軍人との出会い
翌朝、アランは森へと向かうことにした。
「素材集め」とは名ばかりの、気分転換を兼ねた小旅行だ。
近くの川で薬草を摘んだり、上流の発掘地から流れてくる鉱石を拾えれば運がいい――その程度の軽い気持ちだった。
一人で屋敷にこもっていても研究は進まず、何より知り合いに会えば、昨日の「婚約破棄」の噂を面白おかしく聞かれるのが目に見えている。
今はただ、誰もいない静かな場所で心を休めたかった。
「ホテプ。あまり遠くに行くなよ」
川辺に到着するなり、ホテプはポヨンポヨンと弾みながら水際へと駆けていく。
アランはその様子を横目に、手際よく焚き火の準備を始めた。
取り出したのは、師匠譲りの水精霊鋼製の鍋と飯盒。
そして、錬金術師の必需品である小型の「錬成釜」だ。
アランは錬成釜を川辺に据えると、魔法陣を起動して川の水を吸い上げる。
本来は精密な蒸留水や溶媒を作るための釜だが、今はそれを利用して、川の水を極めて純度の高い飲料水へとろ過していく。
市販の発火剤に、ごく微弱な火魔法を重ねて焚き火をおこす。
ろ過した水に、あらかじめ下ごしらえをしておいた野菜と肉を放り込み、鍋でじっくりと煮込んでいく。もう一方の飯盒では、研いでおいた米を火にかけ、炊飯を開始した。
今日のメニューは、キャンプの定番料理であるカレーだ。
中世ヨーロッパ風の異世界では、スパイスや米は金と同重量で取引されるほどの超高級品である……という話を前世ではよく聞いたが、ここアルスマグナでは事情が異なる。優れた航海術による広域貿易が確立されており、庶民の食卓にもスパイスや米が日常的に入り込んでいる。
この国には、血統の純血性を第一とする旧弊な貴族観は存在しない。
代わりに根付いているのは、確かな実績を挙げた者が報われる「実績主義」だ。
そのため、おそらくは東方の大陸――前世で言うところのインドにあたる地域――にルーツを持つ貴族たちが、私財を投じてスパイスや料理人をこの国へ集めたりしたのだろう。
文化と富が激しく流入するその様は、かつての大英帝国時代を彷彿とさせた。
「米が日常の食卓で『白米』として並ばないのは、結局、炊くのが面倒だからなんだろうな」
この世界でも米は主食の一つだが、前世の日本のように「白米とおかず」というスタイルは稀だ。
大抵はパエリアやピラフのように、具材と共に調理する一品料理として供されるのが主流だった。
もし誰かが「全自動炊飯器」でも開発すれば、この国に白米が普及し、カレーとライスという黄金の組み合わせが一大ブームを巻き起こすのだろうか。
ちなみに、この世界で流通している米は、インディカ米とジャポニカ米の中間のような性質を持っていた。
「ホテプ、帰ってきたか……ってお前、なんだか膨らんでないか?」
「プテ」
ホテプが短く鳴くと同時に、そのぷよぷよした体から大量の水を吐き出した。
このポヨ猫は川で水を飲み込み、フィルターのようにして底に沈んでいたものを回収することが出来る。
水と共に吐き出されたのは、いくつかの鉱石だった。
「黄銅鉱みたいなやつに赤鉄鉱みたいなやつ、それに……黒曜石質の石か」
前世の大学時代、地質学を専攻していた友人がいたおかげで、鉱石の知識には多少の覚えがある。
もっとも、ここは異世界だ。
組成や結晶構造が微妙に異なり、化学式だけでは説明がつかない。
結局のところ、錬金術の素材としての価値を判断するのは、長年の「経験則」による感覚だった。
なぜそうなるのかという根拠は不明だが、こうすればこうなる、という結果だけは導き出せる。
それは前世における「漢方」や「伝統医学」の体系に近いのかもしれない。
現代科学の目で見れば後に理屈が解明されるものもあるだろうが、錬金術師は、この「見立て」の感覚を頼りに素材を選別していくしかない。
「……ん?どうした、ホテプ」
ふと見れば、ホテプがで踏ん張り、短い尻尾をピンと立てて全身を波打たせていた。
先ほど飲み込んだ鉱石をまだ出し切っていないのか。
「……これは、まさか」
「テケリ・リ! テケリ・リ!」
ホテプが、これまでにないほど激しく、あの不気味な音節を刻む。
その直後、アランは言葉を失った。
ぷよぷよとしたホテプの尻からプリッと……。
「え……?」
アランの脳が、理解を拒絶してショートする。
ホテプの体積を、質量を、生存のルールを完全に無視して出てきたのは生身の「人間」だった。
「綺麗だ……」
衝撃的な出現の仕方とは裏腹に、そこには息を呑むほど美しい女性が横たわっていた。
健康的な肌を白い布で包んだ「キトン」姿は、古代ギリシャの芸術品を思わせる。
彼女は気を失っていてもなお放たれる不思議な気品があった。
やや小柄だが、鍛えられた肉付きの良さと、しなやかな女性らしいラインが共存している。
「……ん……」
「大丈夫ですか?」
「あ、あぁ……。すまない、水を……」
女性が、微かに瞼を震わせた。
アランはろ過したばかりの水を、彼女の口元へ運ぶ。
驚くべきことに、彼女の顔色は急速に赤らみ、すっかり回復したようだった。
ホテプの体内に満ちていた唾液には、強力なポーションと同等の治癒効果があるらしい。
かつてアランが実験中に火傷をした際、ホテプに手を丸呑みにされて一瞬で完治した。
あの謎の現象がここでも起きたのだ。
「助かった。私は王城軍第四師団所属のヒッポリュテだ。爵位が下位の貴族の娘に過ぎない。堅苦しい話し方は抜きにしてくれ」
この国には魔物がいる。
それを狩るのは民間の傭兵ギルド、もしくは冒険者ギルド。
前者商人や運送ギルドのボディガードをする。
後者は依頼を受け、魔物を買ったり、素材を集めたりする技術だ。
そしてもう一つ。公的な軍隊。
彼女は、この国を守る軍隊の一員だった。
伝統的な騎士道よりも効率的な組織運用を重視するアルスマグナ軍において、第四師団は女性のみで構成された精鋭部隊だ。
主な任務は軽装を活かした斥候や、弓を用いた遠距離からの魔物討伐。
第三師団の重装部隊と連携し、国に仇なす脅威を排除する「軍の目」とも呼べる存在である。
「俺はアラン、こっちは飼い猫のホテプだ」
この国アルスマグナには独特の社交マナーが存在する。
目上の者が「対等に話そう」あるいは「名前を呼び捨てにしてくれ」と提案した際、それが私的な場であれば、頑なに断ることは逆に相手の信頼や厚意を拒絶する「無作法」と見なされるため、素直にその言葉に従うのが、この国の合理的な礼儀であった。
「不躾だが、一体何があったんだ? 君は川の上流から流されてきたんだが」
「大猪が人里に現れたと聞いてな。退治に向かったんだが、隠れていた別個体に崖から突き落とされたんだ。……正直、なぜ五体満足で生きているのか、自分でも不思議なぐらいだ」
まさか「ホテプが君を丸呑みにして体内で治療し、さっき尻から出したからだ」とは口が裂けても言えない。
あの光景を言葉で説明するのは、色々と、そう、色々と倫理的な問題がある。
「……きっと、当たり所が良かったんだろう」
「そうだな。運も実力のうち、ということにしておこう。とりあえず、土と粘液で汚れているようだから、あそこの川で洗ってくる」
ヒッポリュテはそう言って、迷いなく白いキトン姿のまま川へと入っていった。
日の光を浴びて煌めく水飛沫と、濡れて肌に吸い付く布地、そして美しくしなやかな四肢。まるで神話のワンシーンのようなその姿に、アランは思わず見惚れてしまう。
――だが、その幻想をぶち壊したのは、鍋から立ち上るスパイシーな蒸気だった。
「おっと、吹きこぼれる!」
慌てて視線を現実のカレーへと戻し、アランは鍋の元へと駆け寄った。




