第一章六話 不撓不屈
厚い雲に遮られた月光の下、陰りを増す針葉樹林の中。ハルを連れ去った誘拐犯を無事に確保し、タクたちの胸中に安堵が生まれたのも束の間、状況は突如として一変した。
視界からカルムが消え、飛び散る無数の水滴がタクに降りかかる。そして代わりに現れたのは、この事態を引き起こしたであろう一人の女。その見た目こそ華奢なものの、全身から立ち昇る血のようなおどろおどろしいオーラを前にして、タクの背筋に戦慄が走る。そして、この女が次の行動に移るより早く、決断せねばならないことをタクは本能で理解した。
「━━っ」
視線を動かすことすらできない、極僅かな時の狭間。タクの体が動く。
「ごぁっ⋯⋯!!」
即座に両足で踏切り、黒服の男の顎下に拳を叩き込んだ。不意の攻撃に反応できなかった男は仰け反るような体勢で数メートルは飛ばされ、地面に体を打ち付けながら数回バウンド。そのまま地べたに体を横たわらせて動かなくなった。
カルムの姿が見えなくなった。ということは、今しがた現れた女の攻撃を受けたのだろう。カルムの魔法の効果が及ぶのは彼が触れている水だけであり、彼の手が水から離れたとすれば、転移魔法の使い手である男に再び自由が与えられてしまう。
先手を仕掛けたタクたちの優位性は、女の奇襲によってとうに失われていた。そこに転移魔法の厄介さまで加われば、まるで手に負えないだろう。そのような理屈を直感的に感じ取り、タクは男の無力化を優先したのだ。
━━しかし、目の前の脅威を無視したツケは払わなければならない。
男から視線を外し、直ちに振り返るタク。すると、既に女の繰り出した拳が眼前にまで迫っていた。咄嗟に防御を行おうとして、肌が粟立つ感覚がそれを思い留まらせる。昼間に受けた鬼人の一撃、それとは比べ物にならない程の危険性を、タクの本能が察知したのだ。
その本能に従い、タクは咄嗟に左手のひらをその拳に当て、地面から浮くように両足を脱力する。それにより踏ん張りを失ったタクの体は、拳との衝突により大きくぶっ飛ばされることになる。だがそれで良い。真っ向勝負を捨て、あえて体を飛ばさせたことで体に伝わる衝撃を殺したのだ。
━━しかし、ここから先が想定外であった。
「うぐっ⋯⋯!」
体が想定よりも数段強い勢いで後方へと飛ばされる。勢いのやまぬまま背中に強い衝撃、二度三度、それだけでは済まない。ようやく勢いが止んだ頃、タクの体は森の中を数十メートル以上突っ切っていた。
「な、なんつー力だよ⋯⋯」
尋常ならざる威力だ。打ち付けた体のあちこちが痛むが、拳を受け止めた左腕が訴える痛みと痺れの方が上回る。
たった一撃を受けただけ、それも威力を殺したうえでこのダメージ。到底常人の膂力ではなく、あの女も『魔法使い』であることは間違いないだろう。
推測するに、用いているのは身体能力を向上させる『身体強化魔法』であろうが、だとしてもその出力は常軌を逸している。
「化け物のお出ましってわけだ。笑えるぜ⋯⋯」
たった一撃、ただそれだけで思い知らされたあの女の圧倒的な膂力。また力だけでなく、直前まで接近を悟らせない気配を遮断する技術と、目で追えないレベルの攻撃を行うスピードまで備えている。
これまでタクが戦ってきた相手の中でも上位に食い込むであろうその脅威に、肌がヒリつきを覚える。久しく感じることのなかった、命が危機に晒される感覚だ。
「手加減する余裕はねえな⋯⋯!」
体を大きく屈ませ魔力を足に集中し、瞬間、タクは足元から爆発的に炎を噴射。空気を切り裂き、音より早く、さながら弾丸のように女の懐へ飛ぶ。
その勢いを乗せた鉄拳が女の顔面を捉え、鈍い音を立てた。だが━━、
「アハハぁ! イイじゃん、期待以上だよぉ。今夜の踊りは面白くなりそうだねぇ!」
「マジかっ⋯⋯!」
タクの渾身を込めた一撃。それを額で受け止めながら、女は凶悪に笑う。一切の防御を行っていないというのにまるで効いておらず、むしろタクの拳が衝撃に痛む。
だがそんな信じ難い事実を目の当たりにしても、呆けていられる暇は無い。お返しと言わんばかりに、女の凶拳がタクの土手っ腹をぶち抜かんと迫り、タクは再び刹那の決断を強いられる。結果として、タクは反射的に体の側面から炎を噴き出すことで紙一重の回避を行い、そのまま距離を取って体勢を立て直す。
「ルナぁ、危ないから離れてなぁ。ウェルの怪我の具合でも見ててよぉ」
「んもう、まーた好き勝手暴れるつもりでしょ! まったくもう、ラキラってば仕方ないんだから⋯⋯」
「ごめんねぇ。じゃ、よろしくぅ」
ニタニタと笑みを浮かべる女を少女が諫める。少女はルナ、黒服の男はウェル、そして目の前の女はラキラという名前らしい。
一方で、距離を取ったことで再びハルの眼前に立つこととなったタクも、低く構えを取りながら、再び混乱に包まれている彼女へ指示を送る。
「ハル、悪いけど、このまま大団円って訳にはいかなくなっちまった。そんで、重ねて悪いけどカルムを任せたい。こりゃあ、放っとくとやばいかもしれねえ」
そう言って、タクは少し遠くを見やった。恐らく、姿の見えないカルムはラキラの一撃を受け、先ほどのタクのように森林の奥へ飛ばされたのだろう。
実際、彼が飛んでいったと思わしき方向には、その推測を裏付けるように折れた草木によって作られた道が出来ている。その痕跡を辿れば彼の元へ向かえるはずだが、もしもあの常軌を逸した膂力から放たれるラキラの攻撃を無防備に受けたとすれば、命に関わる傷を負っていても不思議じゃない。そうなれば、一刻も早い処置が必要だ。
「う、うん、わかった⋯⋯。で、でもタク、それ、ど、どうしたの⋯⋯?」
声をかけられたハルは戸惑いつつも首を縦に振るが、同時により強い戸惑いを見せながらタクの腕を指差した。
なぜならば、低く構え臨戦態勢を維持するタク、その袖から見える腕が、赤黒く変色し光沢を帯びたものに変貌していたからだ。理解の追いつかないまま次々と訪れる状況に直面するハルには気の毒だが、この腕についても悠長に説明する暇はない。
「説明は後でする。とりあえず怪我とかじゃねえから安心してくれ。んじゃ、カルムのこと頼んだぜ!」
そう言い残して、タクは再びラキラの元へと駆け出した。対するラキラも、変貌したタクの両腕に「わぁお」と目を輝かせながら視線を向けていたが、タクが距離を詰めるや否やその瞳に再び凶気が宿る。迎撃するつもりなのだろう。
タクの赤黒い拳は焼けた鉄のように赤熱し、そして火を噴く。タクはその燃え盛る拳をラキラの腹目掛けて打ち出すが、身をひねったラキラに躱された。続けて彼女はお返しの拳を振るい、これまたタクは地面に向けて炎を吹き出すことで体を高く浮かし避ける。
宙に浮いたまま、タクは炎を纏わせたままの手でラキラの顔面を掴み、炎の勢いを強め真っ赤な炎をゼロ距離で浴びせにかかった。勢いよく噴き出る火炎が暗い木々の輪郭をくっきりと照らし出すが━━、
「アハハっ、あっつーい! でもそんなんじゃダメダメだよぉ?」
なんてことはない、といったラキラの表情が燃える五指の隙間から現れた。と思えば、彼女は顔を掴んだタクの腕を掴み返し、そのまま腕を強く引きながら膝をタクの鳩尾へと突き刺した。
「ごふっ⋯⋯!」
内臓すら潰れそうな衝撃に口から空気を漏らし、タクは苦悶の表情を浮かべる。だがそれもお構いなしと、ラキラは乱暴に腕を振り抜いてタクの体を投げ捨てた。
巨大な遠心力によって血の集まった体の端々が、今にも破裂しそうな感覚を覚えたのも束の間、背中から木の幹に激突し、重力に従って地面に落ちる。全身がビリビリと悲鳴をあげているが、気合いで黙らせてタクはどうにか体を起こし、顔を上げた。
「打撃もダメで炎もダメ、ね⋯⋯。こりゃ有効打が無さそうだけど⋯⋯」
打撃と炎熱、これがタクのメインウェポンだ。しかし、本気で顔を殴り、焦がす勢いで焼いたというのに、ラキラには大したダメージが入っていないように見える。一方でラキラの放つ攻撃はどれもが強力で、直撃を食らえば負傷は避けられない代物である。このまま戦えば良くてジリ貧、さらに言えば悠長に戦えるような余裕もない。
そんな脅威的なパワーとタフネス、それから身のこなし。それらは彼女の身体強化魔法がもたらしているものであろうが、それだけではない。それだけでは説明がつかない、たった一つの違和感がある。
「━━重いな」
殴った時の感覚、殴られた時の感覚、掴んだ時の感覚、掴まれた時の感覚。そこから伝わるラキラの質量が、外見から見て取れるそれより遙かに大きいのだ。まるで分厚いゴムのような質感と、そびえ立つ巨木を殴りつけたような重み。だが、『身体強化魔法』によって向上するものはあくまで『筋力』や『身体強度』であって、『重量が増す』なんてことはあり得ない。
「でも、砂糖入れなくても甘いハーブティーがあるんだ。『身体強化魔法』じゃなくても体が強くなる魔法があったって不思議じゃねえ」
つまり、ラキラは身体強化魔法とは別の魔法を応用することで、高い身体能力を生み出しているということ。その秘密を解き明かすことこそが、彼女を打破するためのカギになるだろうとタクは確信する。ただし、そのためには━━、
「まだまだ情報がいる」
一歩間違えれば命を取られかねない攻防を続け、ラキラの魔法を特定するためのヒントを集める必要がある。そう結論付けたと同時、タクはちらとハルのいた場所へ目を向ける。だが既にその姿は見当たらない。きっとタクの言いつけ通り、カルムの元へ向かってくれているのだろう。
一方で、誘拐犯たちの方も、ルナと呼ばれた少女が気絶した黒服の男、ウェルを引きずってこの場から少しでも遠ざかろうとしている。タクから離れてウェルの傷の処置を行おうとしているのだろう。一応、死に至らしめることのないようタクも力の加減はした、たが、それでも人体の急所である顎を砕く勢いで殴ったため、そうそう復帰することも無いはずだ。
即ち、タクは今、ラキラとの戦いにだけ集中できる。好都合だとタクの口の端が僅かに上がるが、そう感じていたのはタクだけでは無かったらしく、更にラキラの笑みが深くなる。
「これで邪魔者は入らなそうかなぁ。女の子後ろに庇ってたら思うように動けないもんねぇ、お互いにぃ。これで心置き無く、アタシらの踊りに付き合って貰えるかなぁ?」
「ハッ、舐めてもらっちゃ困るな。別に守るやつがいようがいまいが俺のパフォーマンスになんら影響はねえよ。ま、お前はお仲間に無様な姿晒さずに済んで良かったかもな」
ラキラの言葉にタクはわざと煽るような口振りで返す。これも勝機を増やすための手口の一つだ。頭に血が上り冷静さを欠いた相手は直情的で御し易い。ただでさえ手強そうな相手であるため、少しでもリズムを崩すことができれば御の字と言ったところだが━━、
「アハっ、やっすい挑発ぅ。ダメだよぉ? 女の子に酷いこと言っちゃあ。かぁんたんに傷付いちゃうんだから」
この手の策が通じる相手とも思ってはいなかったが、やはりそう簡単に手のひらの上では踊ってくれないらしい。そもそも、どちらかと言えば現段階で無様を晒しているのはタクの方であって、効果がないのも当然ではあると言えた。しかしその一方で、今こうして会話できている状況は一種の好機とも呼べる。
「よく言うぜ。お前らこそ女の子一人にご執心のくせしてよ。ただの人攫いにしちゃ用意周到も良いとこだ。一体何が目的だよ」
少しでも手足を止めて話ができるのならば、その間にできるだけ相手方の情報を手に入れておきたい。敵が気を利かせてくれる可能性は低いが、ダメで元々とタクは尋ねてみる。
「教えるわけないでしょお。というかぁ、アタシらもよく知らないしぃ、ぶっちゃけどうでもいいんだよねぇ。アイツらが勝手に盛り上がって面倒な仕事押し付けられただけだからさぁ。おっとぉ、いけなぁい」
そんなこちらの思惑を知ってか知らずか、ラキラはニタリと笑いながら返答し、口を滑らせたとでも言いたげにわざとらしく口に手を当てる。だがその内容と軽薄な態度は、タクの腹の居所を悪くするのに十分であった。
「よく知らなくてどうでもいい、ね。そんな軽い動機で人が殺せんなら、てめえもろくな人生歩んでこなかったんだろうな。同情してやるよ」
自ら挑発を仕掛けたはいいが、却って自分の頭に血が上ってしまっている。そのことを自覚はしつつ、尚もタクは苛立ちを言葉に乗せてぶつけてみせた。
「まぁた挑発ぅ? アタシらを怒らせるにはまだまだ安いねぇ。ほらぁ、そうやってお茶濁してないでさぁ、早く始めようよぉ。まさか極上の舞台を目の前に、お預けだなんて言わないでよねぇ」
「⋯⋯極上の舞台?」
だが不機嫌なタクの言葉などどうでもいいと、女はその瞳をやけに輝かせた。頬は紅潮し、笑顔が次第に恍惚としたものへと変わり、その不気味さにタクの背筋に薄気味悪い感覚が走る。そんな嫌な予感を裏付けるように、ラキラの口が開かれた。
「そうだよぉ。だってあんたぁ、━━『龍人』でしょぉ?」
「⋯⋯へえ、まさかお前みたいなやつに見破られるとは思わなかったな」
「アっハハぁ、その腕晒しといてどの口が言ってんのぉ? どう見たって人間じゃないのにねぇ」
そう言われ、タクは彼女の言及した己の両腕を見やる。
━━『龍人』。
それは『亜人』と呼ばれる、人間と異なる特徴を宿した人類。そのうちの一種であり、この世に存在する人類の中で最も希少、かつ最も強大な力を持つ種族の事だ。
ラキラが見抜いたとおり、タクは『龍人』であった。赤黒く変色したタクの肌は、目を凝らして見れば細かい鱗によって覆われていることが分かり、爪も鋭く伸びたように外見が変化している。
龍人は基本的に普通の人間と同じ姿をしているが、必要に応じて身体を変化させられるという特殊な生態を持つ。そして変化したその姿は爬虫類、太古に存在したとされる恐竜、ひいては想像上の生き物である『龍』を連想させるものであり、腕をそのように変化させたことでタクが種族としての『人間』でないことを証明していた。
「つっても、普通は見抜かれないもんなんだけどな」
人間として暮らした方が好都合なことが多いため、タクは己の種族を人間と偽って暮らしているが、そもそも龍人は希少な種族であるが故に、人前に姿を現す者はほんのわずか。通常時は人間とまるっきり同じ外見をしていることも相まって、変化時の龍人を目にした人もそういない。そのため少し腕を変化させたくらいで種族バレするようなことは今までなかった。
「確かぁ、最強の亜人、だっけぇ? 昔絵本で読んだことがあってねぇ、そんな凄い種族と踊れたらどんなに素敵かなぁって、ずぅっと思ってたんだぁ」
ラキラはその目を輝かせ、浮き足立つその様はまるで純真無垢な少女のよう。しかし尚も宿る凶気と脅威が、彼女をそうだとは思わせない。
「悪いけど、踊りに誘う相手は選んだ方がいいぜ。お生憎様、こちとら教養皆無なもんでね。ステップなんざ知らねえから、足踏まれまくって痛い思いしてもしらねえぞ」
「アっハハぁ、なぁんか勘違いしてるねぇ。別にアタシらはアンタと踊りたいわけじゃないよぉ。アンタはアタシらに踏みつけられる、ただのステージでしかないからさぁ!」
軽口を叩くタクへ、我慢できないといったように悪趣味なセリフを吐き、ラキラが飛びかかってくる。
近接戦闘は圧倒的にタクが不利。接近を許す訳にはいかないと、タクは身を翻して避けながら、距離を取りつつ放射状の炎熱を放ち、ラキラの背面を焼きにかかる。
「アハぁ、あっついねぇ。でもぉ、まだまだアタシらを楽しませるには足りないかなぁ!」
しかし、やはり炎熱の効きは悪いようで、ラキラはゆっくりと振り返り、炎の中でじわじわとタクとの距離を詰めてくる。どう足掻いても勝ち目は薄いと思えるような、まさに窮地といった状況。だが、ハルとカルム、二人の命を背に抱えている今、しっぽを巻いて逃げる選択肢など存在しない。
ならばここでやるべきことはたった一つ。この二十年余りの人生、これまで築き上げてきた経験と知恵を持ってして、目の前の相手を打ち負かす。それでも越えられないような相手だというのならば、乗り越えるために必要な足場を今この場で拵えてみせよう。
「人を踏み台にしようってんだ、踏みつけられる覚悟もできてんだろうな!」
「なになにぃ? やっと盛り上がってきた感じぃ? イイじゃん、今夜は本当に楽しくなりそうだねぇ!」
━━月は雲に隠されて、闇を纏った木々の隙間。猛る龍人と躍る凶女が、激突する。
*****
「はぁっ⋯⋯! はぁっ⋯⋯!」
根の露出した土を踏みしめながら、ハルは森の中を走っていた。タクに言われるがまま、攻撃を受けたカルムの元へ向かっているのだ。正直に言うと、今何が起きているのか、未だ理解できていない。そもそも襲われたと思ったら助けが入り、助かったと思ったら再び新たな刺客の登場と、起きる出来事の数々が突然なのだ。理解できなくても当然なはずだと思う。
そもそもカルムが攻撃を受けたと言うことすら、ハルは認識できていなかった。ただ、そんな攻撃を行ったのが突然現れたラキラとかいう怖そうな女性であるということはかろうじて分かっていて、そんなハルの認識の範疇を超えるほど強大な相手にタクが立ち向かってくれていることも分かっている。
ならば、そんなタクから託された役目を最大限果たすことが、今のハルに課せられた使命であるとも理解する。そう意気込むと同時、ハルは恐らく大きな衝撃によって亀裂の入った樹木と、その根元に倒れているカルムを発見した。
「大丈夫ですかカルムさん! しっかりして下さい!」
カルムのそばに寄ったハルは大声で呼び掛けるが、木にもたれかかったままのカルムからは応答が無い。また月明かりも乏しいため、カルムの様子が全くわからない。
だが幸運なことに、今まで月を隠していた雲が晴れてきた。ゆっくりと月光が近づき、やがてカルムの体を照らし出す。
━━そして現れた光景を目の前にして、ハルは声を失った。
カルムの頭や腕を始めとした、彼の身体の至る所からおびただしい量の血が流れ出ていた。その血液は彼の下の地面にまで染み込み、赤黒いぬかるみが生まれている程だ。かろうじて息はしているが、攻撃を受けたと思われる右腕の負傷が特に酷く、骨までもがひしゃげ原型を留めていない。
木に強く打ち付けたのだろう。頭から流れる血がカルムの顔を赤く染めているが、当の本人は意識を失っており、それを意に介すこともできないでいる。
こんな大怪我を前にして、一介の町娘であるハルにできることなどたかが知れていた。
「と、とにかく止血!」
それでも、カルムの体を蝕む出血を止めるための最善を尽くさねばならない。ハルは身に着けていた上着を脱ぎ、特に酷い腕の傷口に当て圧迫する。だが当然、それだけの処置でどうにかなるような傷では無い。大量の血液を失ったカルムの肌は既に冷たくなっている上に、傷口を抑える上着はすぐに血で赤く染まる。布に収まりきらず溢れてしまうほどの量だ。
━━私の、せいだ。
「どうしよう⋯⋯、どうしたらっ⋯⋯!」
そんな中、ハルが他にできることなど、せいぜい自分の無力を嘆くことだけだった。
本当に悪いのは、ハルを狙った者たちであることは分かっている。しかし、自分が狙われたせいで、助けてくれようとした人たちの命が危険に晒されていることは事実。そこに責任を感じずにはいられない。
もしもタクの荷物を届ける時、他の道を歩いていれば、もしも普段からもっと気をつけて行動していれば、もしも路地裏に入る前に誰か助けを呼んでいれば、このような事態は避けられたはずだったのに。自身が取った選択によって、この状況が引き起こされたものだと理解して、膨れ上がる罪悪感が重たく圧しかかる。
「ごめんなさいっ、私のせいでっ⋯⋯!」
自責の念に潰され、謝罪の言葉が口をついて出てくるが、そんな行為には何の意味も無い。自分が引き起こしたことならば、自分でどうにかしてみせろ。尻拭いを他人に任せておいて、自分はされるがままにしてるだけなんて許されていいはずがない。
といって、何の力も持たない今の自分に何ができるというのか。
傷口を押さえる手に力が入る。悔しくて、情けなくて堪らない。目から涙がこぼれ、手元に雫が当たる。非力な自分が嫌いだ。いざという時、役に立てない自分が恨めしい。周りに不幸を振り撒いてばかりの自分が憎い。
自己嫌悪の感情が爆発するように心の中を覆い尽くしていく。でも━━、
「諦めちゃ⋯⋯、ダメ⋯⋯」
それは到底、逃げ出していい理由にはならない。ここでハルが諦めることは、カルムの命を捨て、タクの覚悟を犠牲にすることと同義。それをしてしまえば、ハルは本当に己を許せなくなる。泣き言を言う暇は無い。今、ここで、ハルがカルムを救うのだ。
「━━」
そう決意と覚悟を決めた時、ふと自身の中心から熱いものが湧き出てくるような感覚がした。その熱はぐるぐると渦を巻いて、ハルの中心から次第に体全体に広がっていく。
やがて胸へ、腕へ、指へ。全身を巡る熱はついにハルの中に収まらず、布越しにカルムの傷口に触れている指先から溢れ出した。
溢れ出した熱は青色の淡い光を放ち、傷口からカルムの体内へと入り込む。すると徐々に、ひしゃげた骨は軋みながら正しい位置へと戻ろうとし、裂けた肉が糸を紡ぐように結合を始める。じっと見ればようやく分かるほどの早さで、しかし確実に、カルムの傷が癒えていく。感覚的に、ハルはそうだと分かった。
「これって⋯⋯、」
人の傷を癒す輝き、と形容できる現象。そんなものは科学だけでは説明がつかない。しかし現に今、ハルはそれを行使している。これはまさしく『不可能を可能にする力』。即ち━━、
「━━魔法」
その二文字を口に出し、ようやく自分が魔法を行使しているのだと理解した。今まで使えていなかったはずの魔法、それがなぜ今になって使えるようになったのかは分からない。
だが、今そんなことはどうでもいい。ハルがするべきことはこの力でカルムの命を死の淵から救うこと。ハルは目元の雫を拭い、そして己を鼓舞するように言い放つ。
「━━私が、カルムさんを救うんだ。もう誰も、失わないために」
湧き上がる全能感が背中を押す。ハルの心に絶望の陰りは無く、希望の光がその瞳に映る。
*****
辺りに響くのは、腹の底を響かせるような轟音。闇に包まれた森の中を、眩く輝く赤と血のように暗い赤がそれぞれの軌跡を描き、交差して、衝突する。方や炎を身に纏わせたタク。方や赤黒い長髪をたなびかせるラキラ。瞬きの合間に二手三手と攻防が行われるような攻防が繰り広げれ、戦いは熾烈さを増していた。
タクの狙いはラキラの魔法のより詳しい情報。それを得るための隙や時間を稼ぐため、徹底して距離を取りながら火炎を放つ。放射状の炎熱がラキラの体を包み込むが、その中をゆっくりと歩くラキラの表情はまるで涼しげだ。
「マジで効かねえな⋯⋯!」
「結構アツいとは思うけど、まだまだ温度が足りないかなぁ。でも、服が焼けないのは不思議だねぇ。もしかしてぇ、燃やせるものが選べたりするのかなぁ」
「ははっ⋯⋯ご名答だよ!」
タクは炎龍の力を宿す龍人。それ故自由自在に炎熱を操ることができ、熱したい物だけに熱を伝えるといった芸当も可能だ。故に延焼のリスク無く、こうして森林の中でも炎を存分に扱うことができる。
だが、こうして炎熱に耐性がある者を前にすれば、その力も真価を発揮できない。高温であるはずの炎の中を通り抜け、やがてラキラはタクの目と鼻の先へと接近する。
それに対し、タクは再び後ろに跳んで距離を取りながら、より火力を上げた炎を放ってみる。しかし、ラキラは放たれた火炎を躱し、一回の踏み込みでタクとの距離を詰め、己の間合いへと持ち込もうとする。
「ちぃっ⋯⋯!」
タクは落ちていた手のひら大の石を赤黒い手で握り砕き、接近するラキラへ投げつけ目潰しを行った。龍のような姿に体を変化させる『龍化』を行った部位は、文字通り龍を想起させるような能力を獲得し、常人とは一線を画した身体能力を発揮することが可能となる。龍化した腕であれば石を握って砕くことも容易だ。
「アっハハぁ!」
だがラキラはタクの飛ばした石の礫を最小限の動きで回避し、大した隙も晒さないままタクの懐へと迫る。そして、顔面目掛けて拳を振り放った。対するタクは首を傾けて攻撃を躱しつつ、炎を纏わせた拳をカウンター気味にラキラの横っ腹へと打ち込んでみせる。しかし、大した効果も無くラキラは更なるカウンターとして回し蹴りを放ち、タクの胴体に直撃。タクの身体は大きく吹っ飛ぶこととなる。
「うっ⋯⋯ぐ⋯⋯!」
だが、龍化したタクの身体に纏わる赤黒い『龍鱗』は飛び抜けて頑丈であり、あらゆる衝撃に対して耐性を持つ。過去には至近距離の砲弾程度なら無傷で済ませられた経験もある程だ。その鱗により、タクの身体内部へのダメージは最小限に抑えられた。だが、それでもラキラの攻撃を食らった箇所の鱗は砕け、抑えきれなかった衝撃がタクの身体に染みていく。
歯を食いしばりながらその痛みを堪え、前を見る。飛ばされているタクの着地地点には先回りしたラキラが待ち構えていた。そしてそこへタクの身体が辿り着き、ラキラが追撃の蹴りを放つ━━、
「━━っ!」
━━その寸前、タクの体が空中に浮いたままピタリと静止する。空振りによって攻撃のリズムが崩れたラキラ。そこを狙って炎による推進力を乗せ、体を翻したタクの踵がラキラの頭へぶち込まれた。
「うぐぇっ⋯⋯!」
「━━!」
その一撃により、ラキラがようやく隙を晒した。その間に宙に浮いたままのタクの身体は空中を滑るように移動し、再びタクはラキラから距離を取ることに成功する。一方でラキラは攻撃された頭をさすりながらこちらを見て、余裕綽々といった態度を崩さずに笑ってみせた。
「イっタタぁ。ハハっ、龍人って空も飛べるのぉ? もうなんでもありだねぇ」
「とんでもねえやつに言われたくねえな。それに龍は飛ぶもんだろ。文句言われても困るね」
これも龍人の持つ能力の一つ、『飛行』だ。これを行使している間は重力に縛られない移動が可能となる上、慣性を最小限に抑えることもできる。しかし、そう万能な力ではない。
「もうここに来るまでの間、とっくに長い時間飛んじまってる。そう易々と使うわけにはいかねえな」
グルノアットからこの森へは一般的な馬車を使っても丸一日以上かかるほど離れている。その距離的問題を解決するために、タクはこの能力を行使し、その日の内にここまで駆けつけることができた。だが当然、強力な能力にはそれに伴う代償が存在する。
人の体内に存在する『魔力』は魔法の行使によって消費される。もしもその『魔力』が尽きてしまえば、魔法の行使は不可能となり、その時点で敗北が決定するようなものだ。そして、『飛行』は行使すると著しく魔力を消費してしまうのだ。もう既に魔力の残量は底が見え始めているため、できる限り気を配らなければならない。
ただでさえ強敵を相手にしているというのに、魔力切れまで考慮する必要があると考えると絶望的であるが、諦めるにはまだ早い。今の攻防により、タクは一つ光明が見いだせた。
「今の一撃は、やけに手応えがあった」
これまでの攻防の中、タクの攻撃はラキラの身体の絶大な頑丈さと莫大な質量のせいで、微塵もダメージを与えることができなかった。しかし、今の一撃は違った。ラキラが怯み、またその際にタクの感じた重みも、今までよりいくらか軽いように思えたのだ。
「カウンターが効くのか効かねえのかよく分かんねえな。攻撃に使ってねえ部位は守りが薄いとかか? 確証はねえが、そんなところな気がする」
ようやく、攻略方法のようなものが見えてきた。底無しの泥沼から這い出られそうな感覚。期待感が身体に漲り、タクの瞳に宿る闘志はより一層強まった。だが━━、
「体もだぁいぶ温まってきたしぃ、そろそろペース上げてこうかなぁ」
体を軽く曲げ伸ばし、準備体操のような動きをした後、宙を舞うように跳んだラキラが岩の上に立ち上がった。大きな攻撃を仕掛けてくると踏んだタクは正面を向いて構えを取る。
しかし、気が付いた時、視界にラキラの姿は無く━━、
「は━━」
「━━こっちだよぉ」
━━背後から聞こえた嘲笑が、タクの声と重なる。
「━━ぶっっ!」
振り向こうとしたタク。だが頬骨を殴られ、その動きは阻止された。タクの頬を打ったまま振り抜かれる拳。ラキラの膂力を余すところなく伝えられたタクの体は、さっきまでラキラの乗っていた岩に激突し、その衝撃は大岩を半壊させた。
身体の方は『龍化』していたため激突によるダメージは抑えることができた。が、拳を食らった顔の右側に響くような痛みが走る。骨が砕けていてもおかしくないだろう。
「こっから全力出しますよ⋯⋯って訳か」
「まだまだこんなもんじゃないよぉ。さぁ、どんどんスピード上げてくからねぇ!」
今のラキラの速さはこれまでの比ではない。かろうじて目で追える程度だった速度が更に増し、完全に捉える事ができなかった。
だが碌な思考をする間も無く、タクの視界から再びラキラの姿が消える。次の瞬間には、その速度を乗せた迫撃が襲いかかるのだ。
━━物体の高速移動に空間が追いつかず、直線状のブレを伴って世界が揺れる。
腹の底に響く重低音。既に半壊していた大岩は更なる衝撃を受け、今度は完全に粉砕された。同じくその威力を真っ向から受けたタクの体は当然にして無惨な物となる。━━だが、受けていなければ話は別だ。
ラキラは岩のあった場所の少し先にいた。己のスピードを岩にぶつけ、砕きながら進んだ結果だ。彼女は笑みを浮かべて振り返り、視界に映ったものへ声を投げかける。
「わぁ、いかつい顔してるねぇ。もしかしてぇ、今まで出し惜しみしてたぁ?」
「⋯⋯してたって言ったら、悔しいか?」
そこにいたのは、彫りの深まった目の周りに龍鱗を纏い、黄金色の瞳孔をその眼に宿したタクだった。
━━『龍化』の恩恵は感覚器官にも作用する。
龍と化した眼、即ち『龍眼』によって強化された視覚。これまでを凌駕する動体視力と、同じく強化された情報伝達及び処理機能を用いることで、タクはラキラの攻撃を回避したのだ。
「ぜぇんぜん! むしろ燃えてきたって感じぃ!?」
猛りながらタクへ飛び掛るラキラ。タクの『龍眼』は数段速さの増している彼女の動きを捉え、的確にその攻撃を回避することができる。
「できることなら使いたくなかったんだがな⋯⋯!」
『飛行』と同じように、感覚器官の『龍化』はその他の器官と比べ魔力の消耗が激しい。ただでさえ消耗していたタクに残された時間は少なく、この龍眼の行使によって短期決戦へと持ち込まなければならなくなった。
まだラキラの能力すら明かせていない。圧倒的に不利な状況に陥ってしまったと言わざるを得ないだろう。そして相手の攻撃を凌ぎ続けているだけでは勝ち目は薄くなる。
「つまり、攻めなきゃ勝てねえってことだ!」
半ば自棄糞気味にタクは両腕から嚇々とした炎を吹かし、ラキラを左右から挟み込むが、当然の如くラキラはその中を涼しげな顔で進む。だが、この程度の攻撃が効かないことにはもう驚かない。
『龍眼』のおかげでラキラの攻撃は見切ることができる。攻撃の際、再び攻撃に使用していない部位に反撃を当てられれば、またダメージを与えられるはず。タクは目を凝らし、彼女の攻撃に備える。
タイミングは決して外せない。集中を深め、炎の中をゆっくりと、こちらへ歩いてくるラキラをじっと見つめる。その中で、タクの脳裏に一つ疑問が湧いた。
━━なぜ遅い?
さっさと飛びかかってくればよいものを、ラキラは炎の中をゆっくり、焦らすように歩いている。まるで、自分には効いていないとわざわざアピールするかのように。
「もしかして、全身が重い時は速く動けねえってことか?」
先程攻撃が通じた時を思い出してみる。彼女が行っていた攻撃は蹴りで、タクが反撃を当てたのは彼女の頭部。攻撃に使用した部位はいつも通りの超重量だったとすると、ダメージの通じた部位は魔法の効果が弱かったと考えられる。ではなぜ、攻撃時に魔法の効きが弱る部分があるのか。
恐らくは、ラキラが身体能力を高めるためには必ず体の質量も上げる必要がある。しかしそれではスピードを発揮できないため、魔法を行使する部位を絞っていると考えるのが妥当だろう。
また、タクの炎熱はいくら頑丈な体でも生身で受けて無傷でいられるような温度では無い。つまり、炎熱を受けるためには全身に魔法を使用している必要があるということになる。
「ってことは、炎の中じゃあいつはスピードを出せねえ⋯⋯!」
弱点とまではいかずとも、炎熱が決して効いていないという訳では無さそうだ。そして、この特徴は、必ずラキラの魔法のタネと関係しているはず。
ひとまず、タクはラキラの歩くペースに合わせて後ずさり、そして炎の火力をどんどんと上げていく。これで何かしらの反応を見せたなら、タクの仮説は正しいと言えるだろう。
じっとラキラを睨み、決して目を離さない。少しのサインでも逃す訳にはいかないからだ。
するとラキラはその足を止め、余裕の無さそうな、シワのよった眉間を初めて見せた。そして、今度は先程までと同じ猛スピードで、こちらへと突撃をしかけてくる。
咄嗟に『龍眼』で飛んできた拳を捉え、その拳が当たるであろう箇所に両手のひらを置く。先程と同じように、接した拳を押し返すように力を込め、その力で自分の体を大きく押し出し、ダメージを相殺する代わりに体は大きく吹き飛ばされる。
だが今回は地面に四肢をしっかりと突き立て、地面を削りながら減速。樹木へ無様に叩きつけられることは防いだ。
「━━ビンゴだ」
タクの思惑通り、ラキラの見せた反応は炎熱が有効に働くことを示すものだった。おまけに、タクの『龍眼』は焼けたラキラの肌を捉えている。やはり、超高速で動く場合、炎熱への耐性は捨てなければならないようだ。
「なんだよ、こっちが圧倒的不利かと思えば、意外とお前の天敵らしいな、俺」
「アハハっ。バレちゃったぁ。まぁ、このくらいは仕方ないよねぇ」
体のあちこちに熱傷を負ったラキラだが、表情にはまたもや笑顔が戻っている。そのせいか、やっと傷を付けることができたというのにどこか手応えが無い。
━━それもそのはずだ。
「おいおい、嘘だろ⋯⋯」
次第に、ラキラの傷が薄まっていく。ぼんやりと、爛れていた肌が人肌の色に近付き、最終的には傷の無いものへと元通りだ。
「なんだよお前、ただでさえクソ硬いのに回復もできるとか、そりゃズルじゃねえか。こちとらヒーヒー言いそうになりながら付けた傷だったってのによ」
「ざぁんねん。勝手な期待、裏切っちゃったねぇ」
嘲笑い、挑発を仕掛けてくるラキラ。先程の意趣返しとしてタクの頭に血を上らせようのしているのだろうが、ただ単に性格が悪いだけにも思えて仕方ない。
だが発想を変えてみれば、ついに相手にその回復のような能力を使わせるまでに至ったということだ。有効打を見つけられたのだから、これでようやく攻める手立てを講じることができる。あとはどうにかして再生も追いつかない高火力をぶつけ、ラキラを戦闘不能にさせるだけ。
弱点の割れた彼女はタクの攻撃をより警戒するだろうし、残された時間もそう多くはない。だが、それでもやらねばタクは敗北し、ハルにまでラキラの魔の手が届くこととなる。その最悪の結末だけは絶対に回避しなければならないのだ。
本日何度目か分からない戦闘態勢の構え。すぐに駆け出せるよう姿勢を低くし、開いた両手を軽く前へ突き出す、いわゆるファイティングポーズだ。
この一幕で決着をつける。そう意気込みラキラを見やるが、対するラキラの視線がタクのものと重ならない。その視線は別の方向に注がれていて━━、
「━━なぁに? あの光」
タクも、ラキラと同じ方向へ目を向けた。夜空の明かりの大部分が遮られるこの林には、よく目を凝らさなければ物を認識できないほどの暗闇が広がっている。だが、その中に一箇所、青白い淡光が光り輝いているのが見えた。
「あれは⋯⋯」
━━魔法の中にはそれが持つ力とは別に、発光を伴うものがいくつか存在する。
タクたちの目に映るその青白い光は、『治癒魔法』を行使する際によく見られるものと酷似していた。
そして光の方向は━━、
「カルムが吹っ飛ばされた方⋯⋯!」
その方向に、治癒魔法の光が見えているということは、その魔法の行使対象は恐らくカルム。そしてその魔法を行使している術者は━━、
「━━治癒魔法ぉ? 折角殺せそうだったのにぃ、邪魔しないで欲しいなぁ⋯⋯」
ラキラの口から飛び出したのは煩わしさを含んだ吐息。タクはそこに含まれた殺気を見逃さなかった。瞬く間すらなく、タクは次の行動に移る。
予備動作がほとんど無いまま走り出したラキラ。タクは彼女の放つ殺気からその行動を予期したため、二人が動き出したのはほぼ同時だ。
一瞬にして二人は木々の隙間を通り抜ける。目にも止まらぬラキラのスピードに対抗するために、タクは惜しまず『飛行』を行使し速度を上げていく。二人の距離は付かず離れず、若干光に近かったタクの方が十数歩リードしている。その光に近づく僅か一瞬の中、その中心にいるものがタクの瞳に映った。
それは倒れたカルムと、その傍らでカルムの傷口を、発光する手のひらで抑えるハルの姿だった。勝手にハルに魔法は使えないと思い込んでいたが、隠していたのだろうか。だが『魔法』は生まれ付き使える者もいれば、なにかをきっかけに後天的に目覚める者も多い。となれば、土壇場で『治癒魔法』に目覚めたという可能性もある。
とにかく、ハルが魔法を行使している事実に、さほど大きな驚きは無い。
ハルたちの姿を捉えたタクは咄嗟に彼女らとラキラの間に入るよう体を滑り込ませ、体を反転させる。背中から炎を吹き出して勢いを完全に殺し、そして行く手を阻む壁として、絶大な速度を伴ったラキラの突進に真正面から立ちはだかった。
「━━んぐっぅうう!」
タクとラキラは互いの手を掴み、力比べのように押し合う。タクは頭を除く体の全てを『龍化』させ、ラキラの勢いを止めることのみに全力を注ぐ。
だが、それでもまだ力関係はラキラと互角程度、それどころか先程の加速による勢いのついたラキラの方が優勢だ。
弾き飛ばされないように重心を下に落とし、両足を地面に突き立て、そして炎をより強く吹き上げることで反作用による推進力を獲得する。ラキラに押し込まれているタクの体は猛烈な勢いで土を抉りながら後退。しかしタクの抵抗の甲斐あってか、次第にその勢いは弱まっていく。
「アっハハぁ! イイじゃん! もう出し惜しみなんてできないからねぇ!」
真っ向からの力比べ。じりじりと押し出されるタクだが、そのスピードは格段に落ちていき、ハルたちのすぐ目の前で両者の力が拮抗する。
少しの気も緩められない状況。タクは力が抜けてしまわないよう踏ん張りつつ、ハルたちへ目を向けた。
タクの背から吹き出る炎を浴び、驚いた顔でこちらを見るハル。だがこんな状況でも、タクは炎の熱をコントロールしている。驚かせることはさせても、タクの炎が彼女らを焼くことは決してない。
「ちょっとぉ、アタシらがいるのに余所見なんて、感心しないなぁ全く!」
「束縛の激しい女は今どき流行らねえぜ! 悪趣味も程々にしておきな!」
ラキラの力が更に増した。それによって均衡が崩れ、ついにタクの足は後ろへと押し出され始める。もう力押しでは及ばない。そう見たタクは、更に足から地面へと炎を噴きつけた。足元一面が炎に包まれる中で、急にラキラが体のバランスを大きく崩す。
「地面が溶けたぁ!?」
ラキラが足元を確認する。ラキラが踏みしめていたはずの土は赤熱した流動体となり、さながら溶岩のような姿に変わっている。流石にこの現象は予想だにしていなかったのか驚いた顔を見せるラキラに、タクはしてやったりといった表情を浮かべた。
タクの炎は、熱を伝えないだけではなく、物体の一部分だけに熱を与えるという芸当も可能だ。よって、ラキラの踏みしめていた地面だけを高熱によって溶かし、大地がラキラの体を支えられない状態にすることで彼女のパワーを削いだのだ。
勿論、ラキラもすぐに体勢を元に戻そうとする。だが、生まれた隙は小さくない。そんなものを見逃すわけがなく、タクの足から噴いた炎は更に勢いを増して爆発。その反動と『飛行』を使い、タクはラキラの手を掴んだまま中空へと飛び立った。
ラキラが急にハルたちへ攻撃をしかけたのは、恐らくカルムの回復を妨害したいため。ならばできるだけハルたちからラキラを離すことが先決だ。
「でも分かっちゃいたがクソ重い! 腕が千切れそうだぜちくしょう!」
「デリカシーがないなぁ! 女の子は繊細なんだよぉ?」
繊細であってくれるならどれだけ良かっただろう。『龍化』したタクの体でも悲鳴をあげたくなる重さを腕だけで支えているこの状況はかなりしんどい。ましてやラキラは自重をさらに増加させ、『飛行』の力だけでは持ち上げきれない域にまで達する。
急速にタクたちの高度は低下、結局大した距離も稼げず着地した。すぐに体勢を直し、再びラキラと向かい合う。ラキラは今すぐにでもハルたちに飛びかかりそうな様子だ。
「おい待て、余所見は感心しねえっつったのはどっちだ。折角こっちも温まってきたんだ。最後まで付き合ってやるから、馬鹿踊りでもしててくれよ」
「アっハハぁ、ならぁ、お言葉に甘えちゃおうかなぁ。でもぉ、そろそろお開きかもねぇ。アンタのお仲間が目覚めちゃうと面倒だからさぁ!」
そう言うと、ラキラは今日一番の凶悪な笑みを浮かべ、そしてその輪郭がブレる。本気で仕掛けに来ると察したタクは龍眼でラキラの姿を追うが、ラキラは木の幹や枝に体を隠し、森そのものを利用して縦横無尽に駆け回る。
障害物に隠れられてしまっては龍眼もその性能を発揮できず、ラキラの姿を捉えられない。あちらこちらから彼女が踏み込んだ際に生じる重低音が鳴り響く中、タクは耳や鼻も龍化させた。音、匂い、気配を余すことなく感知して、ラキラの動きを追い、仕掛けてくるタイミングを伺うためだ。そうして全神経を集中させ、彼女の動きをどうにか補足する中、ついにその瞬間が訪れる。
「来る!」
高い木の幹から一直線、上空からタク目掛けてラキラが脚を振り放つ。落下の勢いに、振り放たれる脚の速度、そして異常なまでの質量全てが重なった一撃。その究極にまで達する暴力を受けてはならないと、強化した五感を持ってして、タクは回避に全神経を注ぐ。
「しぃっ━━!」
振るわれる凶脚。それに寸分の狂いなくタイミングを合わせ、タクはそれを避けた。明らかに全力の込められた一撃。それを外したのなら大きな隙が生まれるはず。そこを突くため、再びこの目でラキラの姿を捉えようとして、タクは自分が夜空に広がる星の輝きを見上げていることに気が付いた。
「⋯⋯は?」
おかしい。なぜ今、自分は星空を見ているのか。ラキラの方を向こうにも、意思に反して首が動かない。と思えば、勝手にぐるりと視界が移り変わり、木の根が張り巡らされた土が目に映る。そしてまた、星空。土を見て、星を見て。
ぐるぐる、ぐるぐると視界が巡り、回る。
やがて、土が次第に近づいて、頭を地面に打ち付けた。なぜか受け身は取れなかったが、されど大した衝撃は無い。まるで自分の体が軽くなったみたいだ。なんて思いながら転がって、木の根にぶつかって停止する。
ようやく視界が落ち着いた。目が回ったのか、倦怠感に顔を顰めて、体に力を入れて起き上がろうとする。だが、体に力が入らない。
否、力が入らないのでは無い。
━━力を入れる、体が無かった。
呆然とするタクへ追い打ちをかけるように、有り得るはずのない光景が目の前に現れる。
━━手を繋いで立つ、二人のラキラ。
そっくりそのまま、瓜二つの顔と体格に衣服まで同じ。一体何が起きているのか。そして、ただでさえ脳の処理が追いついていない状態だというのに、二人のラキラのすぐそばには、更なる異変が存在している。
それは他の誰よりも見慣れたモノの、人生で初めて見る姿だった。
そう、タクの瞳に映ったのは━━、
━━二十年余りを共にしたはずのタクの肉体が、首から上を無くし、静かに倒れ込む瞬間だった。




