくりと、ヴァレリウスの手がドレスの表面を撫でる。凄腕の剣士であり、強力なマグマ魔術の使い手であるという彼の恐ろしい評判とは正反対の、極めて優しい手つきであった。


「それで……俺たちの小さなチャンピオンは元気か?」

ヴァレリウスは微笑みながら尋ねた。


まるで父親の挨拶に答えるかのように、微かな脈動に続いて、小さな蹴りがヴァレリウスの掌に直に伝わってきた。


ヴァレリウスはわずかに目を見開き、息を呑んだ。そして、純粋な驚きと感動をもってそのお腹を見つめた。


無意識のうちに、彼の唇から小さな笑い声が漏れた。彼はまだ力の入らない身体をわずかに傾け、何かを囁くように、セリーナのお腹へと耳を近づけた。


「パパはここだぞ、チャンピオン。ママを心配させて悪かったな」


ヴァレリウスは温かい声で囁いた。

「この子も、あなたに会いたかったのよ」

セリーナは柔らかく微笑みながら、片手で夫の褐色の髪を撫でた。


「宮廷の治癒術師が言うには、とても健康だそうよ。もう魔力回路の脈動すら感じられるんですって。きっと、あなたの強力なマグマ魔術を受け継ぐわ。


「いや……」

ヴァレリウスは顔を上げ、セリーナの瞳を見つめ返して答えた。


「この子は、お前の優しい心を受け継ぐはずだ。それは、どんな魔術よりも遥かに価値があるものだからな」


心地よい沈黙が二人を包み込んだ。ヴァレリウスは病室の天井を見つめながら、ヴェルメイユ平原で実際に何が起きたのか、その記憶を繋ぎ合わせようと試みた。


自分は、どうやって生き残ったのだ?

だが、その記憶の底を掘り起こそうとした瞬間、分厚い壁が彼の正気をブロックしているかのような感覚に襲われた。雪……影……白髪の化け物……そして、身の毛のよだつような『空虚』。


「うっ……!」

突如としてヴァレリウスは顔をしかめ、額を押さえた。何千本もの鋭い針で突き刺されたかのように、彼の頭が激しく脈打ち、割れるように痛み出したのだ。


「あなた!? どうしたの? どこが痛いの!? すぐに治癒術師を呼んでくるわ!」

セリーナはパニックに陥って立ち上がり、その顔を再び青ざめさせた。


「いや……必要ない」

ヴァレリウスは急いで妻の手首を掴み、引き留めた。彼は一瞬だけ目を閉じ、荒ぶる呼吸を整え、その苦痛を隠すように無理やり安心させるような笑みを浮かべた。


「ただ……少し目眩がしただけだ。戦場で魔力を使いすぎた反動かもしれない……。誰も呼ばないでくれ。今は、お前と二人きりでいたいんだ」


セリーンは不安そうに彼を見つめていたが、再びベッドの端に腰を下ろした。今度は彼女の方から身を乗り出し、ヴァレリウスの額に自身の額をそっと押し当てた。互いの鼻先が触れ合い、吐き出される息が同じリズムで溶け合っていく。


「約束して、ヴァル」と、セリーンは囁いた。彼女の手が、ヴァレリウスの病衣の胸元――心臓の真上のあたりを、きゅっと握りしめる。


「あなたが回復しても……もう王都から離れないで。最前線には戻らないでちょうだい。この子が生まれるまで、私のそばにいて。私……またあなたを失いかけるなんて、もう絶対に耐えられないわ」


ヴァレリウスの胸が痛むほどに高鳴った。妻の瞳の奥に、どれほど深い恐怖が刻み込まれてしまったかを悟ったのだ。彼はセリーンの腰に手を回して彼女を抱き寄せると、その額にゆっくりと口づけを落とし、彼が与えられるありったけの安心感を伝えようとした。


「約束する」妻の髪に顔を埋めたまま、ヴァレリウスは囁いた。


「俺はどこにも行かない。お前たち二人を、俺が守り続ける。約束するよ」


ヴァレリウスのその誓いを聞いて、セリーンはようやく安堵の吐息を漏らすことができた。彼女はヴァレリウスの胸に頭を預け、絶え間なく、そして穏やかに響く夫の心音に耳を澄ませた。ヴァレリウスも目を閉じ、悪夢の残滓を洗い流してくれるかのような安らぎを感じていた。


彼の世界は、今ふたたび完全なものとなったのだ。

やがて、セリーンはゆっくりと抱擁を解いた。彼女は目尻に残る涙を拭い、掠れた声で小さく笑い声を立ててみせた。


「見ての通りよ。あなたが目覚めたばかりなのに、私ったら小さな子供みたいに泣いてしまって」セリーンは少し乱れた髪を整えながら呟いた。

そして彼女はベッド脇の小さなテーブルへと向き直り、まだ温かい湯気を立てている磁器の器を手に取った。


「治癒術師が、あなたが目覚めたらすぐに食事を摂らせるようにって。このブイヨンスープ、さっきから用意してあったの」


ヴァレリウスは上体を起こそうとしたが、普段は数十キロもある大剣を平然と振り回す彼の両腕は、今や激しく震えていた。セリーンが慌てて彼の肩を支えなければ、そのまま枕へと倒れ込んでいただろう。


本人はまだ自覚していなかったが、アリスと直接激突したことによる後遺症は、今この瞬間も彼の肉体に色濃く影を落としていたのだ。


皇帝の第六の指《インペリアル・フィンガー》の顔に、一瞬だけ苛立ちと無力感がよぎった。だが、セリーンは柔らかく、彼を安心させるような微笑みで見つめ返した。


「無理しないで。今回ばかりは、私にお世話をさせてちょうだい」と、セリーンは優しく言った。


セリーンはベッドの端に座り、スプーンでスープをすくうと、ゆっくりと息を吹きかけて冷まし、ヴァレリウスの口元へと運んだ。


ヴァレリウスは妻の顔を見つめながら、自身の胸の奥深くに重い罪悪感が忍び寄るのを感じていた。最前線で何万もの軍勢を率いていた男は今、ただ大人しく口を開き、妻の手からスープを受け取っている。ブイヨンの温かさが胃の腑へと流れ込み、どういうわけかまだ胸の底に巣食っていたあの凍てつく冷気を、わずかに追い払ってくれた。


「なぁ、セリーン……」スープを飲み込んだ後、ヴァレリウスは両脚を覆う白い毛布を虚ろな目で見つめながら、ぽつりと呟いた。


「ヴェルメイユにいた時……あの暗黒の真っ只中で……俺は生まれて初めて、底知れない恐怖を感じたんだ」


スープをかき混ぜていたセリーンの手がピタリと止まった。彼女は引き裂かれるような思いで夫を見つめた。彼女の知るヴァレリウスは、帝国で六番目の実力を誇り、極めて強靭な精神を持ち、死を微塵も恐れない男だったはずだ。


ヴァレリウスはゆっくりと顔を上げ、痛々しいほどの実直さをもって妻の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。


「敵の剣に斬られて死ぬことは恐ろしくない。だが、あの冷気に全身を包み込まれた時、俺の脳裏をよぎったのは、お前の顔と……俺たちの子供のことだけだった。俺は、本当に恐ろしかったんだ、セリーン。この子が生まれ、父親の顔を一度も知らずに育っていくことを想像すると、怖くてたまらなかった。お前が一人、あの家で泣き崩れる姿を想像すると……背筋が凍った」


セリーンの瞳から再び涙が溢れ出した。彼女はスープの器をテーブルに置き、ヴァレリウスの両頬を両手で優しく包み込んだ。


「あなたは帰ってきたのよ、あなた。忘れないで。あなたはもう、私と一緒にここにいるの」

ヴァレリウスはゆっくりと頷き、妻の手の甲にそっと触れた。


「俺は考えたんだ。体が回復したら……元帥に頼んで、王都の警護任務へ異動させてもらう」


セリーンは目を見開き、自分の耳を疑った。最前線に立ち、軍を指揮することこそがヴァレリウスの誇りであり、彼が何より好んでいたことだったからだ。


「帝国の指《インペリアル・フィンガー》の務めは、皇帝陛下をお守りすることだけではない。王宮や、王都にいらっしゃる皇族の方々を守ることも含まれている。だから元帥に、その任に就かせてくれるよう直訴するつもりだ」

声はまだ掠れていたが、ヴァレリウスの言葉には強い意志が宿っていた。


ヴァレリウスは病室の窓へと視線を向けた。そこには、午後の陽光に照らされた平和な王都の街並みが広がっていた。ヴァレリウスは一瞬、帝国十指《インペリアル・フィンガー》を辞退することすら頭をよぎったが、そう考えた途端に激しい頭痛が走り、その思いを撤回せざるを得なかった。


「皇族の方々の警護であれば、少なくとも毎晩家へ帰ることができる。俺たちのチャンピオンが歩き覚える瞬間を、この目で見届けたいんだ。初めての木剣の握り方や、魔術を教えてやりたい」

セリーンの目から、幸福の涙が溢れ出た。彼女は何度も深く頷き、心からその言葉に同意した。


「ええ……二階のお部屋を模様替えしましょう。壁のペンキは、あなたが塗ってね。私たちは平和に暮らすのよ、あなた。外の戦争なんて、もう二度と私達に触れられないわ」


「ああ、もちろんだ」

ヴァレリウスは温かく微笑み、視線を再び王都の堅固な街並みへと戻した。


「王都は、この帝国で最も安全な要塞だ。俺たちがここにいる限り、どんな危険もお前たち二人に近づかせはしない」

しかし、ヴァレリウスがそのあまりにも光明に満ちた平和な未来を語ったまさにその瞬間、彼は小さく咳き込んだ。胸元に手をやると、心臓の真中央で、見覚えのある冷気が脈打つのを感じた――あのヴェルメイユ平原(ヴェルメイユへいげん)で味わったものと、まったく同じ冷気を。


「あなた? 胸が痛むの?」

セリーンが心配そうに尋ねた。


「いいや……少し冷えただけだ」

ヴァレリウスは小さく笑い、その懸念を払拭した。


彼は知らなかった。そして、永遠に知ることはないだろう。彼の足元に潜む影が、この小さな家族のあまりにも美しい計画を『聴き入り』ながら、底知れぬ愉悦に浸って微かに揺らめいていたことを。


==========================


一方その頃、ヴァレングラードにて――。


ヴァレングラードにある酒場の隅で、アリスは極めて優雅に脚を組んで座っていた。笑い声とエールのジョッキがぶつかり合う音で満ちあふれる一般的な酒場とは異なり、この日の午後の店内は重苦しい雰囲気に包まれていた。空気は緊張した囁き声と青ざめた顔で満ちている。


アリスは銀のナイフで皿の上のミディアムレアのビーフステーキを切り分け、ゆっくりと口に運んで噛みしめた。血のように赤い彼女の瞳は窓の外を見つめ、この二日間に自身が行った出来事を思い返していた。


ヴェルメイユ平原での戦いの後、アリスはすぐさまヴァレングラードへ向かったわけではない。代わりに、アリスはノックスの地下秘密実験場へと立ち寄っていた。そこには人間、亜人、魔物、魔族といったあらゆる生き物の骨の山と、無数の結晶が積み上げられていた。彼女の封印を解くためのアーティファクトのレプリカを生成すべく、ノックスが数千年にわたり繰り返してきた、血塗られた実験の痕跡であった。


その影の化け物の忠誠心に対し、アリスは少なからず満足感を覚えていた。もっとも、アリスの視点から言えば、自身の血から生み出されたノックスは自分自身と同義であったのだが。


その後、アリスはわざわざヴェルメイユ平原の地底へと戻り、かつて自身が眠っていた巨大な水晶ピラミッドの残骸を黙然と見つめた。自らの魔術の痕跡が一切残っていないことを完全に確認した上で、ようやくこの辺境都市へと足を踏み入れたのである。


「この肉は少々硬いな……」

アリスは食べ物を飲み込みながら、小さく呟いた。その肉の豊かな風味から、ごくわずかな魔力のオーラが彼女の体内の回路へと流れ込んでいく。


「だが、味付けは悪くない」


温かいチョコレート飲料を啜りながら、アリスの耳は、向かいの席にいる商人たちとフリーチャンピオンの集団の会話を容易く拾い上げていた。彼らはテーブルの中央に身を乗り出し、半ば囁き声で話している。


「正気かよ!? 何万もの最前線の部隊が……あっという間に消えちまったって言うのか!?」

豊かな髭を蓄えた商人が、声を押し殺して言った。


「声がでけぇよ、馬鹿野郎!」

向かいの男が答え、周囲を恐ろしげに見回した。


「俺の妻の従兄弟が、戦場の死体処理を担う兵站施設で働いてるんだ。奴がこの目で直接見たんだぞ! 死体の海なんてどこにもねぇ、血の一滴すら落ちてなかった! ただ不毛な大地に、何万もの空っぽの鎧が転がっていただけだったんだ!」


大柄なフリーチャンピオンが、震える手でエールを飲み干しながら口を挟んだ。

「じゃあ、生き残った奴らはどうなんだ? ルメリアの連中がどんな兵器を使ったのか、一人か二人くらいは見た奴がいるだろうが?」


「そこが一番イカれてる部分なんだよ……」

綿のように青ざめた顔をした痩せこけた男が答える。


「生き残った数百人の兵士たち……全員、何も覚えてねぇんだ。まるで、記憶をそっくり消し飛ばされたみたいにな」


「消されただと?」


「ああ! 頭の中身を無理やり空っぽにされたみたいなんだとよ! 陣地を出発したことだけは覚えてて、気づいたら病院のベッドの上だったらしい。昨日、ヴァレングラードの病院の職員から直接聞いた話だ」


髭の商人が息を呑んだ。

「大規模な精神破壊魔術だってのか? ルメリア王国は、魔王軍の幹部でも雇い入れやがったのか?」


「ルメリアじゃねえよ、馬鹿! 奴らの軍勢も、まったく同じ目に遭ってるんだ」

フリーチャンピオンの一人が言った。


「戦場の外縁を警備していた予備部隊の連中が言うにはな……すべてが静寂に包まれる直前、平原全体を覆う巨大な血の霧のドームが出現したらしい。誰一人としてそこを突破できなかった。そして、そのドームが砕け散った時には……すでにすべてが空っぽだった。誰も何も覚えていない。こんなもん、人間の魔術じゃねえ……死神の怒りが地上に降り注いだんだ」


アリスは、そのパニックに満ちた陰謀論を無表情のまま聞いていた。彼女は新鮮な葡萄を一粒つまみ、口の中に放り込んだ。死とは確かに恐ろしいものだが、無知というものは、人間の精神をそれ以上に苛むものである。


テーブルの下で、アリスの影がゆっくりと波打った。木の床板の上にノックスの顔のシルエットがぼんやりと浮かび上がり、その薄暗く光る瞳が、恐怖に怯える男たちのテーブルをじっと見つめていた。


(奴らは極めて愚かですね、母さん……)

ノックスの声が極めて低く響いた。それは、アリスの頭の中にだけ直接届く、どす黒い傲慢さに満ちた振動であった。


(あの脆弱な人間どもは、無知の中で手探りをしている。神の怒りが降臨したなどと思い込んでおりますが、そのすべてを引き起こした張本人が、同じ部屋で自分たちと一緒に葡萄を楽しんでいることなど露知らず……)


アリスはその暗い称賛に答えることはなかった。彼女はフォークを置き、ヴァレングラードの酒場の料理にそこそこの満足感を覚えていた。さて、支払いの時間である。だがいつものように、アリスはわざわざ硬貨の入った財布や鞄などを持ち歩いてはいなかった。


「給仕」

アリスは静かに呼んだ。その声は滑らかであったが、なぜか酒場内の喧騒を突き抜け、一人の男性の給仕が頭を下げながら慌てて駆け寄ってきた。


「は、はい、お嬢様? 何か不足でもございましたでしょうか?」

給仕は緊張した面持ちで尋ねた。あまりにも魅惑的でありながら、彼を激しく威圧する冷たいオーラを放つアリスの顔を、直視することすらできないでいた。


「会計はいくらじゃ?」


「全部で……銀貨三枚になります、お嬢様」


アリスは一切の躊躇なく、傍らの床に向けて右手を伸ばした。ほんの一秒前まで人類に対してあそこまで冷徹で、見下したような態度をとっていたノックスが――瞬時に、丸く赤い瞳を持つ影の人型の頭部として立ち上がり、まるで諦めきった空のレジ引き出しのように、その顎を大きく開いたのである。


ズボッ。


アリスは自身の腕を、肘のあたりまでノックスの口の奥底へと突っ込んだ。

酒場の給仕はビクッと後ずさりし、背後にあるテーブルに激突した。眼前に繰り広げられる、恐怖と不条理が入り混じったその光景を見て、彼の眼球は眼窩から飛び出さんばかりに見開かれていた。


「少し待て……わらわが昨日、実験室で手に入れた硬貨はどこにやったかのう……」


アリスは平然と呟きながら、ノックスの胃袋の中をかき回した。

時折、そこから武器や鎧、重い物体がぶつかり合うような金属音がガシャガシャと聞こえてくる。ノックスは彫像のように沈黙を保つことしかできず、自らの創造主の手が自由に探れるよう、無力に口腔を広げ続けていた。


「ああ、あったぞ」


アリスは腕を引き抜いた。血も、魔物の唾液もついてはおらず、空中で蒸発していく僅かな影の霧があるだけだった。彼女の指先には、まだ眩い輝きを放つ二枚の金貨が挟まれていた。アリスはそれをテーブルの上――まるで魂を刈り取られたかのように激しく両脚を震わせている給仕の目の前へと、静かに置いた。


「釣りはとっておけ。そして、何も言うな」

アリスは溢れんばかりの優雅さをもって言い放った。


その後、アリスは上質な布のナプキンで唇の端を拭った。つい先ほど、化け物を自分の手提げ鞄代わりに使ったことなど微塵も感じさせない振る舞いであった。


「か、かしこまりましたぁッ!!」

給仕は猛烈に震える指で金貨をひったくるように拾い上げると、二度と振り返ることなく、狂ったように厨房へと逃げ去っていった。


「妙な奴じゃ」

アリスはぽつりと呟いた。


こんにちは!


これでプロローグは終了です。今回は、この章の内容について少し解説しますね。


この世界において銀貨三枚というのはかなりの大金なのですが、なぜ酒場でアリスの会計が銀貨三枚にもなったのでしょうか? それは、彼女が村人たちの会話に耳を傾けながら、酒場にある高品質な肉をほとんど平らげてしまったからです(笑)。


それでは、ありがとうございます!


— Fallen Lily



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