第3話:灼熱と水魔の激突——『帝国十指』ヴァレリウスの死闘
生き残ったイグラシア帝国軍の兵士たちは、激しく全身を震わせながらルメリア王国の壊滅を目の当たりにしていた。
彼らが誇る『鉄壁のファランクス』陣形など、あの化け物の前では何の意味もなさないことを、彼らは本能で理解していた。
しかし、絶対的な絶望が彼らを打ちのめそうとしたその瞬間、一人の男が兵士たちの列を割り、最前線へと歩み出た。まるで、最後の一筋の希望の光をもたらすかのように。
その男の名は、ヴァレリウス・レオフリック。
肩まで伸びた金髪に、鋭い眼光を放つエメラルドグリーンの双眸。他の兵士たちのような重厚な鋼の鎧ではなく、彼は金色の刺繍が施された栗色の帝国軍服を身に纏っていた――それは、この戦場における彼の絶対的な権威を象徴していた。
ヴァレリウスが片手を掲げると、彼の口元に蜘蛛の糸ほどに極細の金色の魔法陣が展開された。それは音声増幅の魔術であった。
「総員、傾聴せよ!」
ヴァレリウスの怒号が轟き、兵士たちの首を絞め上げていた恐怖の呪縛を打ち砕いた。
「私はイグラシア帝国皇帝が誇る最高戦力、帝国十指が一人、ヴァレリウスである! ただ今より、私がこの軍の指揮権を掌握する!」
その圧倒的な存在感と名乗りに、残存兵たちは思わず息を呑んだ。彼らの胸の奥底に、再び微かな勇気の火が灯り始める。
「これより巨大な魔法陣を展開する! 全魔術師は魔力を結集させよ! 故郷で待つ家族の元へ生きて帰るための、これが唯一の好機だッ!!!」
絶望と闘志が入り交じった雄叫びが、イグラシア帝国軍の陣列から爆発的に沸き上がった。
イグラシア帝国の『ミリタリー・チャンピオン』に属する数百名の上級魔術師たちが即座に陣形を組み、その後方に続く数千の一般魔術師たちも手を取り合った。眼前の化け物を打ち滅ぼすための一撃に、彼らは自らの命と残されたすべての魔力を懸けたのだ。
イグラシア軍の最前線の上空――空を覆い尽くすほどの、直径数百メートルにも及ぶ極厚の赤き魔法陣が瞬時に展開され、禍々しく咲き誇った。
その魔術は極めて強欲であった。魔法陣は魔力のみならず、魔術師たちの生命力までも強制的に搾取し始めたのだ。数百名もの魔術師たちが即座に鮮血を吐き出し、干からびた肉体となって意識を失い倒れていく。
イグラシア軍の足元の大地が激しく揺れ動き、地核から湧き上がる沸騰するほどの超高熱によって地割れを引き起こした。
「【Pure Magic : Massive Magma Tsunami】」
高さ六十メートルに達する液状のマグマの波が、戦場を飲み込みながら猛烈な勢いで迫り来る。その超高熱は、数十メートル離れた場所からでも鋼鉄を溶かすほどであった。灼熱のマグマの大津波は、アリスを生きたまま呑み込もうとする狂竜のごとく咆哮を上げた。
迫り来るその人為的な大災害を前にしても、アリスの表情は冷徹なままであった。一方、アリスの肩にいるノックスもまた、眼前にマグマの大津波が迫っているにもかかわらず、そのおぞましい笑みを崩すことはなかった。
アリスは一瞬だけ目を閉じた。そして、ゆっくりと胸を膨らませ、深く息を吸い込む。
「【Divine Magic : Oceanus Breath Wall】」
アリスの紅き瞳が鋭く見開かれた。古代の神竜のごとく、彼女は吸い込んだ息を一気に吐き出した。
彼女の美しい唇の間から、水が噴出した――否、それは単なる水流などではない。虚無から爆発的に生み出された、刹那の『海』そのものであった。行使する者が白き女神であるがゆえに、その水の質量と密度は、この世界の物理法則を完全に崩壊させていた。
何十億立方メートルという超高圧の質量を持った水が射出され、マグマの波よりも遥かに高く、分厚い巨大な海壁を形成する。それは戦場の中央で、マグマの大津波と正面から激突した。
ジュゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!!!
純粋なマグマと超高圧の水の凄まじい衝突は、平原全体を激しく震動させるほどの大規模な水蒸気爆発を引き起こした。ほんの数秒のうちに、嵐の雲のように分厚い灼熱の蒸気の霧が戦場全体を呑み込み、視界をわずか一メートル以下にまで奪い去り――不気味なほどの静寂だけを残した。
イグラシア帝国の重装歩兵たちは、盾を固く構えて身を寄せ合った。目の前で起きた極めて恐ろしく絶望的な事象に、彼らの顔にはトウモロコシの粒ほどの大粒の冷や汗が浮かんでいた。視界がほとんど効かない濃霧の中、彼らの荒い息遣いだけが響く。
「陣形を維持しろ! 誰一人として動く――」
ズバァァァッ!
空気を引き裂く風の音が、部隊長の怒号を途中で断ち切った。白い蒸気に覆われた空から、一つの影が銃弾のごとき速度で射出され、鉄壁のファランクス陣形の中央の真上から、分厚い霧を突き破って降下してきたのだ。
立ち込める極厚の灼熱の蒸気の奥底で、その影の双眸が濃厚な紅蓮の光を放って輝いていた。
ズドオォォォォォォンッ!
アリスは、大地を粉砕し地割れを引き起こすほどの超壊滅的な衝撃とともに着地した。その瞬間に発生した凄まじい衝撃波が、彼女の周囲にいた数十人の重装兵たちを、枯れ葉のように易々と吹き飛ばす。彼らは皆、一瞬にして絶命していた。
舞い上がった土埃がまだ完全に収まらないうちに、特殊な魔術を付与された重装兵たちの数十本の鋼の槍が、四方八方から一斉にアリスへと突き出された。しかし、アリスの顔には微塵の感情も浮かんでいなかった。
戦慄を覚えるほどの冷静さで、アリスはそれらの致命的な槍の刃の間を縫うように躱していく。その動きはバレエの舞いのように極めて滑らかであった。一本の巨大な槍が彼女の胸を真っ直ぐに貫こうとした瞬間、アリスはわずかに上体を反らし、その槍の柄を踏みつけた。
その槍を握っていた兵士は驚愕に目を見開き、絶対的な恐怖が彼の全身を包み込んだ。アリスはその槍の柄を橋のように利用し、その上を神速で駆け抜けた。そして兵士の眼前に迫ったまさにその瞬間、アリスは鋭い回し蹴りを放った。
バキィッ!
アリスのその小さな蹴りは、数千の巨人の一撃を濃縮したかのような破壊力を秘めていた。的確に兵士の首元を捉えた蹴りはそれを一瞬にして粉砕し、鋼の兜に守られた頭部そのものを凄まじい速度で弾き飛ばした。
そして、それが別の兵士の頭部に激突する。
その衝突により、二人の頭部はスイカのように無惨に弾け飛んだ。
アリスはそのまま空中へと跳躍し、再び胸を膨らませて深く息を吸い込み始めた。
「【Pure Magic : Acid Flooding】」
彼女の唇の間から緑色の水が吐き出され、一度に数百人の兵士たちを飲み込んだ。それは、極めて強力な酸性の水であった。その水を浴びた兵士たちは即死し、彼らの死体は瞬く間に溶け落ちて白骨だけが残された。
「私を忘れるなッ!」
突如としてヴァレリウスがアリスの背後に現れ、極厚の赤きオーラを纏った剣で斬りかかった。しかしアリスは、首を微かに巡らせることすらなく、流れるように身体を反転させると、そのマグマの剣刃を素手で掴み取った。
ジュゥゥゥゥッ!
その並外れた超高熱により、アリスの掌から微かに白い煙が立ち上る。しかし、ほんの数ミリ秒のうちに、アリスの手から絶対零度の冷気が放射された。ヴァレリウスのマグマの剣は瞬く間にその熱を奪われ、完全に氷へと凍りついてしまった。
自身の武器が凍結されたことを悟ったヴァレリウスは、一瞬の躊躇もなく即座に剣の柄から手を離した。彼は後方へと跳躍し、酸の水溜まりに侵されていない安全な地面へと着地する。
アリスは凍りついた剣を無造作に放り投げた。彼女は空中でゆっくりと身体を回転させながら降下し、地面から数センチ浮遊した状態で、ヴァレリウスと真っ直ぐに対峙した。
(母さん、この蝿には少々お気をつけください)
突如、アリスの脳内にノックスの声が響いた。
(決して侮れる相手ではありません。もちろん母さんの敵ではありませんが、現在、母さんの力はまだ一割に制限されております。奴に隙を与えてはなりません)
(ならば、わらわも少し本気を出すとしよう)
アリスは冷徹に返答した。
アリスの両掌の周囲の大気が瞬時に凍りつき、分厚く青い氷で形成された二振りの長剣を創り出した。それに呼応するように、アリスの縦に割れた紅き瞳が一層強く輝く。こめかみ周辺の細い神経が再び浮き出し、最後の獲物に狙いを定めた頂点捕食者のごとく、ヴァレリウスを睨みつけた。
その眼差しを受けたヴァレリウスは、骨髄まで凍りつくような悪寒を感じた。自身の命が数秒後に終わるであろうと、彼の中の本能が絶叫していた。彼はすぐさま残るすべての魔力をかき集め、すべてを懸ける覚悟を決めた。
ズォォォンッ!
アリスが視界から消えた。それは高速移動などという次元ではなく、まるで現実から消去されたかのようであった。論理を超越した化け物が突如として姿を消し、いつでも自分を殺せる状態にあるという事実は、極めて恐ろしいものであった。
ヴァレリウスの背後で、極めて濃厚な死と恐怖のオーラが爆発した。アリスはすでにそこにおり、イグラシア帝国の帝国十指が一人である彼の首に向け、両手の青き氷の剣を十字に振り下ろそうとしていた。
「くそっ、速――」
ガキィィィィンッ!
突如として不可視の六角形の盾が出現し、アリスの双剣による斬撃を阻んだ。それでもなお、アリスは微塵の表情も崩さなかった。その衝撃でヴァレリウスは前方へと吹き飛ばされたが、結果として彼は安全な距離を取ることに成功した。
しかし、その盾が長く保つことはなかった。
パリンッ……ガシャァァァァンッ!
盾は薄いガラスのように粉々に砕け散った。それと同時に、ヴァレリウスの指にはめられていたエメラルドが装飾された黄金の指輪が、爆けて塵と化した。その指輪は、一度だけ致命的な攻撃を防ぐことができる絶対防御のアーティファクトであった。そして今、その指輪は完全に破壊されたのだ。
「くそっ!」
ヴァレリウスは悪態をついた。
ヴァレリウスが両足を大地に強く踏み込むと、彼の足元に燃え盛るような赤き魔法陣が展開された。
「【True Magic : Triple Magma Dragon】」
アリスの足元の大地が爆発し、巨大な東洋の龍の姿をした三頭のマグマの竜が姿を現した。竜たちは咆哮を上げ、即座にアリスへと襲いかかる。周囲の気温が極限まで急上昇したが、それでもアリスの表情は冷淡なままであった。
アリスが数歩後方へと跳躍すると、三頭のマグマの竜は獲物をロックオンした捕食者のように彼女を追撃する。しかし、アリスは即座に竜たちへ向かって突進し、両掌にある二振りの剣刃を用いて、いとも容易く三頭のマグマの竜を切り裂いた。
アリスの氷に触れた瞬間、極端な温度低下を引き起こした三頭のマグマの竜は、即座に黒曜石の固体へと変わり、砕け散って大地に散乱した。
「チィッ」
マグマの魔術がアリスに全く通じないことを悟り、ヴァレリウスは次の一手を欠き始めていた。
アリスは銃弾のごとき超高速で突進し、二振りの氷の剣を水平に薙ぎ払ってヴァレリウスの首を刎ねようとした。対するヴァレリウスは無詠唱で魔術を発動させ、新たなマグマの剣をその手に顕現させて防御を試みる。
ガキィィィィンッ!
二つの剣の激突は耳をつんざくような水蒸気爆発を生み出し、周囲にいた一般兵たちの耳を激しく鳴らし、鼓膜から血を流させた。ヴァレリウスは、アリスが軽く振るった二回の斬撃を防ぐためだけに、自身の持つすべての膂力と魔力を振り絞っていた。
ヴァレリウスの腕の筋肉が隆起し、ギリッと歯を食いしばる。その一方で、アリスの顔は凍りついた湖面のように、依然として平坦で穏やかなままであった。
「理不尽なほどの腕力め――」
骨が軋むほどの圧力の下、ヴァレリウスは突如としてマグマの剣から手を離し、アリスの斬撃をやり過ごして回避した。
同時に、ヴァレリウスの左手にはすでに極限まで圧縮されたマグマの球体が練り上げられていた。彼はこの一撃に、残されたほぼすべての魔力を注ぎ込んでいた。ヴァレリウスは至近距離から、そのマグマの球体を握り込んだ拳をアリスの腹部へと叩き込もうとする。
ズドオォォォォンッ!
鼓膜が破れんばかりの轟音とともにマグマが爆発し、極めて濃厚な黒煙と巨大な衝撃波を放った。ヴァレリウス自身も、自らの攻撃の反発力によって数十メートル後方へと吹き飛ばされた。彼は荒い息を吐きながら、少なくともこの一撃が、あの化け物に何らかのダメージや傷を与えていることを祈った。
しかし一方で、アリスはかすり傷一つ負うことなく、わずか一メートルほど後退しただけであった。水で形成された壁が、その爆発から彼女を自動的に守っていたのだ。立ち込める土煙の奥から、アリスの紅き瞳が妖しく輝きを放った。
ヴァレリウスは激しく喘ぎ、砂のように乾いた唾を飲み込んだ。自らの渾身の攻撃がアリスに何の打撃も与えられなかったことに、彼は深い絶望を感じていた。眼前の白き女神は、死刑囚を処刑しに向かう死刑執行人のように、ゆっくりと歩み寄ってくる。
しかし、ヴァレリウスにはまだ最後の切り札が残されていた。彼が一枚のカードを取り出すと、そこから一本の豪奢な剣が顕現した。その剣には、まるで地獄で鍛え上げられたかのような赤黒い紋様が刻まれていた。
「俺は、こんな所では死なんッ!」
彼は絶望の中で咆哮した。
ヴァレリウスの口から一筋の血が流れ落ちる。それは先ほどの激突により、彼自身の内臓が崩壊し始めている証拠であった。ヴァレリウスが両手を握り合わせると、周囲に残存していたマグマが吸い込まれ、彼が手にする長剣へと狂気的なまでに圧縮されていく。剣の色はドス黒い赤へと染まり、死にゆく星のように目を眩ませるほどの輝きを放った。
ヴァレリウスの周囲の大気が、極限の超高熱によって激しく歪み始める。
「【Ultimate Skill, Imperial Secret Art : Red Supernova Slash】」
ヴァレリウスの速度が即座に音の壁を突破した。山をも両断せんとする赤き彗星と化した彼は、自身の生涯における最強の斬撃を、白き女神アリス・ヴァシリッサの首元へと真っ直ぐに見舞った。
しかし、アリスの紅き双眸には、その攻撃すらもスローモーションで動いているようにしか見えていなかった。
アリスはいつものように一切の表情を浮かべることなく、ヴァレリウスの攻撃を避ける素振りすら見せなかった。彼女はゆっくりと右手を持ち上げると、目を眩ませるほどの赤きマグマの剣刃を、あろうことか人差し指と中指の二本だけで摘まみ取った。
キィンッ!
時間が止まったかのように思えた。絶大な破壊力を秘めたその一撃は、アリスの細くしなやかな二本の指の挟撃によって完全に停止していた。鋼をも溶かすはずの超高熱は、彼女の肌を微塵も焼くことはなかった。
「馬鹿な……」
ヴァレリウスの瞳孔が激しく震えた。
アリスはただ、周囲の神経を浮き上がらせながら赤く発光する瞳で、ヴァレリウスを見つめ返した。その間にも、絶対的な恐怖がヴァレリウスの潜在意識の底までを包み込み始めていた。
「人間にしては、そなたはなかなか見所のある才を持っておるな」
アリスは感情のない声で静かに言い放った。
パリンッ……ガシャァァァァンッ!
アリスが手首を捻ると、数万度の超高熱を誇っていた剣刃は瞬時にその熱を奪われて完全に凍結し、粉々に砕け散った。
その衝撃でヴァレリウスは地面に崩れ落ちた。アリスが指先を軽く弾くと、即座に彼の手足は完全に凍りつき、身動き一つ取れなくなった。
アリスはゆっくりと歩み寄り、戦闘の序盤で凍結させていたヴァレリウスの最初の剣を拾い上げた。魔力を操作し、表面の氷の層を溶かして鋼の剣を元の姿へと戻す。
そして、その剣先をヴァレリウスの顔面へ真っ直ぐに突きつけた。皇帝の『帝国十指』が一人、あろうことか自身の剣によって死を迎えるのかという、極めて皮肉な構図がそこにはあった。
今やヴァレリウスの勇気と誇りの仮面は跡形もなく砕け散り、彼の脳裏には瞬時にこれまでの人生の記憶が走馬灯のように駆け巡っていた。狡猾さによって政治の階層を這い上がってきた真の日和見主義者として、彼の生存本能が即座にこの状況を支配した。もはや、自身の称号や祖国のことなど知ったことではなかった。
今この瞬間、最も重要なのは、自分が生き延びて、現在身重の妻の元へ帰ることである。この残酷な世界で、妻がたった一人で子供を育てなければならないとしたら、彼女の運命がどうなってしまうのか、想像するだけでも恐ろしかった。
アリスは剣を動かし、ヴァレリウス自身の剣で彼の頭部を貫こうとしたが、ヴァレリウスが言葉を発した瞬間、ピタリと動きを止めた。剣の刃はヴァレリウスの顔面からわずか数センチの距離で静止し、極めて恐ろしい空気を醸し出していた。
「ま、待ってくれ! 頼む、やめてくれ!」
ヴァレリウスの声は激しく震え、冷や汗に塗れた顔は青ざめていた。
「命だけは助けてくれ! 私は皇帝の帝国十指の一人だ! イグラシア帝国の中枢へも直接アクセスできる!」
ヴァレリウスの瞳は激しく泳ぎ、哀れな命乞いの色を浮かべてアリスを見つめていた。
「黄金、古代のアーティファクト、領地……何でもあなたに差し上げよう! イグラシア帝国の弱点も教える! あなたを帝国の支配者にすることだってできる! 生かしてさえくれるなら、あなたの奴隷にだってなる!」
アリスは、足元で命乞いをする男を、見下すような虚無の眼差しで見つめていた。赤く発光する彼女の瞳には、微塵の興味も宿っていなかった。
すると、アリスを代弁するようにノックスが口を開いた。
「あいにくですが、白き女神は興味がないようですよ」
ノックスは赤く丸い瞳を輝かせながら、三日月のようにおぞましく口を裂いて笑った。
「なっ……」
ヴァレリウスは目を大きく見開いた。彼の交渉は完全に失敗したのだ。アリスは刃をさらに高く振り上げ、彼の頭蓋骨を貫く準備をした。
その時、ノックスがアリスへの思考伝達を開始した。
(母さん、少々よろしいでしょうか?)
(何だ、ノックス? この日和見主義の犬が役に立つとでも言うのか?)
(左様でございます。この犬を殺してしまうのは、少々もったいないかと存じます。この蝿は自身の国すら売り飛ばそうとする輩、言い換えれば、一切の忠誠心を持たないということです。将来、我々の利益のために奴を利用してみてはいかがでしょうか?)
ノックスが提案した。
アリスは少しの間、考え込んだ。
(よかろう、やれ)
アリスは即座に、肩に乗る黒いスライムのようなノックスの身体へ自身の細い爪を突き立て、ほんのわずかな魔力を直接注入した。
ノックスの影の肉体が突如として蠢き、その質量の一部が分離した。分離したその一部は地面へと這い降り、漆黒の影の液体へと姿を変えて、ヴァレリウスへと素早く近づいていく。
まるで生きているかのようなその黒い液体を見て、ヴァレリウスの顔は完全なる恐怖に染まり切った。いっそ死んだ方がマシだと思えるほどの、最悪の予感が彼の首を締め上げていた。
「な、なんだそれは……! くそっ! 私から離れろ! やめろォッ!」
ヴァレリウスはヒステリックに叫んだ。彼は狂ったように抗おうとしたが、身体を拘束する氷は、彼に微塵の身動きすら許さなかった。
彼はただこの場で死ぬことだけを願い、自らの唇を血が滲むほど噛みちぎろうとさえした。
その影の液体はヴァレリウスの身体を這い上がり、毒蛇のように彼の首に巻き付いた。ヴァレリウスは歯を食いしばり、口を固く閉ざした。
しかし、影は彼の鼻孔や耳から暴力的なまでに無理やり侵入し、ヴァレリウスの顔面神経を拷問のように苛み、彼が悲鳴を上げるために口をこじ開けざるを得ない状況へと追い込んだ。その一瞬の隙を突き、ノックスの影は彼の喉の奥底へと雪崩れ込んでいった。
「グッ……! ガァァァァァァッ――!!」
ヴァレリウスのエメラルドグリーンの瞳が飛び出さんばかりに見開き、眼球は破裂した赤い毛細血管で埋め尽くされた。何千匹もの氷の虫が、彼の意識と脳髄を内側から生きたまま喰い荒らしているかのように、彼の肉体は極めて激しく痙攣した。
ほんの数秒のうちに、その痙攣は収まった。ヴァレリウスの眼球は上を向き、白目だけを残して即座に意識を失った――今や、彼の肉体は影の絶対的な支配下に置かれた、完全なる空っぽの殻と化していた。
そして今、アリスの冷徹な眼差しは、残存する数万のイグラシア帝国軍へと向けられ、彼ら全員を即座に恐怖の底へと突き落として震え上がらせた。
やっほー!第3章を楽しんでいただけたら嬉しいです!
今回はちょっとしたヒントをお出ししますね。
別の存在のように見えますが、根本的にノックスはアリスの血から創られたため、アリス自身でもあります。すでに少し説明されているので皆さんお気づきかもしれませんが、一応念のためのリマインダーです(笑)。
第4章は、このヴェルメール平原を舞台としたプロローグ編のクライマックスとなります。
それでは、バイバイ!
— Fallen Lily




