第4話: 屍すら残さぬ絶対蹂躙。白き女神の【Origin Skill】
今、アリスの視線は眼前に残存する数万のイグラシア帝国軍へと向けられていた。
彼女が存在しているというただそれだけで大気は重く沈み込み、重装兵たちの肉体を制御不能なほどの震えへと追い込んでいた。
アリスは、完全に希望を失ったイグラシア帝国軍を見て、短くため息をついた。すでに絶望に呑まれた者たちと戦うことなど、命なき人形を壊すことと同じくらい退屈なことであった。
「ここで終わらせるとしよう」
アリスは氷のように冷たい声で言った。
アリスはゆっくりと目を閉じ、体内に流れるエネルギーを感じ取った。数千年にわたり彼女を縛り付けていた封印のせいで、現在彼女の体内にある魔力容量は5パーセントにも満たない状態であった。通常であれば、それほどまでに少ない残存魔力で、十万の軍勢を一掃するような大規模魔術を放つことなど不可能である。
だが、アリスにエネルギーを浪費するような爆発魔術は必要なかった。
彼女は白き女神である。この世界の従来の魔術法則を超越した権能を有していた。彼女は【Origin Skill】を行使しようとしていた。それは魔力容量ではなく、彼女の魂の存在そのものに直接結びついた絶対的な能力である。
アリスが再び目を開くと、目の周りに浮き出ていた神経がゆっくりと沈み、滑らかな肌へと戻っていった。絶対的な優雅さをもって彼女の身体はふわりと宙に浮き上がり、死の悪臭が鼻を突く極めて不毛な大地から離れていく。
彼女の眼下では、金属がぶつかる音が鳴り響いていた。それは戦闘によるものではない。生き残る希望を完全に見失い、諦めに満ちた手から武器や盾が零れ落ちる音であった。
「もう、終わりだ……」
「俺たちは皆、ここで死ぬんだ……」
「皇帝の『帝国十指』の一人でさえ、あの化け物には敵わなかったというのに……」
「俺たちは、もうおしまいだ」
絶望の慟哭が、死の合唱のように響き渡った。数万の兵士たちは今や、不毛な大地にただ座り込むか膝をつき、死刑執行人が判決を下すのを待つしかなかった。
その時、ノックスが思考伝達を通じてアリスへの報告を始めた。
(母さん、現在戦闘中の三十万の兵力のうち、十万が母さんの封印を解くために消費されました。内訳はイグラシア帝国軍が六万、ルメリア王国軍が四万でございます)
(続いて、母さんがルメリア王国軍の七万八千を屠りましたので、現在奴らの残存兵力はわずか二千ほどとなっております)
(イグラシア帝国に関しましては、約十一万が残っておりますが、彼らはすでに希望の光を失っております。言い換えれば、歩く屍と何ら変わりありません)
(報告ご苦労、ノックス。すべてを殺すつもりはない。一部は生かしておいてやる。そろそろ、ここで終わらせるとしよう)
アリスは今、上空にいた。より正確には、生命が途絶えたかのような不毛な大地となった地表から百メートルの高さである。金色の模様が施されたアリスの漆黒のローブと彼女の白髪が、吹き抜ける風に煽られてはためいていた。
眼下にいるのは、歩く屍のように顔を真っ青に染めたイグラシア帝国の残存兵と、ごく一部のルメリア王国軍の兵士だけであった。
アリスの紅き瞳が、澄んだ眩い光を放った。
突如として、先ほどまで灼熱の蒸気に覆われていた昼間の空が急激に暗転した。ほんの数秒のうちに、昼が夜へと変わったのだ。
アリスの背後で、血のように赤い月食を思わせる巨大な魔法陣が、空を覆い尽くすように咲き誇り始めた。
「わらわは、貴様らに何の恨みも抱いてはおらぬ」
アリスは抑揚のない声で言った。その声は、不毛な大地にいるすべての兵士の頭蓋骨に直接響き渡った。
「哀れではあるが、わらわの踏み台となってもらうぞ」
アリスにとって、これは殺戮ではなかった。三千年の封印を経て、自身のエネルギーと魔力を回復させるという目的のために行わなければならない「収穫」であった。
「だが、せめてもの慈悲だ……」
氷のように冷酷にアリスは続け、判決を下す女神のように眼下を見下ろした。
「約束しよう。痛みは感じさせぬ」
「【Origin Skill : Aetheris Snowfall】」
暗黒の空から、何十億もの雪の結晶がゆっくりと舞い落ち始めた。だが、その雪は白ではなかった。周囲のすべての光を吸い込むかのように、漆黒に染まった黒き雪であった。
その光景は極めて美しく、それでいて息が詰まるほどの死のオーラをもたらしていた。
「なんだ、これは?」
「ただの雪、か……?」
「なぜ、こんな場所で雪が降るんだ?」
混乱したイグラシア帝国の兵士が顔を上げた。
一片の黒き雪が、彼の頬にふわりと舞い降りた。
その黒き雪が肌に触れた瞬間、兵士の顔面は即座に光り輝く塵の粒子へと砕け散った。苦痛を認識する暇も、悲鳴を上げる間も与えられず、彼の肉体と鋼の鎧は完全に蒸発し、存在そのものがこの世から抹消され、虚空には何も残らなかった。
アリスの約束通り、そこには爆発もなければ、身の毛もよだつような激痛も存在しなかった。その【Origin Skill】は、物質の存在を瞬時に破壊する概念的な魔法ダメージを与えるものだった。
その隣にいた兵士は、眼球がまぶたから飛び出さんばかりに目を見開いた。
「な、なんだ!? 逃げろ! その雪に触れるなッ!」
絶対的なパニックが爆弾のように弾けた。何万もの兵士たちがヒステリックに絶叫し、陣形が完全に崩壊するまで当て所なく逃げ惑った。彼らは互いを突き飛ばし、踏みつけ合いながら、開けた不毛な大地の中でどうにか身を隠す場所を見つけようともがいた。
数名の指揮官が巨大な鋼の盾を掲げ、頭上に防護魔法を詠唱した。だが、無駄であった。その黒き雪が魔法の盾や鋼鉄に触れた瞬間、防壁すらも塵となって蒸発し、そのまま貫通して彼らの肉体を跡形もなく消し去った。
「いやだあああっ! 俺の足が――ギャアアアアッ!」
「助けてくれ! たす――」
一人、また一人と、何万もの人間の肉体が空中で青い光の粒子となって蒸発していく。ヴェルメール平原の戦場は、極めて静寂に包まれた死の灰の海へと変貌した。
別の片隅では、ルメリア王国の五人のフリーチャンピオンが恐怖に泣き叫びながら狂ったように逃げ惑っていた。眼前の騎士の列が塵と化して消え去るのを目撃し、治癒術師の女は声が枯れるまでヒステリックに絶叫した。彼女は地面に崩れ落ち、一片の漆黒の雪が自分の目めがけて一直線に降ってくるのを見て、きつく目を閉じた。
「私、死ぬ、死んじゃう――ッ」
しかし……その漆黒の雪は空中で突如として不自然に軌道を曲げ、彼女の鼻先からわずか数ミリのところを逸れて、背後にいた兵士へと舞い降りた。その兵士は即座に跡形もなく消滅した。
「え……私、死んでない……?」
治癒術師は荒い息を吐きながら目を開けた。彼女の肉体は無傷のままだった。
彼女だけではない。アリスによって標的から外されていた数千の兵士たちも同じことに気がついた。あれほど猛烈に死の黒き雪が降り注いでいるというのに、一片の雪すら彼らの肌には触れなかったのだ。それらの雪の結晶はまるで目と知性を持っているかのように、巧みに風を切り、生存者たちの身体を避けて、すぐ隣に立っている戦友だけを正確に消し去っていった。
その心理的恐怖が、彼らの正気を完全に粉砕した。大量破壊魔法の最中にあっても神の如きミクロレベルの超精密制御を見せつけられ、生き残った兵士たちは、あの白髪の化け物の目から見て、人間の存在がいかに小さく取るに足らないものであるかを悟ったのだ。
その殺戮の圧倒的な恐怖と、精神的および心理的な極限の疲労により、生き残った者は一人残らず気を失い倒れ込んだ。
数分後、空を覆っていた赤い月食がゆっくりと薄れていった。黒き雪もまた、降り止んだ。
魂すら凍りつくような静寂が舞い降り、ヴェルメール平原を包み込んだ。イグラシア帝国の何万もの兵士、軍馬、騎兵、そして鎧が、跡形もなく消え去っていた。死体もなく、血の一滴すら残っていない。まるで最初からその軍勢が存在しなかったかのように、戦場は完全に空虚であった。
「終わったな」
アリスは紅き瞳を輝かせながら冷徹に口にした。
続いて、アリスは優雅に指を鳴らした。突如として嵐のような突風が平原全体を吹き抜け、彼女が残した魔法と魔力の残留物を綺麗に拭い去った。神々に一切の痕跡を残してはならないからだ。
無表情のまま、アリスは両掌を開き始めた。
瞬く間に、この戦場で命を落としたすべての者たちの魂とエネルギーがアリスの掌へと吸い込まれ、極限まで濃縮され、やがて一つの青い林檎を形成した。
アリスは一切の感情を交えることなく、すぐさまその林檎を食した。彼女がそれを齧る度、林檎の欠片がいくつかこぼれ落ちた。
突如、アリスの体内にエネルギーの激流が湧き上がった。彼女の魔力とエネルギーは完全に回復し、巨大な衝撃波を生み出すほどに至った。その衝撃は、すでに気を失っていた生存者たちを含め、戦場にあるあらゆるものを吹き飛ばした。
数千年ぶりに自らの血管を逆流する純粋なる力の激流を感じながら、アリスの記憶はゆっくりと、九柱の神々がわらわを封印するためだけに力を合わせた、あの屈辱的な瞬間へと引き戻されていった。
ゆっくりと、彼女の美しい顔に薄い笑みが刻まれた。それは怒りの笑みなどではない。極めて優雅でありながらも、致命的で残酷極まりない微笑みであった。
「その玉座で首を洗って待っておれ」
アリスはそう呟き、雲の彼方を遠く見つめた。その眼差しは、天空に座す神々の首を真っ直ぐにロックオンしているかのようであった。
瞬きをする間に、アリスはヴェルメール平原から忽然と姿を消した。
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パリンッ……ガシャァァァァンッ!
耳をつんざくような破砕音が、午後の静寂を切り裂いた。
これまでイグラシア帝国とルメリア王国の軍勢を閉じ込めていた不可視の障壁がついに崩壊し、赤いガラスのように粉々に砕け散って宙に蒸発していったのだ。
同時に、視界を飲み込んでいた分厚い赤き霧も風に吹き払われ、夕暮れの陽光が再び大地を照らし出した。
ヴェルメール平原。かつてこの場所は平和な緑の草原であり、両国の国境に住む牧畜民たちが、太陽の暖かさの下で動物たちに新鮮な青草を食ませる場所であった。周辺には多くの牧畜民が暮らしているため、ここでは常に新鮮な肉が豊富に供給されていた。
しかし、霧のカーテンの向こう側に現れたその光景は、今や凍てつく地獄の顕現へと変貌していた。大地は不毛に干からびてひび割れ、息が詰まるほど極めて濃厚な死のオーラに包み込まれていた。
数時間前。
戦場からさほど離れていない場所に設営されたイグラシア帝国の総司令部テントの内部には、押し殺されたようなパニックが忍び寄っていた。
テントの中には貴族や軍の高官たちが集まっており、皇帝もまた、感情の読めない表情で玉座に静かに座っていた。冷や汗を流し始めた貴族や高官たちの間の静寂を破るのは、皇帝が椅子の肘掛けを指でゆっくりと叩く音だけであった。
彼らは絶対的な勝利の報せを待っていた。だが、代わりにもたらされたのは、戦場からの絶対的な『沈黙』であった。
突如、テントの入り口がバサリと開いた。一人の偵察兵が転がり込むように入ってきて、激しく喘ぎながら即座に片膝をついた。
「ほ、報告します! 主力部隊との通信が途絶えました!」
「なんだと!?」
「そんな馬鹿なことがあってたまるか!」
貴族たちの間で、即座にパニックが爆発した。狂乱したようなざわめきがテント内に充満しかけたその時――鋼のように冷たく重い声が、その喧騒を切り裂いた。
褐色の髪を持つ一人の男が前に歩み出た。その背筋は真っ直ぐに伸びており、周囲の空気を重く沈み込ませるほどの圧倒的な支配感を放っていた。
勲章で飾られた軍服ではなく、彼は帝国の食物連鎖の頂点に立つ自身の地位を誇示するような特殊なローブを身に纏っていた。彼こそが、皇帝の帝国十指におけるナンバー・ツー。ヴァーミリオン元帥である。
「何が起きた? 詳細を報告しろ!」
ヴァーミリオン元帥が命じた。彼の両目は、獲物をロックオンした鷹のようにその兵士を鋭く見据えていた。
「み、奇妙な結界と分厚い血の霧が、突如として戦場全体を覆い尽くしたのです、閣下! 視界は完全に塞がれ、我々の魔術ではその結界を破ることもできません!」
兵士の声は激しく震えていた。
「すべての予備部隊を周辺に待機させろ。私が直接確認に向かう」
ヴァーミリオン元帥は首を巡らせ、皇帝へ許可を求める視線を向けた。皇帝はただゆっくりと頷き、誰の耳にも届かないほどの小さな声で何かを呟いた。
「一体、何が起きたというのだ……」
皇帝は静かに呟いた。
貴族たちは軽度のパニックに陥りかけていたが、軽率な行動を取ることはできないため、必死に自身を落ち着かせようとしていた。テントの周囲には、皇帝の『指』である極めて強力な実力者たちが数名控えているからだ。
最前線に到着したヴァーミリオン元帥は、赤い霧の海の前に立った。
彼が濃密な魔力を込めて片手を振るうと、強風が吹き荒れて霧を真っ二つに切り裂き、ゆっくりと脈打つ暗赤色のエネルギーの壁が姿を現した。
予備の兵士たちは、固唾を呑んでヴァーミリオン元帥を見つめていた。元帥の放つ純粋なプレッシャーは、ヴァレリウスの五倍、常人の数十倍はあろうかというほどに極めて恐ろしいものであった。
言い換えれば、ヴァーミリオンはヴァレリウスの五倍もの実力を有しているということだ。
「一体何の結界だ? ルメリア王国の秘密兵器だとでも言うのか?」
ヴァーミリオンは呟いた。
だが、彼は即座にその考えを打ち消した。ルメリアはごく普通の王国に過ぎず、このような大陸規模の異常事態を引き起こす力など持ち合わせているはずがない。
ヴァーミリオンは革手袋に包まれた掌を、その赤い壁の表面に押し当てた。そして、指先に破壊のエネルギーを集中させる。
ピキッ!
接触点から小さな亀裂が光を放った。しかし、ほんの数ミリ秒のうちに、その亀裂は彼の努力を嘲笑うかのように完全に塞がってしまった。ヴァーミリオンはわずかに目を見開いた。この結界内部の魔力密度が極めて異質であり、そして……『空虚』であると感じ取ったからだ。
彼はローブの下から帝国の聖なるアーティファクトを引き抜き、この壁を破壊することも考えた。だが、彼の理性的な本能がそれを拒絶した。この異常な物体を力任せに攻撃すれば、背後にある司令部テントをも吹き飛ばす大爆発を引き起こしかねない。
「なんだこれは……。まるで歯が立たないぞ」
ヴァーミリオンは忌々しげに呟いた。
「総員、戦闘態勢を維持しろ! この壁が消滅するまで、何人たりとも動くことは許さんッ!」
ヴァーミリオンが怒号を飛ばした。
そして現在――その壁は自壊し、粉々に砕け散っていた。
皇帝、貴族たち、そして予備部隊が、戦いの最終的な結果を見届けるべく野営地から駆け出してきた。しかし、敵の死体の山と飛び散った鮮血の海を予想していた彼らの期待は、はるかに恐ろしい恐怖によって瞬時に打ち砕かれた。
「一体……これは……」
「何が起きたというのだ……?」
全員の頭の中に疑問の山が築き上げられる中、皇帝だけは沈黙していた。彼は何かが決定的に狂っていることに気づき始めていたが、それが何なのかは分からなかった。
「全軍、戦場へ前進し、状況を調査せよ! 私が直接指揮を執る!」
全兵士に響き渡る大音声で、ヴァーミリオン元帥が命じた。
曳光弾にも等しい速度で、ヴァーミリオンはその不毛な平原を駆け抜けた。だが、彼の足取りは徐々に遅くなり、やがて完全に停止した。その顎が硬く引き結ばれる。
「一体、何なんだこれは……」
ヴァーミリオンは驚愕に顔を歪ませて言った。
死体が、一つもない。
ヴェルメール平原の広大な大地には、数万の鉄の鎧、剣、槍だけが、中身を失ったまま転がっていた。ごく一部は粉々に砕け散っていたが、その大部分は完全に無傷であった。まるで、それを身に着けていた者たちの肉体だけが、この世界の存在から強制的に吸い出されてしまったかのように。
同じ光景は、ルメリア王国軍の陣地にも広がっていた。平原の中央では、巨大な樹木の切り株の凍りついた残骸が、ゆっくりと溶け落ちていた。
「……馬鹿げている」
ヴァーミリオンはほとんど聞き取れないほどの声で呻いた。
「生存者の救出に専念せよ!」
ヴァーミリオンは命令を下した。
「はっ!!!!」
兵士たちが応じる。
空っぽの鎧の海の中に、いまだ生きている数名の兵士たちが意識を失って倒れていた。彼らの正気は、想像を絶する恐怖によって完全に粉砕されていた。ヴァーミリオンの鋭い視線が、巨大な氷の樹の残骸からさほど離れていない場所に倒れ伏す、エリート用の鎧を纏った一つの肉体を捉えた。
彼は即座に駆け寄り、その傍らにしゃがみ込んだ。
「……ヴァレリウス」
皇帝の帝国十指におけるナンバー・シックス、ヴァレリウスが無力に倒れ伏していた。彼は激しく痙攣するまぶたをゆっくりと開いた。その眼差しは虚ろであり、彼の魂がいまだ絶対的な恐怖の中に囚われていることを示していた。
「ヴァーミリオン……お前、なのか……?」
ヴァレリウスの声は極めて掠れ、今にも消え入りそうであった。
「雪……黒き雪……あの、紅い瞳……」
ヴァレリウスは無意識のうちに涙をこぼしながら、力なく自嘲するような笑みを浮かべた。
「そうか……もう、終わったのだな……」
ヴァーミリオンがさらに問い詰める間もなく、ヴァレリウスは再び意識を失った。親友を抱き起こそうと視線を落としたヴァーミリオンの目は、反射的にある「異変」を捉えた。
午後の陽光の下、地面に落ちたヴァレリウスの肉体の影が、大気が死に絶え無風であるにもかかわらず、ゆらゆらと揺らめいているように見えたのだ。そこには極めて濃厚なオーラの欠片――生きているかのような、そしてこの上なく邪悪な『何か』が、影の中にへばりつくように潜んでいた。しかし、瞬きをするほどの間に、その異常な影はただのありふれた影へと溶け込んでしまった。
元帥は野営地へと首を巡らせ、遠くからヴェルメール平原を見つめて立つ皇帝の姿を見据えた。ヴァーミリオンは、ここに決定的に間違ったパズルのピースが存在することを感じ取っていた。そして初めて、イグラシア帝国とルメリア王国の紛争という枠を遥かに超えた、巨大な陰謀の悪臭を嗅ぎ取ったのである。
イグラシア帝国とルメリア王国の部隊もまた、残存兵の救出を開始していた。両陣営とも、一体何が起きたのかを完全に理解できていなかった。生き残った者たちは、誰一人としていまだ意識を取り戻してはいなかった。




