第一章七話 贈り物
暗く深い、闇の中。周囲を見渡しても、瞳に映るものは何も無い。何も聞こえず、何も匂わず、何の感触もない。ただ唯一知覚できるのは己という存在そのものだけで、手足が付いているのかすらも朧気だ。
例えるなら悪夢の中のような、そんな感覚。そんな暗闇の中を、タクは一人歩いていた。足の感覚こそ無いが、タクは確かに歩いているという自覚があった。
そうして、どれだけ時間が経ったかはわからない。ほんの一瞬のようで、既に永劫の時を過ごしたようで、空間も時間も、肉体も意識も、あらゆるものが不明の世界。だがそれでも、タクは己の進む先にあるものを知っている。
そして、その歩みが止まる。理由は単純。歩く必要が無くなったから、ただそれだけ。己しかいないはずのこの世界。その中、タクの目の前に、唯一知覚できる新たな存在が現れる。
それは、よく見知った姿だった。その姿を前に心の底から懐かしさが湧き上がって、タクは声をかけた。物心ついた時から人生の苦楽を共にして、タクに地獄の中を生き抜く術と、生きる意味を与えてくれた、かけがえのない親友に。
「━━ケイ」
『⋯⋯』
だが、彼の名を呼ぶタクの声に、返答はない。でも、不安には思わない。ケイの表情は、いつもと変わらず、慈愛の色を持っていたからだ。彼の行動にはいつも意味があった。タクには理解できなくとも、必ず彼なりの意味が。
ならば、今ここでタクに言葉を返してくれないのは、ケイの考えあってのことなのだろう。だから、いい。彼が口を開いてくれるまで、タクは声をかけ続ける。
「なあ、ケイ。幸せって、なんなんだ?」
二年前、彼から聞かされた遺言。ケイの死を受け入れられるだけの時間があって、それでもなお、タクは彼の言葉を理解しきれないままでいた。
「飯が食えりゃ、幸せってやつもいる。職がありゃ、金がありゃ、幸せってやつもいる。楽しく過ごせりゃ、それが幸せだってやつもいる。でも、そのどれも、俺にとっての幸せじゃねえように感じるんだ」
まだ始まったばかりの旅路。それだけでも既にタクは多くの人と出会い様々な幸福論を聞いた。しかし、例えタクがそれらで満たされたとして、タクは自分が幸せでいられるとは思えなかった。
「それに、今の今まで、俺は俺の幸せなんて、考えたこともなかった」
振り返るのは、既に遠くにあるようで、今でも鮮明に思い出せる、地獄から抜け出すために戦ったあの日々のこと。
「俺は、ずっと、お前を幸せにしたかったんだよ。どん底にいた俺をすくい上げてくれたお前が、俺には何よりも大切だったんだ。だから、俺は戦ってた。⋯⋯でも、お前は死んじまった」
『⋯⋯』
「新しく知り合った子が言ってたんだ。大切な人が笑ってればそれが幸せなんじゃないかって。昔の俺も、多分そうだったんだろうな。でも、もうお前はいない。だってのに、俺はまだ幸せになれるのか? それに、そもそも俺に幸せになる資格があるとは思えねえんだ。だって、俺は━━、」
『タク』
懐かしい声に名を呼ばれ、タクは顔を上げる。それによって、タクは自分がいつの間にか下を向いていたことに気が付いた。
『そう、君は前を向くべきだ。下を向くのも、ましてや後ろを向くことも、君には似合わない』
そして、ずっと口を閉ざしていたケイは、より深い微笑みを湛えて、タクの顔を優しく見つめている。
『このまま、君が過去に囚われてしまうようなら、またひとつ君にアドバイスをしよう。大事なのは過去そのものじゃなくて、過去とどう向き合うかだよ、ってね』
ケイは幼子に言い聞かせるような声色で話す。昔から、ずっとそうだった。それは、元々聞き分けのないタクを諭すためで、いつしかそれが彼の癖になってしまっていたのだろう。
『今はまだ不安だろう。でも、答えを焦る必要は無いんだ。君は、君が幸せになれる方法を、ゆっくり時間をかけて探せばいい。━━君になら、できる』
だが、聞き分けのなかったタクももう大人になった。ケイの言葉がいつも正しく的を射ていることは既に理解している。彼ができると言うのなら、できるのだろう。でも、それでも、聞かずにはいられなかった。
「⋯⋯本当に、俺なんかが、幸せになれるのか?」
『なれるさ。そのために、僕は君におまじないを掛けたんだから。それが、僕が君にしてやれる最後の贈り物なんだ。大切に使ってくれよ? 君の体に宿る、その━━』
世界を覆う暗闇が、晴れる。溢れ出した白い輝きにかき消されていくこの世界の中で、ケイはずっとタクの目を見つめていた。
なにもかもを白く染め上げる輝きの中に、タクの意識は沈み、視界はぼやけ、揺らぎ、そして消える。
その中で一つ、この世界に残されたのは、たった一人の親友の言葉。
『━━不死身の力をね』
*****
「⋯⋯う」
開かれた眼に満天の星空の光が眩しく降り注ぎ、タクの意識は覚醒した。風に揺すられる木々の騒めきの中、湿った草と土の香りに包まれた冷たい空気が肌を撫でる。
失われていたはずの五感が、いつの間にかタクの手元に戻っている。思わず、タクは首を触った。触ることができた。首はちゃんと繋がっていて、分かたれていたはずの胴も、自分の意思で動かすことができる。
「贈り物⋯⋯か」
先程までのケイとの会話。きっと夢か幻か、恐らくはそういった類のモノだったのだろう。だとしても、たったの束の間の出来事であっても、会えて良かったとタクは心の底から思う。そんな感慨に浸ろうとして、微かに、聞こえた。
「━━」
「⋯⋯ハルの、声だ」
そして、タクは思い出す。まだ、やらなければならないことがある。懐かしさに耽るのはその後でいい。
やるべきことを果たすため、タクは地面に転がっていた体を起こし、確かにその足で地面を踏みつけ、━━走り出す。
*****
慣れない熱を宿す手には汗が滲み、固唾を呑み込みながら、ハルは目の前で繰り広げられる戦いの行方を見届けようとしていた。
心臓はうるさく拍動していて、汗の滲む手は震えが止まらない。ラキラという名の女がこちらを狙って襲いかかってきた時の衝撃。それがまだ残っているのだ。すんでのところでタクが食い止めてくれなければ、あの時命を落としていたかもしれない。
タクの炎を浴びせられた時も心底驚いたが、不思議とハルには熱を感じられず、ハルの体が焦げることも無いままタクはラキラをハルたちから引き離してくれた。
こうして何度もハルの窮地を救ってくれる姿に、ハルはタクが今まで出会ってきた人の中でも特別すごい人なのだと実感する。明るく笑顔を絶やさず、優しくて強い。まだ知り合ってからそう時間は経っていないのに、何度もそんな彼の凄さをまざまざと見せつけられた。
だからだろうか。不思議と、不安はもうほとんど感じていない。タクならなんとかしてくれると、そんな希望が自然と胸に湧く。
その中で、ハルの視界からラキラの姿が消えた。タクに攻撃をしようとしているのだろう。タクもその攻撃に備えているのか、後ろ姿しか見えないが、極限に集中していることが見て取れた。
思わず、カルムの傷を抑える手に力が入る。それでもハルは目を逸らせずに、タクの背中を見つめ続ける。
━━そして、数秒も経たないうちに、その変化は訪れた。
隕石が落ちたような地響きを伴い、ラキラが姿を現した。
それも、二人だ。直後、攻撃の衝撃により、一斉に木々は揺れだし、砂埃が膨れ上がる。目まぐるしい変化が視界を掻き乱す中、ハルは、タクの背中から目を離さなかった。違う、目を離せなかった。タクの背中に生じた強い違和感に、目が引き寄せられるせいだ。なにかが足りない。致命的ななにかが。
「⋯⋯え?」
そして、数刻遅れて、ハルはその『欠け』を認識した。タクの背中。その首から上が、無い。
思考が、真っ白になる。夢でも見ているかのように、地に足のつかない感覚。目に映る情景は漠然としていて、そこから読み取れる情報は、見たそのままだけだ。
━━ゆっくりと、首無しの身体が傾き、静かに倒れ込む。
その光景を見届けて、砂利石を踏みつける音がハルの耳に入る。ラキラがこちらへ近づいていた。二人になったように見えていた姿はいつの間にか一人に戻っている。
「あーあぁ、やっぱ勿体なかったかなぁ。もう少しは楽しめそうだったんだけどぉ、まぁ仕方ないかぁ」
体を伸ばしながら気怠げに息を吐き、彼女はハルの前に立つ。
「⋯⋯ラ、キラ」
彼女の名が口から零れ出て、ハルは恐る恐るタクの身体に視線を戻した。
「タクは⋯⋯どうして、なにが⋯⋯」
「見ればわかるでしょお? ━━アタシらが殺したんだよぉ」
「う⋯⋯、そ⋯⋯」
━━タクが、殺された。
下手人の口から直接、それをどうとも思ってない酷く淡白な声色で聞かされて、ハルは初めてその事実を理解した。思考にぽっかりと開けられた空白に、無理矢理事実をはめ込まれ、湧き上がる。胸をつんざく激痛が。
「なん、で⋯⋯」
決して、時間が戻ることはない。もう、取り返しがつかない。
死んだ人は、━━生き返らない。
「━━なんでまたっ、わたしはっ⋯⋯!」
タクは、こんな所で失われるべき人ではなかったはずだ。この先、彼は多くの人を救えたはずだった。なのに━━、
━━私が、彼をここで終わらせたのだ。
助けを求めてはいけなかった。縋ってはいけなかった。それならば、犠牲はハル一人で済んだのだから。善意も、命も踏みにじることにはならなかった。
固く握った拳を水滴が叩く。一度は乗り越えたはずの罪悪が、深い後悔と喪失を携えて、再びハルを押し潰さんとのしかかる。しかし、もうそれに耐えられるほどの余裕があるはずもなく、いとも容易くそれらはハルの心を決壊させた。
「あぁらら、泣かせちゃったぁ。ごめんねぇ、アンタらに恨みは無いんだけどねぇ。ちゃあんと仕事しないと怒られちゃうからさぁ。━━辛いなら、目ぇ閉じててよぉ」
そう言って、ラキラは拳を振り上げる。目を閉じろと言われたが、できるはずもない。彼女の拳は、ハルのそばに横たわるカルムへと向いているからだ。今自分で身を守ることのできないカルムがその攻撃を受ければ、今度こそ確実にその命は絶たれることになる。
━━そして私は、また恩人を見殺しにするんだ。
考える間もなく、ラキラは拳を振り下ろそうとする。ダメだ、もう助けられない。そんな深い絶望に支配されそうになった時、ふとハルの頭の中で声が響いた気がした。
━━『カルムを頼む!』
「⋯⋯なんのつもりぃ?」
ラキラが怪訝な目をして問う。カルムに下されるはずだった鉄槌、彼女の拳は、振り下ろされる直前で停止していた。
「頼まれた、から⋯⋯、守らなくちゃ、いけないから⋯⋯っ! もう何もっ、奪われる訳にはいかないの⋯⋯っ!」
なぜなら、カルムの身体に覆いかぶさるよう、ハルの身体が割り込んだからだ。
咄嗟だった。思考する間もなく身体が動いていたと、ハルは脳の片隅でそう思う。勿論、ハルにこの場を打開できるような力は無い。しかしここで何もせず、敵の思うままカルムを殺されれば、タクの死は無駄になってしまう。それだけは、決して許してはならない。あってはならないのだ。
「あっぶないなぁ、アンタまで殺す気はないんだからぁ。まぁったく、抵抗なんか無駄なんだしぃ、早くそこどかないと力ずくで引き剥がすよぉ。痛い思いしても知らないからねぇ」
「うっ⋯⋯、あぁ⋯⋯!」
ラキラの手がハルの腕を掴む。万力にかけられているような圧力、ぎりぎりと腕が軋む感覚がする。しかし、ハルは必死に耐える。地面に生えた僅かばかりの草を握り、全力で体に力を込めて、抵抗の意志を見せ続けた。
「ほらほらぁ、早く離さないと折れちゃうよぉ? さっさと離しちゃいなよぉ!」
「嫌だ! 離さない! 絶対に!」
ラキラは悪魔のような笑みを浮かべながら握る力をどんどん強めていく。強く圧迫されるハルの腕。経験したこともないような痛みだ。それでもハルはカルムの傍から決して離れない。
「⋯⋯まぁったく頑固な子だねぇ。あんま傷つけるなって言われてるんだけどぉ、これもまぁ仕方ないよねぇ」
「あ⋯⋯くぁ⋯⋯っ!」
そのぼやきと共に、ラキラはより強く腕を掴み、乱暴に腕を引こうとする。肩から腕が引っこ抜けてしまいそうな程の勢いに、ハルの抵抗も虚しく、無理やりにでもカルムから引き離されてしまう。そう思った瞬間だった。
「━━おい」
声が、聞こえた。聞こえるはずのない声。しかし、確かにその声が鼓膜を震わせて、思わずハルは顔を上げた。
「その汚え手を離せよ、クソ女」
そこにいたのは、短い茶髪を風に揺らす、一人の青年。黒く真っ直ぐな瞳でこちらを見つめながら、両の足を地面につけ、ハルたちの目の前に立っている。
でも、嘘だ。ありえない。だって、彼は死んでしまったはずだ。なら、これは幻か。ここから逃れたい一心で、自分が見せている、都合のいい幻に違いない。そのはずなのに━━、
「は、アンタ、なんで⋯⋯」
ラキラも同様に、目の前に立つ幻に視線を釘付けにされていた。その顔に似合わない動揺を浮かべ、そのせいかハルの腕を握る力も弱まっている。二人が同時に同じ幻を見ているとでも言うのか。そんなことは有り得ない。でも、目の前の出来事も有り得るはずがなくて、一体、何が━━、
「━━ぶっ⋯⋯⋯⋯!」
一瞬だった。気づけば、ラキラが顔面を殴り飛ばされている。そんなことをやってのけたのは他でもない。目の前にいる青年だ。
「あー、やっとやり返せたって感じでスッキリしたな。元気百倍だぜ」
ラキラを殴り飛ばした当の彼は、頭に手を添えて首を鳴らし、余裕そうな笑みを浮かべている。もう、間違いない。紛れもない。つまり、今、ハルたちの目の前に立つ、この青年は━━、
「タ、タク⋯⋯?」
首を無くし、死んでしまったはずのタク。そんな彼が、今、怪我ひとつ無い姿でハルたちの前に立っている。どう考えたって信じられないが、しかし、もう疑いようすらも残っていない。
「悪いなハル。辛い思いさせちまった」
タクはハルと目線を合わせるように体を屈ませて、ラキラに掴まれたせいで紫色になったハルの腕に触れる。触られている感触がある。指の力が、肌の質感が、彼の体を巡る血の熱が、ハルの体に伝わっている。
「本当に⋯⋯、本当に、タクなの⋯⋯?」
「ああ、正真正銘の俺さ。息もしてるし心臓も動いてる。実は俺もちっとばかし混乱中なんだが、まあ問題ねえ。今度こそ、終わらせてくるよ」
そう言って、タクは再び立ち上がった。前を見据え、相対すべき敵の前へと向かう。一方、その相対すべき敵、ラキラはというと━━、
「アハっ⋯⋯、アハハハっ、アハハハハぁぁっ! イイじゃんかぁ! 生き返ってまでアタシらを楽しませてくれるなんてぇ、アタシらも初めてだよぉ! あぁ⋯⋯、もう血が湧いてぇ、肉が踊ってぇ、どうしようもないねぇ!」
殴られた頬を擦りながら、凶気に蕩けきった顔面を歪ませて、己の内側にある感情を爆発させるように猛り叫ぶ。
「興奮してるとこ悪いが、こちとらその気色悪い面のせいでガン萎えだ。それに、てめえの相手すんのもそろそろ飽きてきたんだ。さっさと終わりにしてやるよ」
ラキラの放つ凶熱に唾を吐き捨てて、タクは彼女の前に立つ。そしてその口角を吊り上げて、歯を見せながら、不敵に笑ってみせた。
「さあて、第二ラウンドの時間だな!」
その言葉を皮切りに、この闇の森の戦いは最終局面へと突入する━━。
*****
啖呵と共に切られた火蓋。すぐにでも飛びかかろうとするラキラに対し、タクは無数の細かな炎を辺り一面に散らばらせた。暗闇の中を舞う無数の炎は、まるで風に散らされる桜の花弁を想起させ、そんな花弁の一枚一枚が目を眩ませる程の光を放つ。 そんな火桜を生み出したタクは自分の姿をその炎の花弁の中に隠し、ラキラの視界から逃れた。
「なぁんだ、さっきのお返しぃ? ハハっ、いいよぉ、真っ向から受け止めてあげるぅ!」
先程の森の闇に姿を隠したラキラに対抗するように、タクは眩い炎光の中にその身を潜めた。そこから隙を伺って攻撃を放とうとしているのだろうと推測したラキラは、いつ、どこから攻撃が飛んできてもいいように、神経を研ぎ澄ませて迎撃の構えをとる。
そしてすぐ、炎に照らされているラキラの背後に影が生まれた。それはラキラと彼女を照らす炎の間に何かが割り込んだ証。
「そこぉ!」
ラキラの脚が空気を切り裂き奔る。しかし、切ったのは空気だけ。直後、彼女の後頭部に鋭い衝撃が走る。
「がぁっ⋯⋯、」
「残念! ハズレだぜ!」
タクが龍化した拳でラキラの後頭部を殴りつけたのだ。タクは自由自在に炎を操れる。ということは消すことも自由。意図してラキラの背後に影を生み出し、空振りを誘発させたのだ。そして後頭部に打撃を受けたラキラは、その衝撃に顔を歪めている。
「やっぱ効いてんな。んじゃ、これで決定だ」
ラキラの魔法の正体、それは『分身』だ。そして、その分身体を自らの体に重ねるようにして生み出すことができるのだろう。重ねた分だけ攻撃の重みが増し、防御の際はダメージが分散されるといった理屈だ。
また、彼女の驚異的な速さについても、体の一部だけの分身を生み出しているのだとすれば辻褄が合う。全身を重くしてしまえば速く動けないが、重要な箇所にだけ分身を重ねることで筋力に対する体重を軽くし、その問題を解決しているのだろう。そして、その間分身を重ねていない部位には攻撃が通るという訳だ。
「俺の首掻っ切ったのも、すれ違いざまに生やした分身がやったって訳か。全く厄介な魔法だが、ほとんどタネは割れた。もう怖かねえ」
分身魔法ということは、体の強化以外にも普通に分身を使った方がなにかと便利なはず。しかしそれをほとんど行わないということは、普通の分身をしづらくなる制限などがラキラの魔法には存在しているのだろう。もしくは分身の数にも上限があって、本体から離しても本体と分身それぞれの身体強度が落ちるのかもしれない。分身体そのものへの警戒を怠っていい訳では無いが、警戒しすぎる必要も無さそうだ。
また当のラキラは、急所でありながら守りの薄くなっていた後頭部に強烈な一撃を貰ったことで、軽い脳震盪を起こしかけている。だがそれでも尚、彼女は体勢を立て直そうとタクから離れようと動く。しかし、距離を取ろうとするラキラの足は、地面を蹴ることができない。なぜなら、再び溶けだした地面にラキラの足が沈み込んでしまっていたからだ。
「さっき俺が熱した地面の熱はまだ残ってる。つまり、もうここにてめえの足場は存在してねえってことだ!」
タクの炎を浴びた物体は、タクが熱の影響を及ぼさないようにしていても、熱そのものは与えられている状態になっている。つまりその状態であれば、タクの意思で熱の影響を発現させ、好きなタイミングで焼いたり溶かしたりすることができるのである。
先程首が飛ぶ前に熱した地面の熱は一度意識を失った後でも消えておらず、この場でラキラが地面から支えを得ることは不可能となった。
と、一見タクが有利な状況に見えているが、実状はそうでもない。体は再生したものの、タクの魔力までは回復していないのだ。不死身というアドバンテージを得たとしても、余力はそう残されていない。そのため、こちらの力が尽きる前に戦いを終わらせる必要がある。
ならば、攻める手を緩めてはならない。溶けた地面に足を取られたラキラへ、タクは飛びつくように迫る。が━━、
「━━まだまだァァっ!」
体のバランスを崩したまま、ラキラはタクへの迎撃を優先した。地面に倒れようとする中で、叫びと同時に放たれたラキラの拳はより疾さを増している。瞬きの間に十を超える打撃がタクの肉体へと打ち込まれた。
あらゆる骨が砕かれ、内臓は弾け、肉体が削られる。戦闘による興奮で鈍くなっているはずの痛覚が悲鳴を上げ、痛いなんて言葉じゃ表せない苦痛がタクの全身を駆け巡った。
しかし、今しがた付けられたその傷たちに炎が灯る。勢いよく燃え上がるその炎はタクの意思で生まれたものではない。そして、やがて炎が消え去ったかと思えば、存在していたはずの傷も全て消えてなくなっていた。
きっとこれがケイから贈られた『不死身の力』なのだろう。消え去る痛みの中でそう納得するタクとは対称的に、渾身の攻撃が通用しなかったことでラキラはその顔に明らかな動揺を浮かべている。
━━ここが決め時だ。
今が好機だと悟ったタクは、地面に倒れかけたラキラを押し倒そうとし、それに気づいたラキラも抵抗。地面に尻をつけたラキラにタクが覆い被さりながら、手四つの状態となった。
しかしラキラの座る地面もタクの熱によって溶解し、そこに加えてタクは龍化させた全身から炎を吹き出す。長時間の加熱にはラキラも耐えられない。そのままラキラを焼き尽くさんと全力を込めて、ラキラをこの場に押し留める。ここで決めきれなければ、タクに勝ちはない。
「アタシらと力勝負ぅ!? 負ける気しないけどなぁァ!」
地面の支えを得られないうえに、姿勢も悪いラキラには速度を乗せる余地も無く、破壊力こそ通常時より格段に低い。しかし、彼女の魔法によって単純な筋力はどんどんと上乗せされていき、足場が最悪だと言うのに、万力すら生ぬるく感じるパワーによりタクの全身が軋む音を立てて、次第に押し戻されていく。
これが勝敗を賭けた力比べだと、互いに理解している状況。持てる力全てを持って、タクはラキラを抑えつけようとする。しかし、ラキラの握力に挟まれているせいでタクの手の骨は砕け、かろうじて不死身の再生力により、どうにか原型を保てている程度だ。これではどうにも力を入れることが難しい。
「ほらほらぁァ! アンタの本気はその程度ぉ!?」
それでもラキラの攻めは止まず、ついにタクの体が後ろに傾き始めた。このままではラキラに炎の中から脱出されてしまうが、抗おうにも彼女の言う通り単純な力では敵う相手ではなく、ついにタクの抵抗も限界を迎える。━━だがその時、ラキラの顔に衝撃が走った。
「━━っ!」
それは水だ。まさか邪魔が入るとは思わなかったのか、冷や水を浴びせられたラキラはその方向を見やった。視線の先では、意識を取り戻したカルムが、木に背中を預けながらも、口角を上げた表情でこちらを見ている。この水がカルムの魔法によるものだと気付くまでの一瞬、ラキラの意識が力比べから外れた。━━その一瞬を、タクは見逃さない。
「━━うおぉらぁああ!」
一瞬だけ力の緩んだその隙に、魔力を使い果たす勢いで炎を吹き上げ、タクはラキラの背を完全に地面につけることに成功した。そのまま直上に火柱を吹き上げ、その反動でラキラの体を地面に結び付ける。
空高く吹き上がるこの火柱が今タクの持てる最大火力。その中心部はどんどん熱を増し、鉄すら蒸発する温度に達しようとしていた。
タクと密着したまま離れることのできない女は、その炎をゼロ距離から浴び、分身による軽減すら追いつかないほど体表の温度が急激に上昇する。全力を注ぐ極限状態の中でもタクは彼女の体からひとつの熱も逃がさぬよう、細心の注意を払っている。
「がああァァ! があアァ! が、ハハ、アァハハハァ!!」
流石のラキラもあまりの熱量に耐えきれず、悲鳴を上げたかと思いきや、凶気に染まった笑い声を轟かせながら藻掻く。その藻掻きすら尋常でない力で行われ、タクの体の一部がもげたとしてもおかしくはない。しかし、もう残された手は気合いで耐えることのみ。龍化した全身にも魔力を注ぎ込み、どうにか身体の強度を上げながら、歯を食いしばって必死に耐える。
「んッぐぅぅあああ!」
「アッハハハハぁァ!」
火柱はより一層高く立ち昇り、辺り一面を照らす。森の中だけでなく、星空ですらこの眩さの中に消え去ろうとしていた。そんな輝きの中心で龍人と凶女が雄叫びを上げる。
その雄叫びは火柱の轟音と交わり、そこにあるもの全てを震わせ、そして━━、
*****
次第に火柱は勢いを無くし、消失すると同時、タクの体が投げ飛ばされる。全力を使い果たした後で体に力が入らず、ろくに受け身も取れないまま地面に叩きつけられた。
ラキラは息も絶え絶えに立ち上がるが、その肌は痛々しく焼け爛れ、部位によっては肉が炭と化し、煙を立ち上らせている。しかし、みるみるうちにその傷も消えていく。己に分身を重ね、傷を覆っているのだ。
「ハァ⋯⋯ハァ⋯⋯。⋯⋯ア、ハハぁ、アタシらの、勝ちだねぇ⋯⋯」
地面に突っ伏したタクに、勝ち誇った顔を見せるラキラ。かなりの手傷を負うことにはなったが、まだ動くことはできる。彼女は身を翻し、目的を果たすためにハルたちの方へと向かおうとする。だがその背に待ったがかけられた。
「━━いいや、引き分けだぜ」
声を掛けたのは体を起こしたタク。余力のあるラキラに対して、タクは恐らく魔力を使い果たしている。そんな彼にもう勝ち目など無いはずだ。そこまで考えて、タクは指を差した。それに示された方向を見てようやく、ラキラは自身の置かれた状況を理解した。
━━月光も通さない森の暗闇。その中に、無数の火の玉が浮かんでいた。




